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第9話

 非通知で電話が掛かってきたが、相手はチャンダナだった。彼は大した用件はなかったようで、電話をしたくなったと言った。一方的に通話が切れ、ナオマサは彼の自宅マンションを訪ねようか迷っていた。訪ねようか迷い、カナンと居ることを選んだ。カナンはアカミネの前で相変わらず気丈に振る舞うが、ハムスターを愛でる後姿は弱く、特に夜は1人にしておけそうになかった。包丁を見ている様が恐ろしくなる。彼は以前、自死を仄めかすようなことを言った。『あの人のことしか知らないから、ぼく、あの人に別れを切り出されたらと思うと、怖いんです』と話し泣いていた。『ぼくが死んだらあの人はぼくをずっと覚えていてくれるかなって、考えてしまうんです。あの人はたくさんモテるから、きっとすぐに新しい恋人や夫ができると思います。もしかしたら、本当はもう―』  ―そういう人がいるんじゃないか。ナオマサは信じてはいなかったが、しかし何がきっかけになってしまうか分からなかった。本気ではないつもりで、本気になってしまうかも知れない。ナオマサはカナンから離れられなかった。 『あの人とのことにこだわって、ぼくはあの人のこと好きなつもりなんです。愛しているつもりなんです。本当に"したい"はずなんです。でも……ただの執着で、もう本音じゃなかったらと思うと……』  料理をするカナンの後ろ姿を眺め、ピアノの音楽を聴いていた。彼が曲名を訊ねる。彼女は彼の過去の声ばかり聞いていた。再度曲名を訊かれ、ランダム再生のコンポからトラックナンバーとCDケースの裏を見比べた。語られる思い出話が痛々しく感じられ、しかしそれでいて語り手のほうは本当に楽しんでいるようだった。 『もう家族だから……?家族はそういうことしませんもんね。もう甘いところだけ見ていられる恋人じゃないんですもんね』  チャンダナの自宅マンションを訪れる必要はなかったのだと知ったのは日付が変わって間もなくだった。アカミネから聞かされるとは思わなかった。彼はまたもやバニラの香りを纏わって帰宅していた。カナンのことさえ、後先さえ考えなければナオマサはこの世帯主を殴っていただろう。 『あの人、最近昔ぼくにくれた香水付けてるみたいなんです。なんて言ったらいいか分からないけれど、嬉しいな……って思う半分、もうぼくはあの頃のぼくじゃなくておじさんなんですよね…』  小さな指輪の詳細と、同じ香水の匂いが嫌でも友人と憎たらしい男を繋げる。バニラからココナッツの香りに変わりアーモンドの匂いを残し、最後にはわずかばかり木犀が薫る。優しく包み込む香気はこの男には似合わない。 ◇  顔面に子猫の乗った翁はナオマサが訪問すると唇を鳴らして小さな生き物をあやしながら膝に降ろした。90匹ほどいる猫をナオマサはすべて把握していたが、何匹か居なくなり新しい顔や模様が増えている。引取手が見つかったか死んだのだろう。老猫もいる。病気の猫もいて障害のある猫もいた。しかし彼女の養父は猫ならばどれも変わらず引き取った。それだけの経済的な余裕がある。 「また来おったか。で、婿の泥棒猫は()ったのかぇ」 「いいえ。ですがひとつお頼みしたいことが」 「(なん)」 「或る人を調べて欲しいのです」  白い猫が背伸びをしてシガの顔を舐め、髭を丸い手で梳かした。皺の寄った険しい顔がいくらか緩んだ。 「行け、猫御。めっ!」  気に覆われた肩を軽く叩いて白猫をソファーから降ろす。そして翁はナオマサを掬い上げるように見た。 「目星が付きおったか」 「微かな疑念を払いたいのです」  片眉が上がる。ソファーの背凭れの(へり)を渡る猫が禿げた頭を噛もうとしている。顎を擦り付け、口蓋を捲る。 「ひひ、くだらん」  フリスビーを投げるように老人は輪ゴムで纏められた写真を放る。ナオマサは受け取った。 「市中の探偵の真似事師に依頼なんぞするから粗末極まりないことになる」  写真にはキャスケットを被った野暮ったい服装の少年が写ってていた。そしてカナンの夫もそこに居た。