8 / 20
第8話
◇
モニターを眺めた。画面には激しい自慰行為に耽る夫が映っている。二夫で寝ているベッドの上で男根を模したシリコン棒を引き締まった尻に抜き挿ししている。夫は今日も素敵だった。家を出るとほぼ毎日彼は淫らになる。忘れ物を取りに行くふりをして困らせたくなることもあった。
[好き…好き、好き……っ!]
マイクが夫の熱い息を拾う。胸を捏ねながら彼は身悶えた。シーツの音も生々しい。アカミネは膨れる怒張を、大きく息を吐くことで宥めた。
[好き……好き、緋峯 さ……っ…ぁあ…]
囁きほどの小声も高性能マイクは容赦なく感じ取る。アカミネは顔を片手で覆った。口角が吊り上がってしまう。喜びを噛み締める。
[緋峯さん……っ、緋峯さんっ、好き…っ]
休憩がそろそろ終わる。切なく呼ばれると仕事に戻れそうになかった。音声を消し、画面だけ観ながら業務上の電話を掛けた。社長室のドアがノックされ、中に通す。プライベートでも雇っているハウスキーパーだった。自宅にいない時は主に会社で身の回りの世話をさせていた。
アカミネの両親は小さな食堂を営んでいた。このハウスキーパーの青年・カヤハラの父親が長いことそこの従業員だった。物心ついた頃から知っていた。実父と同年代のその従業員を親戚だと思ったほどだ。小さい頃に会ったこともある。カヤハラがアカミネを覚えていなくともアカミネは彼を覚えていた。手の付けられないほどの素行不良だった息子のことを大人の会談の中でよく聞いていた。とにかく目立つ服装をして、騒音を撒き散らしながらバイクで夜間の街中を走り回っている姿はもう夢の中の出来事みたいだった。その片鱗はもうない。姉もいたはずだったが、彼女のことは幼い頃に数えるほどしか会ったことがなく、一家離散の後暫く経って見つけることができたのはカヤハラだけだった。
「今日の…日程」
スーツか作業着の者が多い会社では目立つ、白いスウェットシャツに白いワイドパンツを履いていた。ワインレッドの革の手帳が開いて渡され、ペン先の出ていないボールで該当項目を差される。
「ああ、ありがとう」
真っ白い顔の片側の目元に赤みが差していた。
「顔、どうした」
カヤハラは無言のまま反対の頬を拭う。アカミネは逆だと指摘した。気触 れている。
「これを塗るといい。それで悪化したら病院に行きなさい。いつでも休みを取れるようにするから」
抽斗 の中から取り出した軟膏を渡す。虚ろな目は軟膏の容器を見てばかりだった。小さく開いた唇は呻くような声を漏らす。長いこと傍に置いていると不思議と言いたいことが分かってしまう。
「早く治るといいな」
彼はアカミネが話しているにも関わらず突然背を向け、資料整理を始めた。口頭のコミュニケーションが無ければ大体のことは卒なくこなしてしまう。文書作成も形式張っていたが問題ない。まるきり別人になってしまった。姉に会えたとして分かるかも怪しい。視線に気付いたらしく無表情がアカミネを向いた。目を逸らす。彼も目を逸らした。黙々と作業をこなし、すべて終えると部屋の隅の観葉植物の横に猫背のまま佇んだ。アカミネは落ち着かずソファーに促す。これも毎度のことだった。置物のようになって気配もなく物音もたてず、背を丸めてカヤハラは対面の壁を凝視する。体勢を変えることもない。家族の居た頃とは別人になってしまったがそれでもカヤハラの存在が家族との思い出を繋いだ。愛された日々ばかりが浮かび、親不孝なことを言って傷付けた記憶に苦しくなる。虚ろな目が滑るように首ごとふたたびアカミネを捉えた。また逸らす。彼も壁に直る。退屈というものも多忙というものも知らなげなカヤハラのために音楽をかけた。「追複曲と舞曲37番」だ。曲名は夫とコンサートに行くまで知らなかった。めでたい離別の際によく使われる。両親の食堂でもよく流れていた。傷を舐め合える相手が目の前にいながら一方的で、カヤハラはぼんやりしているだけだった。たまに賄いを食べに来る程度で、長いこと居座っていたわけではない。過去に耽るのはアカミネだけだった。曲が変わる。虚ろな目がアカミネを向く。アカミネは顔を背ける。いつものことだった。
