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第10話

◇  キーボードの旋律が乱れる。小さく搾られた不協和音が響き、リズムを失いながら持ち直す。アカミネは演奏者の胸粒を指先で転がした。背筋が可動域から外れるほどに伸び、腹側に反る。 「ぁう……う」  手慰めに擂り、乳暈に埋めながら捏ねた。端末からメッセージを打ち終えると服の中の手を引いた。演奏は完全に止み、イスの上で少年は膝を擦り合わせる。欲情を隠そうとする姿が昔の恋人であり今の夫を思い出させ、肉の芯から熱くなる。演奏者がキーボードから手を下ろす。それと同時にアカミネは細いながらも筋肉のよく付いている腕を乱暴に掴むとベッドへ放り投げる。何をするにも鈍臭い淫売夫はイスに脚をぶつけ、フローリングに(つまず)き、ベッドに落ちた。起き上がろうとする様は取っ組み合いの喧嘩をする猫を彷彿とさせる。アカミネはしなやかな肉体の上へ覆い被さった。首輪代わりのチョーカーに付いたリング状の持ち手に指を通す。 「ユキムラさ…」 「黙れ」  両頬を片手で摘んだ。小さな唇が盛り上がる。 「婚約したこと、あの娘に話したのか」 「イノイお姉さん…?」  金色の眉が怯えた。硬くなり始めている前を撫でるとすでに潤んでいた大きな目がさらに濡れる。無垢を装い実際彼は無邪気でさえあったが、そこは色情を灯している。 「話して、ナイ……何モ、……」 「セックスをおねだりしたこともか」  罵倒に近い揶揄と嘲笑に他ならないくせ少年の若い器官は大きな手の下でさらに育った。足が忙しない。 「セックス、おねだりしたコトも……っぁ、」 「そんな淫乱で浅ましいことをしたなんぞ言えるはずもないな」  愛夫に触れているときの慎重さを失った長くしっかりした指は大胆に少年の兆しを急かす。 「あ…ぅ、ん」  少年は頭の上に手を伸ばしシーツを握った。腋が晒される。蒸れた甘い匂いがアカミネの鼻腔を(くすぐ)る。子供に等しい淫売夫に翻弄されている心地がして彼は少年の上から退いた。 「ぁ……っ」  小さな顔に嵌った大きな目と金色の眉が憐み乞う。そういうところは気丈に独りで耐えようとする愛夫と違った。 「俯せになれ」  淫売夫は何をされるのか、その命令だけで察したらしかった。下半身を裸にし腰を高くする。よく熟れている暗紅桜桃(ブラックチェリー)が戦慄いている。精壺に気を遣うことといえば壊さないことだけだった。ローションを垂らし壺口に塗り込む。手間のようで、アカミネはこの時ばかりは無心になれた。ぼんやりと愛夫のことを考え、体格も肌質も髪色も匂いも違う他人が配偶者へと変貌していく。俯瞰していられるひとときに耽り過ぎ、感じやすい少年が指だけで達してしまうこともあった。弾力のある窄まりに押し返され、結婚相手と認識してしまった指は無理強いをしなかった。丹念にローションを塗り込む。 「ユキムラさ……?」  泣きそうになっている目が肩越しにアカミネを向いた。惑いや怯えとは違う。怪物でも見るような眼差しだった。互いの目がぶつかった途端、少年は這って逃げ出してしまう。突沸の如く憤激するには頭が空になっていた。逃げた先で淫売夫はまた別の恐怖を持ってアカミネを見ていた。常温の中で寒がっている。 「ゴメンなさい……デス。びっくり、しちゃったデシテ…」  どこもかしこも(かじか)んでいる。虐げられた子猫を思わせた。健気に小さな口で笑みを作る。それが加虐心を煽ることも知らない。 「萎えた」 「今勃たさせていただきますデスカラ…」  彼はアカミネの元に戻り、まだ悴んでいる手がスラックスに伸びた。 「未来の旦那のも舐めてやったのか」  金髪がアカミネの股の間で静止した。チョーカーのリングを掴む。 「答えろ」 「しまシタ……」 「約束を破って?旦那好みに仕込まれたのか?」  水膜の中で瞳が泳いだ。鼻で嗤う。ゆっくりと硬さのある毛並みを撫でた。愛夫にするように頭の形に沿いながら、掌まで添える。淫売夫は息を乱した。 「俺にやってみろ」 「……っう、う…」 「ほら、未来の旦那がしたように俺を動かすといい」  手をぶらぶらと揺らした。