雑誌の一ページのような写りの良さだった。全身の感覚が麻痺した。視覚情報だけがある。少しずつ解放され、カナンの夫の周りに写る人々を探した。焦点は知っている人物2人に絞られている。鼻から息を吹くのでは足らず、溺れたみたいに口から大きく息が漏れた。 「そやつか……ひひっ」  口は乱れた呼吸のため開いている。あとは声を出すだけだった。「はい」か「いいえ」だ。一瞬吐息が乱れる程度の返事だった。しかし理性と感情が鬩ぎ合う。 「お父ちゃんの顔に泥を塗おって。殺せ。婿は好きにしろ」 「……友人です」 「人の婿を奪るということは、それくらいのことよ。ヒトであるならな。お父ちゃんたちは人間だ。犬猫じゃなかろう。分別がある。法律だの(しがらみ)だのがある。別個体をみて(さか)ることあれど、それを抑える理性がある。でなければ人ではない。人であると社会が認めるのなら、病の特記事項(タグ)が必要になる。特記事項(タグ)付きか?であれば赦そう………赦すと思うてか。入院患者であろうと大統首領(プレジデント)だろうと誰であろうと馬鹿息子から婿を寝取るなら、お父ちゃんは手段を選ばん」  翁は巨大な絵筆の生えた顎でチェストを差した。ナオマサは動けなかった。写真の中の友人から目が離せない。 「倅にはワシから話しておこう」 「待って、ください」 「何か思い入れがあるようだの」  腹の辺りが重かった。養父の口が開くのが恐ろしい。 「もう調べは付いておる。普段はチャンダンだのチャンダナで通しておるようだがの、本名は栴檀(せんだん)。満17歳。故郷は明らかになっておらんが、あの肌と髪じゃオークモス連邦直轄区のベイ族が妥当だの。なにせ知る者がおらんかった。だとしたら、まさか爆弾を落としたこの地に来るとは物好きよ」  オークモス連邦直轄区はすでに人の住める地ではなくなっていた。南西部の国の中でも爆心地であり最も戦火の影響を受けている。教科書では軽く触れる程度のことで、この地の者にはまるきり関係のない話だった。大統首領(プレジデント)の短い会見があり、メディアはそれ以上触れない。遠くの地の国名も国旗も言語の一部も特に教わりはせず、得体の知れない文化圏の不気味な民族が大量に爆死したという認識で、テストの問題になることもない。義務教育(スクール)に通わなかったナオマサもその暗黙的な風潮を知っている。 「断定はできんがの。気になれば髪の毛の1本で持って来い。調べれば分かる」 「もう大旦那様には関わらないはずです」 「何故」  毛だらけの巨体がナオマサの足を枕にする。脹脛に別の猫の尻尾が絡み付く。 「彼は婚約をしています」  口にしてから婚約者の存在すら疑えることに気付いてしまう。 「我主(わぬし)はいつまで経っても童貞じゃな。泥棒猫の婚約と、婿の不貞は両立すると思うがね。その婚約相手が本当にいたとてな」  掌は乾き切り、皮膚が張る感じがした。しかし指先は湿(しと)っている気がする。瞬きを忘れた。写真の中の友人が鮮烈に脳髄に刻み込まれる。 「婿の息子(あすこ)を切り落とすか」 「火喃様の、望まぬ……こトです」  喉が灼けた。声は掠れ、裏返る。耳の外は騒音で、目の前の写真以外は白く霞んでいる。身体がはっきりと輪郭を持ち、しかし暑くも寒くもなかった。口には紙屑か轡か何かが詰められている心地がした。  帰り道のことはよく覚えていなかった。他人事のように少年を幸群宅に招いた日のことばかりが延々と繰り返される。肩がぶつかり、鷲掴まれ、人影が行手を阻む。どこかで振り翳したまま降ろし忘れた拳をまったく筋違いの場所で放ってしまう。肉感を打つとともに骨が軋む。加害者であるにもかかわらず、頭が真っ白になった。反撃はない。尻餅をついている自分が殴った相手が立つのをぼんやりと見つめた。 「栴檀に会わせろ!」  暗い中に浮かぶ顔面は美しく声質も甘い。しかしひたすらに横柄で高圧的で不遜で傲慢なアカミネによく似ていた。話し方まで重なる。捻くれ、歪み、屈折した人格破綻者になることが決定しているも同然だった。角有るものに牙は無い。嫌悪を示し半歩引いたナオマサの腕を殴られた相手は力任せに掴んだ。 