いつものことをいつものようにこなして、秘書に近い役割を担うカヤハラに執拗に手振鈴を鳴らされ追い出されるが如く定時に退社する。この公私共に傍に置いている青年だけは、夫を監視していることも婚外の性交渉相手がいることも知っていた。何より二夫の部屋に監視カメラやマイクを設置したのは彼だった。アカミネの運転する車は真っ直ぐ自宅には行かず、淫売夫を住まわせているマンションに向かった。管轄下にある色館から連絡が入っていた。栴檀 が時間になっても出勤せず、連絡もつかないらしかった。予定にはなかったが床夫の家を訪ねた。顔だけ見て帰るつもりだったがインターホンを押しても反応はなく、指紋認証して中へと入った。玄関はセンサーによって徐々に明るくなったが廊下を1、2歩進んで右手にあるリビングルームは暗かった。呼びかけるのも面倒でアカミネは踏み込んでいった。照明を点けてみるがリビングルームに姿はなく、隣のベッドルームもドアに嵌められた曇りガラスから暗いことが分かった。扉を開けてはみたが、ベッドにもそれらしき姿はなかった。淫売夫がどこに居ようが興味はなかったが、管轄している店の品者である以上は確認の義務がある。
「栴檀 」
返事はない。頭の悪い、躾のなっていない、馬鹿な飼い主に引き取られた犬みたいに駆けてくるはずが反応ひとつない。照明を点けても見当たらない。ベッドの下や、窓際の観葉植物の裏など、入れそうにもないところを気紛れに見てみたが、やはり居なかった。そして振り返り、死角になっていた壁面収納のクローゼット前にある狭い個人的なスペースに栴檀は蹲 っていた。声を掛ける前に店に連絡する。解雇の相談をされたが、そのまま雇い続けるよう命じた。1度2度の無断欠勤は色街では珍しくはなく、また大体は些細な理由だった。
「ゴメン……なさ、い……っ」
彼は毛布に包まりバイブレーションのように震えていた。頭を抱えている手の指が輝いた。金属の鋭い光りだった。左手の薬指に嵌まっている。アカミネはそのことだけに関心を持った。奪い取らんばかりに左手を掴み、近くで指輪を眺めた。従来のものより少し太さがあるが意匠からいうと婚約指輪だ。指の股は薄皮が剥け、関節が少し腫れている。外そうとして外せないらしい。
「勝手に婚約したのか。放浪穢多 の分際で」
掻き乱した跡のある金髪が横に揺れた。
「断れ。お前は俺のものだ」
「そう…しマス、デス…」
指輪を抜こうとする。しかし腫れた関節で引っ掛かり、弛 んだ皮膚が抵抗する。栴檀も痛がった。
「誰でも彼でも誘惑するな」
「……ゴメ、なさ……っ、ゴメン、なさい……」
彼は鼻を啜った。手を放す時に、手首に痣が見えた。縄の模様と擦り傷も付いている。アカミネは投げ捨てるように粗末な手を放すと淫売夫の毛布を力任せに剥ぎ取った。少年は激しく怯えた。頭に腕を翳し、壁際に身を寄せる。縮こまり、寒くもないのに凍えている。
「やったのか」
「ぁ……う、うぅ…っ」
「やったのか!」
アカミネは怒鳴った。壁を叩く。少年は呻いた。まだ答えは返ってこない。防御体勢に入っている身体を暴いた。絶叫が響き、爪がアカミネの腕や手を裂いた。首筋と鎖骨に薄らと虫刺されのような硬貨ほどの痕がある。強姦の匂いがした。それでいて暴力的で空虚な甘たるさがある。
「生でやらせたな?」
破れた胸ぐらを掴んで揺さぶった。検査をさせなければならない。アカミネの趣味ではない、恋人に重ねたものでもない今風な襤褸布を鷲掴んだまま引き摺る。少年は足を縺れさせ、転びそうになっていた。
「して、ナイ…ナマで、してナイ…」
リビングルームまで引っ張られ、少年は憤激している男の手を押さえる。
「触るな」
「ぁ、う…」
「生でしていない?レイプだろう?証拠はあるのか」
振り落とされて彼はラグの上にぺたりと座った。震えはまだ止まっていなかった。
「ゴム、しタ。ゴムしてもらえるヨに、頼んだカラ……ゴムしてもらえるヨに、お願いしたカラ……」