おそるおそる指示に従う少年は手を繋いだ。アカミネは目を見張る。 「おでの手、腿に、押し付けてクダサイデス…」  言われたとおりにしてはみたが、不本意な甘さを窺わせた。下にある手は冷たく強張っている。それから口淫が始まった。いつもならば先端に接吻し、金色の目が媚びながら熱塊を口奥まで迎えていた。しかし淫売夫は根元から唇に挟んだ。先端部に向け小さな2枚の花弁に似た箇所でひとつひとつ確かに愛撫する。放浪穢多であることも厭わず求婚した相手に思考を馳せる。淫売であることは知っているのか。知っていたところで放浪穢多を厭わない時点で気にすることではない。淫売に近い人間ならばどこにでもいて、ほぼ淫売に等しい人間はタワーマンション上層階にも少なくはない。アカミネにとってこの世で清く美しく潔白なのは彼の夫以外存在しなかった。  時間をかけながら薄紅の舌が全体に満遍なく唾液をまぶす。婚約相手は早漏か感覚過敏を疑うほどだった。皮膚感の切り替わる括れも舌全体、裏表を使う。アカミネの好みではなかった。もどかしさに自らした要求を忘れて突き上げてしまいたくなる。 「ここで、ゴムしてって頼んだデス……デモ、ゴム持ってなかったカラ、おでの持ってるゴム嵌めたデスヨ……」  アカミネは面白くなって金髪をまた撫でた。優しい眼差しというものを作って、哀れなほどに穢らわしい子供に注いだ。予想を裏切らず彼は怯え、きょろきょろと目が動いた。 「ゴムも持たずにお前を襲おうとしたのなら、カラダだけだなお前は。お前はカラダにしか価値のない淫売だ。その中身のない頭に叩き込め」 「……おでは、カラダしか価値がない淫売デス…」 「1回言っただけでお前は優秀だったか?」  手を乗せた小さな頭が横に揺れた。アカミネは鼻を鳴らした。 「おではカラダしか価値がない淫売デス…おではカラダしか価値がない淫売デス……おではカラダにしか価値がない淫売デス…」 「そうだ。お前の人格には何の価値もない。具体的な数字を出すまでもなくな」  虚ろになった顔面に満足し、可憐な唇に焦らされた欲熱を捩じ込んだ。腰を突き動かすと鼻水と涎が溢れ出した。 「盲目な未来の旦那には何て言われたんだ?」  興味はない。ただ顔面を汚す淫売夫を見るのが愉快だった。彼は歯を立てないことにばかり意識をやって話を聞いてはいなかった。 「愛しているとでも言われたか?」  忌々しい多少小綺麗なネズミ同様に頬袋を陰茎によって膨らませる哀れな精壺を撫でた。 「答えろ」  屹立を口から出し涎が滴る口は腸内射精を終えた蕾門とよく似ていた。 「カワイイとか、好きっテ、言われたデス……」 「醜いお前に?本気にするなよ。(サカ)った男は誰でもそう言う。お前は醜い。忘れるなよ、お前は醜い!」 「知ってる、デス……分かってるデス……」  梅(プラム)の実のように丸みのある薄い瞼が降り、涙が千切れた。 「分かってないよ、お前は。まだ誰かに好かれているなんざ思っているんだろう?」  醜く顔面を汚す涙を拭いた。爪が肉を撫でるながら軽めに裂いた。夫と営むことはなくとも夫に触れる以上は爪に気を遣っていた。しかし今週は切り忘れている。何か言おうとした性液の吸入口を卑栓で塞いだ。 「ぁ……っぅぐっ、ぐぅぅ…」  口蓋垂を貫き、締まりの良い咽喉に留まる。噛まないよう努めているのか喉輪がきつく蠢いている。 「あの娘はお前のことも憎むだろうな」 「は、ひぃ……く、ンッぐ、くぅ…」  眉が大きく皺を刻み、涙の粒が大きくなる。自傷行為同然に少年は不埒な相手の楔肉で喉を刺す。 「カラダ目当てに好意を囁かれて、友人とやらにも恨まれる。お前はいつでも陰を歩く哀れで醜い放浪穢多だ。忘れるな」  アカミネは普段の倍は喋った。明日には舌と顎が筋肉痛になるだろう。落涙する淫売夫に誑かされている。彼を甚振るために態度に反して手付きは一房一房を流れを優しく整えていく。 「ぅ、うっぅっぅッ!」 「飲め」  手垢を擦り込んだ金髪を固定する。下生えに彼の顔面が埋まった。初発の脈動は大きかった。