「栴檀に会わせてくれ」  忘れるはずもない。市民病院の高慢ちきな看護師だ。彼の指は服越しにナオマサの腕肉に容赦なく食い込む。彼女は眉を顰めた。 「もう乱暴なことはしない」  彼は大きくナオマサを引っ張った。いつの間にか大きな仲違いをしたらしい。 「栴檀はどこにいる?」  写真ははっきりと焼き付いている。よりによってアカミネに近い印象のあるこの青年から聞きたくない名を連呼される。そこに邪推の色を見出してしまう。後ろめたさも同時に起こる。 「会わせてくれ、栴檀に、会わせてくれ……」  噛み付かんばかりに看護師の男は迫った。 「それは……わたしのどうこう出来ることではありません」 「あの子がどこに居るのか、知らないのか?」 「知りません」  そのまま振り切れなくもなかったが、彼女は暴行の加害者という立場によって逃げることはできなかった。 「親しいんだろう?」 「いいえ」  腕を鷲掴みにしている男の手の力が緩む。 「親しくない人間を栴檀があそこに連れてくるはずない」  デートスポットときつい語調で表現したのはこの若者だ。 「わたしの知るところではありません」 「栴檀に会わせてくれ。大切な話がある。あんたも聞いているはずだ」 「いいえ。何も聞いておりません」  男のほうが訝しげな顔をした。 「あんた栴檀の何だ」  声が低くなる。マシュマロとナッツをキャラメルヌガーで纏めチョコレートでコーティングしたボールのホイップクリーム蜂蜜がけを思わせる非常に甘たるい声質に凄みはない。問いの意図が分からず病院勤務の若い男を冷ややかに見遣った。 「まさか恋人じゃないだろうな」 「違います」  否定した途端、ほんのわずかばかり彼の安堵が見えた。 「栴檀に会わせろ」  生々しさのない美貌はアンドロイドみたいだった。同じ言葉ばかり繰り返す。ただ少しずつ声音に感情が滲む。また腕を掴まれた。たとえあの少年の居場所を正確に把握していたとしても教えてしまって良さそうな雰囲気ではなかった。 「栴檀に会いたい。会わせてくれ」  もう片方の手がすでにナオマサの腕を掴む手に加勢した。左手の薬指にリングが嵌まっている。鋭角に突かれるような頭痛がする。紐の結び目のような意匠は有名なブランドの指輪だった。直感がそれをサー・アルバローズのトゥルーメリッサコレクションだと告げた。 「貴方こそ、彼の友人ではないのですか」  確信はまだ確信とするには微塵程度に否定の余地が彼女の中にはあった。無理矢理抉じ開けたに等しい期待だった。 「違う」 「彼から貴方は友人と聞いておりましたが」 「もう違う」 「では今はどういった関係なんです」  男の冷たい左手だけ剥がして投げ捨てる。無関係だが無関係とは言えない有名な宝飾ブランドを嫌いになりそうだった。問いに看護師は答えない。ばつの悪そうにカナンとは異なる、攻撃性を兼ねていそうな神経質げな眉が歪む。 「知っていたとしても、答えられないような関係の人に易々と答えるわけにはいきません」  ナオマサは徐ろに端末を出し電話を掛ける。看護師の男は常に不満と憂鬱を込めた顔をしていたがそこに訝りを加え彼女を見ていた。相手は常駐軍警だった。現在地を告げたあたりから端麗な顔面は険しい表情によってさらに危機的な美を持つ。 「何をしているんだ?」 「暴行事件の通報をしました」  続けてカナンに帰宅が遅れる旨の連絡を入れた。今日はハウスキーパーが訪問しているはずだった。 「それは…」  目蓋が引き攣ったように彼は瞬きをしながら俯いた。唇の端が切れて腫れている。仄暗い美しさがあった。  軍警駐在所に連呼されたのはそれから10分足らずだった。自ら通報したこと、被害者がまったく被害者の自覚がないことで、小さな諍いとして処理され、簡易的な書類を作ったのみだった。同時に帰され、帰路に就こうというナオマサを飽きもせずイバラキ-荊季-・ハルマ-陽間-とかいった看護師の男は呼び止めた。振り返るだけの彼女に様子を窺いながら(にじ)り寄り、腕を掴む。 「話がある」 「手短かにお願いします」 「ここでは話せない」  返事も待たず19の子供はナオマサを引っ張りここ一帯の豪邸のトイレより小さそうな公園に連れて行った。 