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第7話
誰もいない昼のキッチンチェアに座り、換気のために開けていた窓から入る風によって棚引くカーテンをナオマサはぼんやりと眺めていた。ハムスターが滑車を回す。少し休んではまた回した。インターホンが鳴りハウキーパーが訪問する。白を基調にした内装に異様な風貌の彼は視界の中にはよく溶け込んでいた。
「こんにちは。今日も頼みます」
ハウキーパーはゆっくり会釈した。名前はマツリカ-茉莉花-・カヤハラ-茅原-と聞いている。彼は水場に向かい、すでにカナンが洗った食器を拭きはじめる。家主2人はハムスター用の道具を買いに出掛けていった。ナオマサはテーブルの上の封筒を指で叩く。今のところアカミネに浮気の様子はないというのだ。しかし彼女はこの家の世帯主が浮気していると確信していた。
「少し家を空けますから、留守番をお願いします」
カヤハラの虚ろな目はオルゴール人形のように首ごとナオマサを振り向き、かくんと頷いた。何か用事があるわけではなかった。しかし家に居るのは落ち着かない。アカミネは浮気をしている。浮気の証拠が出てこないのはおかしい。彼はたびたびバニラの匂いを纏って帰ってくる。その身体でカナンに触れ、カナンが触れるのだ。生家 ともいえる猫屋敷が入ったタワーマンションに向かう途中、あの忌々しく甘たるい香りが鼻に届いた。
「あっ、」
目の前が遮られ、止まることができずに接触する。グレーのワークキャップから金髪が伸びているのが見えた。相手はオフホワイトのフーデッドスウェットシャツにネイビーのジーンズとラフな服装をしている。フードの下で斜め掛けになっている黒いウエストポーチが少し野暮ったくて彼らしかった。
「イノイお姉さん…」
彼もこの近くのタワーマンションに暮らしていた。齢17にして謎に包まれた経済力を持ち、下層とはいえ高級タワーマンションのファミリータイプの一室を借りているこの少年も。
「偶然だな」
朝露を思わせる麗かな目が丸くなる。一瞬だけ彼は泣きそうな表情をした。飛び付かんばかりにナオマサは抱擁される。二夫が交わすようなものではなく、しがみ付くような健気で情けない感じがある。
「どうした?」
「なんデモないケド……なんでも、ないノ……ちょとダケ寂しかたカラ」
「元気にしていたか」
「うん。メチャ元気してタ」
香水が薫らせ、チャンダナは彼女を放した。
「ネ、ネ、この後なんかある?」
「特に何も予定はない」
「じゃ、じゃあサ、あのネ、一緒に来てほしいトコがあるんダ!」
彼のほぼ袖に包まれた手はナオマサの腕を掴んでいた。俯き気味の少し短い睫毛の奥で零れそうな朝露が揺らいでいる。
「分かった」
「うん…ありがとナ」
まだ不安げな色は失せていなかった。ナオマサは首を傾げる。1人で入るには憚られるような小粋な店に入りたいのかと彼女は予想していたが、それにしては消沈している。
「その前にちょっと寄りたいところがあってさ」
連れて行かれたのは花屋だった。若者向けの通りにある若者が同年代に贈るような雑貨屋に近い花屋で、彼は小型の日輪花を買った。縦長のプラスチックの容器の中で透明な突起の付いた底があり、そこに一輪挿しのようになっていた。遠目から見ると浮いているような雰囲気がある。鮮やかな黄色と橙色が彩りのあるこの土地でも華やかに目を引いた。選んだのはナオマサだった。まったく誰に贈るのか、どういう場面で飾るのかを教えられることもなく、直感で、彼らしいものを手に取った。
「これからネ、病院行くノ」
「病院?それならその花は…」
「ダイジョブ。ダイジョブなノ」
彼は手を引いてバス停に並んだ。運賃を気にしたがナオマサは市民ウォレットカードを持っていた。
「付き合わせたノニ、ごめんネ」
「気にするな。どうせやることもなかった」