下腹部に広がる快感にアカミネは嘆息した。躾られた淫らな口肉が放精を促す。 「ん…く、んん……っ!」  嚥下のたびに搾られアカミネは最後の一滴まで残さずに淫売夫に飲ませた。彼の存在を忘れるほどに小さい鼻から憂愁を帯びた息が抜ける。それが少年に年齢以上の大人びた色気を添える。脚の間が膨らんでいた。 「触ってやる」  (とろ)んだ目がアカミネをきょとんとして見上げる。意地の悪い筋張った指は少年の胸の突起を摘んだ。水膜が白く照ると大きな目がさらに大きくみえる。胸粒を引っ張り彼を立たせ、ベッドに倒す。 「ぁ……あっぁ」  下半身を震わせ、彼は狼狽しながら胸板を突き出した。アカミネは散々にその敏感な実を捏ね繰り回し弄んだが少年が悲痛な声を漏らす段階に入ると突然手を離した。布越しに機械的な振動を感じた。 「ぁ……う、」 「帰る」  端末を確認すると夫の帰宅の連絡が入っていた。ドレスを買いに行くと、着る本人が無頓着な分も彼は楽しみにしていた。カナンは質素で簡易的な服装を好んでいたが、妹分に対しては正反対で瀟酒だったり流行物を持たせた。忠犬と同等の彼女は多少の不便があろうと主人に尻尾を振って着こなす。今回もカナンの趣味が光るドレスを選んだのだろう。アカミネの趣味とは違う、肩や腕や首元の露出の多いものを着せるのが夫は好きだった。  あの男とも女ともいえない女に興味はなかったが愛夫との会話のため添付された画像を開いた。試着室にあの娘が立っている。翠と碧の中間といった深い色味の、レース袖のあるパーティードレスで、カナンの選びそうな露出の多さは控えめだった。彼の好きなコケティッシュな雰囲気よりもエレガントな印象を受ける。夫の話を楽しみにしながらタワーマンションのエントランスを出る。駐車場を行く前に缶コーヒーを買おうと反対側にある自動販売機に寄った。電柱に人がいる。黒か濃紺のニットに黒いマスクをつけた中肉中背の、背丈からいうと男だ。トラウザーズもニットと同じ色をしているためシルエットがはっきりし実際の肉付きもよりももしかしたら痩せているようにみえた。今時の若年(スクール)層にありがちな諦観したような冷めた眼差しはアカミネの自宅にも存在する。愛夫の周りでうろちょろと、それこそ運良くペットになれただけの害獣擬きよろしく、同じ屋根の下にいる。この気に入らない人物との雰囲気の一致がすぐにこの不審者が誰なのかを明らかにさせた。目が合う。黒尽くめの若げな不審人物が一歩踏み出す。間を一台の車が静かに通り抜けていった。アカミネは自動販売機で缶コーヒーを買う。 「人を探しています」  声は夫の凛とした淑やかなものよりも甘たるく、不透明な感じがあった。アカミネは振り返りもせずに落ちてきた缶コーヒーを拾う。 「このマンションの人ですか」 「そうだな」 「浅黒い肌の金髪の17歳くらいの男の人、見ませんでしたか」 「知らない」  見向きもせずに答えた。プルタブに指を引っかけ、缶は容易に口を開く。 「どんな些細なことでもいい。何か…白いワンピースを着てる男の子とか、見ていませんか」  なおも不審人物は食い下がる。 「御宅は何者なんです」  訊かずともすでに知れている。しかし相手は、自分の素性が明らかになっているなど知る由もない。加糖コーヒーを一口飲んだ。それから不審者と対峙する。相手はほぼファッションとして売られている黒マスクを顎まで下げ素顔を晒す。 「聖門フェンネル市民病院の看護師です」  彼は面倒臭そうに言った。アカミネは目の前の若僧に構うこともなくコーヒー缶を傾ける。 「その看護師がこんな場所で人探しだなんて。患者が逃げ出しでもしましたか。それとも治療費を踏み倒されたとか?」  不審な看護師は不快を表にした。心底厄介そうに踵を返す。 「うちの犬に勝手に餌をやるのはもうやめろ」  足が止まる。アカミネの経験からいってこの地区の出入口で職務質問必至な様相の若者が首だけこちらを向いた。 「二度と近付くな。約束するなら最後に会わせてやる」  邪魔な女の面影を持った端麗な容貌が静かに焦っている。それを肴に缶コーヒーが酒になる。 「栴檀が……居るのか?