「俺は栴檀と婚約した。教えてくれ、あの子はどこにいる?」 「自宅マンションは訪ねたんですか」 「…………この付近に住んでいることしか、知らない」 「婚約者だというのなら、その貴方に住所(アドレス)を教えなかっただけの事情があるのでしょう。個人情報ですから教えるわけにはいきません」  口は勝手に良識を語り始めている。カナンの仇に等しい少年に義理を通す必要はなかった。たとえばこの看護師が自分を彼の婚約者だと思い込んでいる危険人物だったなら始末する手間は省ける。無邪気な笑みや人懐こい態度が目の裏で点滅し、目眩がする。深々と頭を下げる不審者を置いてナオマサは帰ってしまった。少年のストーカーの疑いまで浮上した若い男が追いかけてくることはなかった。  家に着くとカナンが出迎える。ナオマサは靴を脱ぎ捨て衝動的に彼へ抱き付いた。 「おかえりなさい、イノイ。思ったより早かったですね」  アカミネと並んだ時の印象のままカナンの背丈はそう高くないと思っていたが近付いてみると彼の目は高い位置にあり、妹分を慈悲深い眼差しを向けていた。 「申し訳ございません、旦那様」  すぐに放した。優しいカナンはまだ腕の中にいることを許してくれていたがナオマサは身を引く。ここは二夫の家だ。 「いいんだよ」  水仕事をしていたらしい冷たさのある手がナオマサの頬に触れる。あの少年を殺さなければこの人は幸せになれないと先走った考えが浮かび、それからこの人の夫をどうにかしないことには何の解決にもならないことに思い至る。決着ではいけない。リビングにはハウキーパーではなく世帯主がいた。ソファーに座っている。帰宅の挨拶のために目の前に立つ。目を合わせないアカミネがナオマサの視線を受け入れた。彼女は見下ろすだけで、形式染みたフレーズも出てこない。節操無しの薄い唇が嫌味たらしく弧を描く。 「おかえり」 「ただいま帰りました」 『遅くなって申し訳ございません』  アカミネは嘲るような顔をした。ナオマサは顔を背ける。カナンはキッチンで各々の食器にポトフを(よそ)っていた。献立は輪切りナスのチーズ焼きと乳卵泡ドレッシングのサラダ、ピーマンのピクルスだった。 「さ、食べましょう」  カナンに言えそうになかった。夫の不貞を口にはしていたがおそらく確信には至っていない。彼に作られた時点で美味いことが決定している飯の味は虚ろだった。 「美味しい」 「よかった。ナスのピッツァ好きって言ってましたもんね」 『ぼくはあの人の親友でルームメイトなんです。食べさせてもらっているだけ、感謝すべきなんでしょうけれど……ぼくはあの人にとって魅力のある夫にも忠実なハウスキーパーにもなれなかった…』  ナオマサは痛みのある二夫の会話を聞いていた。いつものことだった。カナンは彼女の口下手加減を知っていた。そういった点で気を遣うのは却って心苦しくなることを互いに分かち合っている。その自負がナオマサにはあった。 「イノイは今日は何したの?」  二夫の白々しさなど微粒子程度にもない恐ろしく融け合った会話が落ち着き、カナンはポトフを黙々と食らう付人に話を振った。火のよく通ったキャベツや出汁(ブロス)の染み込んだ芋が好きだった。カナンの作るポトフや醤油風ポトフは梅干(ソルトプラム)が入っている。 「あのお友達が婚約したんだろう?慌ただしくなるな」  アカミネが先に口を出した。咀嚼が空回る。皿を舐めるようにゆっくり顔を上げた。高慢な視線と視線が交わる。 「え、チャンダナくんが?婚約?」 「…はい」  彼女は肯定したが、否定の念のほうが強かった。極端に取柄が見目に偏っただけで悲劇のヒーローに成り得たが、その実やっていることはストーカーか癲狂(てんきょう)病みだ。顔面などは今日ナオマサがやったように凄まじい暴力に出会せば損壊してしまう儚いものだ。腫れた口角の美しさは意外にも彼女が自身で認める以上に艶めいて記憶されていた。 「じゃあ婚約祝いのカクテルプロムとかやるの?イノイ、ドレス買わなきゃ」  カナンは目を輝かせた。彼は妹分の服を選ぶのが好きだった。