自家用車所有やドライバー専属の多いこの土地でバスの需要はそう多くはなかった。バス停もナオマサとチャンダナの2人だけで、しかし15分刻みにバスが来る。バスもまた市街地を飾り、ステータスになるような外観で、この街を絵や記号にするのならまず間違いなくバスが描かれる。理由は定かでなかったがスコーンバスと呼ばれていた。バスを待っていた時間より短く郊外の病院へと着いた。レンガの外壁は一見ホテルを思わせる。真っ白な巨塔に似た病棟を囲うように新築された。口数の減った少年はナオマサが居ることも忘れたふうだった。しかし忘れているわけではないようで後ろを付いてくる彼女をこまめに顧みる。車椅子の患者とエレベーターに乗り眩しいほど日差しの入る渡り廊下を通った。旧棟の内装も増築と同時に改装されたらしく汚れた感じはなかった。むしろケミカルな白い壁と床に反し日当たりが悪く、蒼い陰を落としている。不気味な雰囲気を醸していたが人気 はあり、点滴を連れている患者や見舞いの帰りらしき家族とすれ違う。2階分の階段を登り、建物の端にあたる大窓すぐ横の病室で少年は止まった。最も日の高く昇る時間帯で白い壁が眩しく照っている。
「ここ」
ワークキャップを外し現れた金髪がかろうじて届いている日光に煌めいていた。だが少年は静かで、固い顔していた。横スライドのドアを開けるのにも覚悟めいたものが要るようだった。ナオマサは今日も腕輪を付けていないその手が把手 を掴むのを待っていた。ほんの数秒が長く感じられた。ピアノを弾く趣味のある短い指がドアを開ける。ナオマサも中に入っていった。窓にはアイボリーの薄いカーテンが垂れ、室内を柔らかな色に包んでいた。ベッドには女が眠っている。ナオマサよりも少し年上に見えた。色が白く、黒い髪が枕にのっている。機材の多さや様子からいって、意識はない。普遍的な意味合いで眠っているのでもない。
「この方は?」
「…お姉ちゃん。って言ってモ、ホントのお姉ちゃんじゃなくテ、お姉ちゃんみたいだったひと」
チャンダナはパイプイスを出して座るよう促した。彼は萎れかけた花の挿してある花瓶を手にして病室を出て行った。静かに機械が唸っている。横たわる女は動く気配がない。名札には「菫衣-スミレイ-・Lavandula-ラヴァンドラ-・雨野-フラノ-」と書いてある。周囲のものを見回し、特に気になるものがないことが分かると空気と化した。もしかしたらチャンダナは溶け込んだ彼女を見つけられないかも知れない。やがて彼は花瓶だけ持って戻って来たが1人ではなかった。まだ若い男性看護師と一緒で、その者の寒気がするほどの美貌にまず目がいった。少し鋭さのある鼻に冷淡な印象を受ける。アカミネとわずかに雰囲気が似ていた。他者からしたらナオマサにもいくら共通する雰囲気を見出すだろう。とにかく愛想がなく表情が乏しかった。人嫌いげな様子でいてチャンダナの背を押していた。背は高い。入った瞬間にナオマサと目が合った。彼女は睨まれたような心地がした。アカミネにもそういうところがある。目付きと纏う空気感の問題だった。
「この人はネ、お姉ちゃんのコト看てくれてる看護師 さんのロージャ-Rozsa-」
若い看護師はナオマサを振り向きもしないで患者のベッドに近付いた。愛称でなければ聖飾名だ。この病室の患者とともに異国の宗教家の出である可能性が高い。
「でネ、ロージャ。この人がこの前話したイノイお姉さん」
機材を見ていた端整な横顔がナオマサを一瞥し、1秒にも満たない時間で直る。
「病院はデートスポットじゃない」
アカミネの兄弟を疑うほどナオマサから見てこの看護師はあの傲慢な世帯主に似ていた。
「そんなつもりじゃなかったケド……えっと、ゴメン。おでが来てほしいっテ言ったんダ」
「何か差し支えがあるなら帰ろう。下に公園があったな。そこで待つ」
新棟のロビーには小規模ながら喫茶店が入っていた。他の階にもコンビニエンスストアが入っているらしい。コーヒーを買って待つのも悪くない。今日は晴れ、日射しは強いが風がある。暑くもなく寒くもない。
「うん……ホントに、ゴメン。すぐ行くカラ」
「いいや。散歩でもしているから焦らなくていい。時間を潰すのは得意なんだ」