ここに…」  腹減らしの野犬の如く、黒尽くめの小童はアカミネに走り寄り、缶を持っているほうの肩を掴もうとした。しかし彼は後退って躱す。 「栴檀に会わせてくれ…!」  話のすべてを聞いてたわけではないようだった。駅やバス停で案内役をしている人工知能みたいに登録された単語だけに過敏に反応したような感じだった。婚外の同居人がカナンの話をする時のように、魚市場で並んでいる魚の目玉から夜間の飼猫のような目になる。アカミネはまた鼻で嗤った。思わせぶりにエントランスに戻ると後ろからついてくる。しかし追い抜かれる。記号的で象徴的なほど不審人物の服装をしている若い男はロビーを駆けた。受付をしている女が困惑した顔でカウンターから出ようとするのを制した。黒い人型はガラス張りの壁から漏れる明かりの陰にある公衆電話に真っ直ぐに向かっていった。アカミネもすぐに追う。服を着た駄犬は受話器を耳に当てていた。不審人物は背後から少年に掴みかかり、まだ状況を呑み込めていなげな彼の喋りかけている口が塞がれた。短い指の生えた手から受話器が落ちる。小さな顔を支える不審人物の腕を拒もうとして、口付けは深まる。口淫をさせる器官に病が感染れば無関係ではいられない。まるで長い別れのあった仲睦まじげな空気を醸す2人の間に割り込み引き離した。 「栴檀…!」 「ア、ア、アカミネさ……どして、……」  金色の目が激しく動揺した。黒尽くめの絵に描いたような不審者は混乱している少年に隙あらば接近を試みようとする。淫売夫を背に隠しながら立ち回る。 「外で会った」  後退る気配を許さず、チョーカーに付いたドアノッカーに似たリングを握る。少年はその手を押さえた。珍しい反抗的な態度だった。 「奴の相手をしてやれ。最後に寝れば切れるだろう。もう会わさない」  金髪がゆるゆると横に揺れた。 「やれ。毎回俺に追い払わせる気か」 「栴檀」  看護師という社会的信用を得やすい職にありながら、それを溝(どぶ)に捨てるような挙動不審な行動をするほどにこの若い男は放浪穢多を想っているらしかった。長い指に下品で卑しい、値が張るばかりのブランド品が光っている。 「お前が誑かしたんだ。可哀想に。看護師やめて収容所で勉めることになるなんて」 「分かった………デス……」  チョーカーの把手を握りエレベーターに引っ張る。駄犬の番いを志望している不審者も乗り込む。広いエレベーターの中の隅に狭く押しやった。数歩離れたところから執拗で欲深い目が穿つ。近付ければ瞬時に小さく淫猥な生き物を一呑みしてしまいそうな気味の悪さがあった。無言のまま4階まで引き上げられる。シャツを摘まれている感じがあった。振り返ると普段から怯え慄き機嫌を窺うことに必死になっている目がアカミネを力強く捉えた。 「栴檀」  不審者が名を呼ぶと同時にエレベーターが到着を告げる。シャツを摘まむ手を握り、到底案内とはいえない案内をしながら一度出た部屋に戻る。指紋認証で玄関ドアが解錠され、あくまで客人として空巣のような風采の男を先に通す。 「(うがい)してこい。薬でな」  厄介な虫を(おび)き寄せることばかり能のある淫売夫を浴室のほうに突き飛ばし、小綺麗な不審人物をもてなした。アカミネはベッドに形ばかりの除菌スプレーをする。 「栴檀はどこだ」  ソファーに座っている若者は自身の胡散臭い服装は棚に上げ、訝しげな表情を向けていた。しかしこの地の市井の若衆というものは万事に於いて何かが気に入らなげですべてを否定したような冷笑的で不満げな顔をしている。 「そのうち来ます。それより貴方はうちのとどういう関係なんです?うちの人懐こいのがどうして貴方のことは拒むんですかね」  アカミネはベッドを直しながら訊ねた。看護師は答えなかった。やがて口元をタオルで拭いながら栴檀が戻ってくる。 「栴檀」  黒い服装がさらに引き立てている白い顔が瞬時に獲物を捕らえた。 「ロ、ロージャ……」  アカミネは布製テープを持って自宅にいるにもかかわらず緊張している少年の視界を遮った。 「キスと口交(フェラ)はするな。ゴムはつけろ」  梱包や補強によく使われる一般的な布製テープが伸び、軋んだ。