ナオマサにこだわりはなく、カナンが推すものならすべて良しとした。彼は流行や骨格、個人に似合う色味などに構わず直感で選んだ。系統は様々でレースやフリルが装飾過多なものもあればこざっぱりしたプリントシャツ、肩が大きく露出するニットなどもあった。 「呼ばれておりませんので…」  彼の瞳が惑う。それが何よりも耐えがたい。一瞬で腹が満たされてしまう。胃の様子をみながらピーマンのピクルスを齧った。 「そ、そうなんだ…」 「おそらく近親者のみで催すのだと思います」  チャンダナに家族は居ないと聞いている。嘘かも知れない。無邪気げだった少年の全てが嘘で塗り固められているとさえ思った。そうしなければ生きていけなかった環境にあるのは不本意ながらも彼女は納得してしまう。人の夫と通じている身で、あの少年は健全な精神の持主とはいえない看護師の男と契るのだ。彼女はただ歯に当たるピクルスの食感だけを頼りにした。 「彼女とドレスを選んで来たらいい。レセプションに呼ばれたからその時のために」  カナンはナオマサに微笑みかけた。彼のチョップスティックが進む。アカミネに対する絡まりに絡まった感情よりも先にカナンの様子に安堵した。 「相手はどんな人なんですか?もう紹介はされたんですか」 「同年代の市民病院の看護師だそうです」  17と19は世間的にみると結婚には早い。 「それじゃあ安泰ですね」 『稼ぎの良い人を捕まえて専業主夫になれてよかったねって言われたんです。ぼくにとって何より大切なことって好きな人と両想いになることだったんです。それだけじゃなくて結婚もできたのに、あの人がぼくに望むことは家族で親友なのかも知れません。家族は家族です。父とか母とか、兄とか、そういう……稼ぎも確かに大事ですけど、ぼくはもっと狭い部屋でもっと長い時間、肩を寄せ合って暮らすのでもよかったんです。あの人との間にこんな距離があるなら』  ナオマサは冷めたポトフを口に入れた。婚約相手は看護師であることを直接目にし調書にも記していたが、少年の滅多矢鱈に稼ぎの良い仕事は秘められていた。すぐ近くにいる男に貢がれている可能性が浮上した。青臭さとわずかな辛み、鋭い酢味のあるピクルス以外、もう味覚は家庭の味を拾おうとしない。  就寝前にカナンはすまなそうに、ニュース番組を映すテレビをぼんやりと凝らしているナオマサの横に座った。風呂上がりの柔らかいボディーソープの甘過ぎないボタニカルな匂いが淡く漂った。彼女は隣を向いた。兄代わりは沈んだ顔をしていた。 「ごめんね、イノイ」 「何がです」 「チャンダナくんのこと…」 「彼のことで旦那様が謝ることは何もありません」  彼はナオマサの肩を抱いた。 「お前、チャンダナくんのこと、好きなんじゃないのかい……?」  予想外の返答に驚き彼女はカナンの腕から飛び抜けた。 「いいえ」  眉間に皺が寄ってしまう。珍しく万年渋面の佳麗な顔立ちに困惑が表れた。カナンもそのことに目を見開く。そして目眩を抑えるように自身の額へ手を当てた。 「……ああ、ぼくはとんだ野暮をしてしまったみたいだ。ごめんね、許しておくれ」 「友人としては―」  好ましく思っていた、と数時間前までならば答えられた。しかし今は仇敵にほかならない。その認識は持てども感情は伴わない。躊躇を無視するラインを越える程度に少年を知ってしまった。公衆電話から掛けたらしき非通知の着信があって以来彼には接触していない。 「それじゃ、今日のご飯、気に入りませんでしたか」 「何故です」 「様子が変でした…あの人の好みばかり作ってしまってごめんなさい」  カナンの不安げな目に射抜かれる。 「とんでもないことです。口内炎が……少し沁みてしまって。旦那様の夕食はいつでもたいへん美味です」  彼女は努めてカナンの眼差しを掴み続ける。口内炎はない。 「あらら…今ビタミン剤を持ってきます。明日からフルーツも出しますからね」  カナンはソファーから腰を上げた。座面が小さく弾み、淡く薫る微風が起こる。彼の優しさに目元が痛んだ。

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