「頼んでゴムをしてもらった?それならレイプじゃないんだな?」
栴檀は指を噛んで泣き出してしまった。もう話にはならなそうだった。
「嘘は吐くな」
前髪は良い把手だった。顔を上げさせる。水膜の張った双眸が白く反射して煌めいている。嘘を吐けばすぐに分かる。
「お前が性病になろうがならなかろうが、俺には本来どうでもいい」
「ゴム、いっぱいお願いしテ、付けてもらい、マシタ……だから、」
―ムリヤリじゃありませんデス。
アカミネは鼻で嗤った。うるさく泣いている少年を倒し、力尽くで中を確認する。爪が容赦なくアカミネの肉を刺した。甲高い悲鳴が耳を劈いた。狭門を指で貫いた。出された様子はない。
「本当に生でしていないな?」
寝そべる少年の睫毛に涙が絡み、ぽろぽろと雫が止め処なく溢れて滴った。
「明日は店に来るな。検査に行け」
紙幣を数枚、もう捨てるしかない襤褸布から現れた腹の上に置いた。形の良い臍をついでに意味もなく押した。
「ぁ…っぅ」
泣きながら艶めいた声を出し、腰をくねらせる。胸、陰部、孔、右耳、左首筋、口腔、腋窩のほかに彼は臍も性感帯だった。
「変態め」
アカミネは嘆息してテーブルの上のアルコールティッシュで指を拭うと帰路に就いた。淫売夫の婚約相手も彼を襲った強姦魔もこの男に取るに足らない事柄だった。大切なのは性病に罹る可能性の有無だけだ。車の中で夫に連絡し帰りが少し遅くなることを詫びる。カナンは夕食を待っていると言った。寄り道の疲労を打ち砕かれる。一息吐いて帰宅する。リビングからはピアノの音楽が流れていた。それを背後にカナンがやって来る。
「おかえりなさい」
「ただいま。遅くなってすまなかった」
「いいえ。お疲れ様でございました。すぐに食べられるようになっていますから」
ジャケットを脱ぐのを手伝われる。アカミネはシャツの袖のボタンを外し、腕時計に触れた。手の甲に不気味な傷跡を見つける。薄皮が浅く捲れ、赤くなっている。周りも薄紅色に染まっている。
「先に彼女と食べていてくれ。すぐに行く。連絡しなければならないことがあるから」
夫は控えめに了承した。1人なら待つと言っただろう。付人の存在は邪魔なだけ大きい。彼の少し冷たい頬に軽く口付ける。カナンはふわりと微笑む。
「イノイ、先に食べていようか」
アカミネは引っ掻き傷に軟膏を塗った。夫には知れてしまうだろう。カナンが切り傷を作った時に大騒ぎをした身であるが故、追求されても上手く躱すことはできないだろう。スーツを脱ぎ、ルームウェアに着替えてリビングに行く。夕食はチキンのハーブ焼きとブロッコリーのソテー、アボカドとレタスのサラダだった。先に食べているよう言ったが2人は彼を待っていた。
食事中に案の定、カナンは手の蚯蚓腫れに気付いた。食後に腕や顔にまであった傷の処置をされる。会社で猫を拾ったのだと説明した。
「痕にならないといいですけれど」
「ありがとう」
夫の手を握る。消毒液の匂いが鼻を刺した。横で夫の付人が見ている。淫売夫に婚約指輪を渡したのか、或いは強姦魔したのは彼女かも知れない。好き好んで放浪穢多に手を出す者を他に知らない。肉欲に踊らされ素性も知らずに婚約を交わしてしまった可能性も否めない。あどけない顔をして褥 に入れば露わになる淫乱ぶりに誑かされたのだろう。でなければ慈善団体だ。たとえ片親が放浪穢多でなくとも2世の扱いは放浪穢多になる。養子でも然り。おそらく養子縁組の審査が通らない。アカミネもいくつか例を聞いたことがある。
カナンが入浴しているうちにやっとキッチンチェアに座り放しのナオマサが口を開いた。
「それは猫の爪痕ではございませんね」
「それなら何の爪痕だと思う?」
「人のもののように思います」
放浪穢多は果たして人なのか。社会的な問いだ。アカミネは陰険に嗤う。
「彼は気付いているだろうか」
「おそらく気付いてはいないかと」
アカミネからしても愛夫は気付いていない。
「彼に報告するもしないも、お前に任せる」
「この生活が無くなっても構わないのか否か、お聞かせください」