テープが千切られ、淫売夫は口元は閉ざされた。嫌がりもせずに彼は頷いた。もうアカミネを見上げるようなことはしなかった。逆光し薄暗さのある室内で白く照るフローリングを見下ろしている。不審者は目を剥いてアカミネと粘着テープを顔に貼られている少年とを引き離した。 「もう嫌がることはしないから。こんなことしなくていい…」  背の高い男はほんのわずかに膝を折る。長い指が少年の口を覆う布テープを捲り慎重に外していく。 「おで……ロージャとは友達だカラ……あんなコト、したくナイ」  アカミネは彼を睨んだ。視線が合うと瞬く間に金色の目は泳いだ。しかし看護師が邪魔をした。粘着テープに痛め付けられた小さな唇を深爪気味の指が端から端までゆっくりと撫でる。 「分かった。何もしない。栴檀、ごめんな。悪かった。到底許されることじゃない」 「許す、許さないをお前に決める権限はない。小型不燃ゴミほどの価値も無い指輪代くらい、カラダで返してやれ」  腹立たしいやり取りに胸焼けを催しながらアカミネは煙草を吸いにベランダへ出た。レースカーテンの狭間で膠着状態の2人を観察する。少年は黒く塗られた人影越しにアカミネを見ていた。無視をして紫煙を吐く。少年がよろよろとベッドルームに歩を進め、黒尽くめは死神のように後に続く。どういった会話があったのか、アカミネには聞こえず、さして興味のある事柄でもなかった。おそらく貢物に慣れない性分が、押し付けられたにも関わらず、高価な物品の見返りに応じようとしているのだろう。艶業に生きる強かさが彼にはない。短くなった煙草をベランダに放置している缶に入れた。ベッドルームのドアは開け放たれたままで、アカミネはリビングルームのソファーに腰掛けた。テレビを観る。火事を伝えるニュースをやっている。どこかの店舗が焼けている。誰かが不幸になり、誰かは甘い汁を吸う。彼は災難に見舞われた者も、儲けた者の名も知っていた。画面が目瞬(まばた)きをしてもう開目しなかった。ベッドルームを振り返る。淫売夫を結婚させてしまえば片が付く。真っ当に、社会通念的な倫理に沿い、配偶者と共に生きる。シアワセな家庭が2つ出来上がる。スマートフォンが震える。ハウスキーパーからの仕事を終えた報告だった。暫くガラステーブルを凝らしていた。行きもしない旅行雑誌やその臨海都市のパンフレットが反射の下に透けて見えた。淫売夫はこの地に閉じ込める。重い鎖で幾重にも巻き付けて、夫に向ければ傷だらけになってしまう激情に泣き喚くのが(しょう)に合っている。優雅に立ち上がり若者が滾った欲に溺れているベッドルームに入った。名義だけ借りている住人が庶民的に設けた空間に構えたキーボードの椅子に座った。巨大なベッドや防音設備の都合によりグランドピアノを置くことはできず、しかしながら本物に近いキーボードを買い与え、少年は長いことをここを離れなかった。普段はクローゼットにしまっていたが、名義主が来るまで楽しんでいたようだった。楽譜が敷かれたままだった。「煩唄(ぼんばい):聖なる恵みよ、感謝を」と訳された宗教音楽で、この地では主に殉職した軍人に贈られることが多かった。年齢が2桁に達するまで耳にする機会は多く、音楽や語学として義務教育(スクール)でも習う。名義主でありながら第三者の登場に、少年の上下に腰を振る動きが疎かになった。長い指と大きな手が鍵盤を弾く手を握り直した。 「続けろ」  アカミネはベッドを見もせずに楽譜を眺め吐き捨てる。ベッドとシーツが微かに軋みながら、鼻詰まりを起こした猫の如く弾んだ声と抑圧した深い吐息が聞こえた。 「栴檀……っ!」  視界の端で明るい髪色の後頭部に汚らしい手が伸びた。アカミネは冷めた目を向ける。 「口……ダ、メ………っ、ぁっ!」  小さな尻と布の山脈に埋まる肢体が興る。体勢が変わった。可愛いだの、好きだのと耳触りの良く声も美しい囁きがアカミネの耳にも届く。若い頃の苦々しく酸味のある経験が蘇る。

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