足枷がなくなる。あとは突き進むだけとなる。安穏な暮らしで埋もれていた誓いが剥き出しになれば、もう何も考えなくていい。
「どうだろうな」
ネズミが滑車を必死に回している。ナオマサはもう黙っていた。流れていた音楽が止まり、彼女はコンポから吐き出されたCDをケースに戻した。
「婚約するらしいな、お前の友人は」
据わった目がアカミネをゆっくりと見た。彼も挑むように昏い眼差しを受け入れる。
「どこかで会いましたか」
「街の中で、な。指輪を嵌めていた。あれはサー・アルバローズのトゥルーメリッサだな。稼ぎのいい相手だろう」
サー・アルバローズは宝飾品の有名ブランドだった。その中でもトゥルーメリッサコレクションは高額な部類の指輪やペンダントを展開している。婚約指輪の定番だ。
「随分とお近くで……」
「お前か?」
「いいえ」
彼女の手に指輪は無かった。しかしあまりの金額に片方の分しか購入できないというカップルも珍しくはない。
「知らなかったのか」
「はい」
「友人なのにか」
「報告義務はありません」
彼女は話を切り上げ自室に戻ろうした。動揺や困惑は特に見当たらない。
「これを機にあの友人と付き合うのはやめたらどうだ。婚約相手に悪かろう」
「あくまで友人ですから、悪くはないと思います」
睨み合う。そのタイミングでカナンが入浴を終えてリビングにやってきた。腰にタオルを巻いている。水滴を付けた白い上半身が美しい。付人にも無防備に肌を晒すのは気に入らないが、アカミネは彼の裸体を見るのが好きだった。美しい。着痩せするのだ。折れそうなほど線が細いようでいて、脱ぐと肩には張りがあり括れたようにみえる腰もしっかりしている。筋肉も隆々とまではいかないが日常生活によって使われる部分は鍛えられていた。
「少し温くなっているかも知れませんからお湯足してくださいね」
カナンはナオマサに話しかけ、彼女はCDケースをコンポ脇にしまうと浴室に消えていった。
「もう音楽、止めちゃったんですね」
「いつか近いうちにディナーコンサートに行こう」
まだ満足に水気の切れていない夫の髪を彼の肩に掛かっていたタオルで拭いた。柔らかなタオルの下で愛夫がはしゃぐ。
「いいですね」
「チケットを取っておくから。さ、湯冷めする前に早く服を着なさい」
アカミネは片夫が常に寒そうに見えた。透き通るような皮膚感のせいかも知れない。脂肪が少ないからかも知れない。風邪でもひけば咳で骨という骨が折れ、病熱で脳を焼かれてしまう印象を長いこと拭えなかった。夫を愛している。夫が大切だ。それも彼なりに本当のことだった。
◇
片夫の朝の活動を観て、革張りの背凭れへ上体を預けた。会社で愛夫と同様に励むのは憚られた。なによりも欲望も確かに湧いたが、最も大きかったのはカナンに対する燃え上がるような慈しみの情だった。目を閉じる。オーガズムに似た余韻に浸る。画面の奥で甘く鳴いた夫と共同体になったようだった。
社長室のドアがノックされ、カヤハラが入ってくる。彼はまっすぐによく磨かれたデスクの前に立った。淡いグリーンの封筒を差し出される。虚ろな目はきょろきょろと忙しなく天井を泳ぐ。まるでそこに虫か害獣 でもいるかのようだった。
「ご苦労」
カヤハラはふらふらと独特な歩き方をしながら掃除を始める。アカミネはデスクに置かれた封筒を少しの間ぼんやりと見つめ、やがて手に取った。少し固さがある。開けてみると綺麗に畳まれた紙のほかに写真が何枚か入っていた。20代前半ほどの男が映っている。公園のような場所で車椅子を押している。着ているものからいうと看護師だ。淫売夫の交友関係の中で最も彼が怪しかった。この地の看護師ならば推定される収入も決して悪くない。2枚目の写真には1枚目とはまた違った公園でこの看護師に腕を引かれている淫売夫の姿が映っていた。事情を知らない者からすれば「散歩を拒否する飼犬」と題されるだろう。3枚目はベージュのレンガ造の建物から出てくる姿が映っていた。3枚の中で最も近く、顔立ちもはっきりしている。鼻梁の通った美しい顔立ちで、すべてを諦めたような厭世的な雰囲気はカナンの付人に似ていた。アカミネとは正反対の赤みのある猫毛が跳ねているが、それもそういうヘアセットとして成り立つくらい、盗撮写真にもかかわらず隙がない。紙面には「荊季-イバラキ-・Rozsak-ロージャーク-・陽間-ハルマ-」と記されていた。通称はロージャ、ロジャ、他にはローザがある。快楽堕ちした淫売夫が魘 されて叫ぶ名前と一致する。生年月日からいうと19歳。学歴や職場、年齢から推定される年収、家柄まで特定されている。高級ブランドのサー・アルバローズのトゥルーメリッサコレクションという高額な婚約指輪を買えない収入ではない。義務教育 を卒業した後は軍務から経由して看護師になっている。薬剤師の資格も持っているという噂があるようだった。名家でもないがかといって賤しい出自でもなく、一般的な中流家庭の生まれよりは軍役に行っているため少し特殊な経歴をしている。アカミネが最も重要視していた交際歴まで調べられていたが有益な情報は掴めないようだった。しかし2枚目の写真がアカミネの中では答えだった。彼で間違いない。放浪穢多にはまったく釣り合わない相手だったが強姦したのも婚約したのも彼だ。人の飼猫に勝手に餌をやられるのは困る。
アカミネの行動は早く、その日の帰りには淫売夫の家に寄って途中で買った中級ブランド、ティーツリー・アンド・アニスの安いチョーカーを買った。首輪をしていなかったのは完全に自身の落度だとアカミネは嗤っていた。指紋認証をして淫売夫の巣窟に入る。ラヴァニーユ・ギガンティナ・ミルクパールの香水ではない匂いがした。ミルトス・サボン・カレイドスコープの香りだ。人気の香水で、個性がない。アカミネの軽蔑しているもののひとつだった。猫も杓子 もミルトス・サボン・カレイドスコープの香水を使っているのではまったく意味がない。街中で誰もが特別な人になってしまう。他者の匂いに甘んじているのが気に入らない。
「おい」
リビングのソファーで寝ている淫売夫が飛び起きた。あまりの勢いの良さに座面で弾む。指にはまだ忌々しい輪が嵌まっている。逆上させ再び遮膜を使わず強姦されるよりはいいと判断した。目に入るたびリングカッターに対する好奇心が募る。
「アッアッ、あの、あぁ…コンバンハデス」
アカミネは彼の顔も見ずに後ろに回った。少年は狼狽え、振り向こうとするためにチョーカーを上手く結べなかった。
「首輪を付けてやる」
ドアノッカーやタオル掛けと紛う、成人男性の脹脛までは通りそうなほど大きめのシルバーリングが付いた黒いチョーカーで、ベルトのように幅はあったが両端だけ結べるように4本1束の紐になっている。
「アリガトござマス…」
「勘違いするな。お前は俺の飼い猫だ。首輪を付けるのを忘れていた」
「は、い!」
「牡猫 に言え。"自分は放浪穢多です結婚できませんあなたを不幸にします"とな」
金髪は項垂れた。感情を隠せないこの少年は淫売に向きそうになかったが、しかし誰にも彼にも好印象ばかり抱く一層神懸かり的な白痴同然の、かえって神聖性すらある性格をしているためそれなりに人気がある。おそらくカナンの付人に雰囲気の似た美しさと多少の聡明さと年齢の割に高給取りという点を除けばつまらなげで永遠の夫に成り下がりそうなくだらない美男子もこの淫売夫のそういったところに騙されたのだ。
「も……知ってるデス。最初ニ、言ったノ……デモ」
「やめておけ。断り通せ。お前の薄汚い柵 に巻き込まれて相手が可哀想だ」
「はいデス…断るデスヨ……ちゃんと断るデス…」
彼は大きな目から涙が溢れた。静かに落ちていく。いつでもアカミネは年下が嫌いだ。鬱 いだ時の夫を思わせる泣き方をされるとアカミネはいつでも被害者になった。加害されている気になる。憂い悲しみ、鬱屈し泣いている相手に加害されている。
「喜べ。感謝しろ。お前は一生俺のものだ」
「…嬉しデス。嬉しデス……」
少年はうっうっと涙を拭いて口の端を無理矢理吊り上げた。白い歯が見えた。笑っている。アカミネは鼻を鳴らして帰路に就く。
ともだちにシェアしよう!