パイプイスを片付け病室を出る。裏玄関から建物を出るとリバーサイド公園入り口が小さな道路を挟んだ先にみえた。病院の利用者らしき寝間着姿の人々もちらほらと見えた。自動販売機で缶コーヒーを買い、適当に空いたベンチに座る。敷地を囲う手入れされた生垣の葉が白く反射している。遊歩道の奥に遊具や砂場があり、そのさらに奥には噴水施設があった。缶の中身が半分になる頃にチャンダナが走って来た。彼はロビーに入っていた喫茶店のワッフルをひとつナオマサに渡した。
「ここまで来たバス代」
「ありがとう。美味しくいただくよ」
受け取り礼を言うと、少年は口を尖らせて首を振った。
「ゴメンな。いつもはもっと優しいノニ。ホントは、いいヤツなんダ。今日はきっと、機嫌が悪かったんダト思う…」
「気にしていない。だから君も気にするな」
彼女は隣を軽く叩き、立ったままでいる少年に座るよう言った。彼は温順しく座った。項垂れ、肩を落としている。ワークキャップが陰を落とす。沈黙が流れ、爽やかな風が横切っていく。ナオマサはコーヒーを一口飲んだ。
「あのお姉ちゃんがネ、ああなっちゃったのは、おでのせいなノ」
「そうなのか?」
彼は頷いた。
「おでのコト庇って、守ってくれたノ。そしたらサ、殴られたり、蹴ったりされてサ。もう身体の傷は治ったんだケド、打ち所が悪かったんだっテ。だからずっとずっと、目が覚めないんダ。おでが流浪民族 にこだわったカラ、お姉ちゃんはネ……優しい人だったノ。おでのコト、ホントの弟みたいニしてくれたんダ」
悄然とした顔が持ち上がった。おそるおそるナオマサを見た。
「だから、イノイお姉さんが、腕輪外さなくテいいって言ってくれた時、スゴク嬉しかたんだヨ。すごく嬉しかたケド、怖くなっちゃったんダ。もっと早く、この土地に溶け込めバ、よかた。流浪民族 の誇りなんテ、お姉ちゃんのコトに比べたら、簡単に……」
ワークキャップの上にナオマサは手を置いた。
「簡単じゃないだろう?君の姉貴分もそれが分かっていたはずだ。比べて簡単だと断じる必要はないかも知れないぞ」
少年は首を竦めた。ナオマサも手を引っ込める。
「おでネ、鍵盤打楽器 好きでサ」
「上手かったな。ずっと聴いていたいくらいだった」
本物のピアノではなかったが、レーザーで作られた鍵盤の中を短い指が滑らかに動いていたのをよく覚えている。横に移動するために手首が頻りに翻る様を眺めるのが楽しかった。
「へへ……お姉ちゃんとネ、この地で鍵盤打楽器 の先生 になるって約束したんダ。だから、いっぱい言葉モ、勉強したシ、お姉ちゃんモいっぱいこっちの言葉、教えてくれたんダ」
「なれるといいな、ピアノの先生」
彼は頷いた。いくら笑顔が戻る。ナオマサの口元もわずかに緩んだ。
「いつか、ホントのグランドピヤ~ノっていう大きなやつで弾くから、聴きに来てヨ!」
「分かった。その時までに音楽を勉強しておこう」
「やっぱ今日、一緒に来てもらっテ、よかた。ロージャには怒られちゃたケド」
「気にしなくていい。今日は無為に過ごそうとしていたから」
彼の背を軽く叩く。まだ元気がなかった。
「ゴメンな、振り回して。一緒に来てくれてアリガトなんだケド、ゴメン」
「少し散歩でもしよう」
膝の上にある手を握りナオマサは歩き出した。川に沿って作られたこの公園はセントラルパークのように綺麗に手入れされ、地面は樹脂系混合物で舗装して遊具の種類も抱負だった。歩行練習のための器具もある。
「砂場で遊ぶか?」
「え!」
「冗談だ」
半分は冗談ではなかった。公園でひとり遊んでいるとスクールの帰りのカナンがよく迎えに来たものだった。それをふと思い出し、懐かしくなる。砂場の脇を通り高く水を繁吹いている噴水施設を眺めた。そろそろ噴水の止む時間が迫っている。噴水盤からはまだ元気のない潮が上がり、段々と高く勢いを増した。水気が2人に降りかかる。
「あ、あのサ……あのサ、イノイお姉さん。ロージャに、おでとデートしてるみたいに言われテ、嫌 じゃナカッタ?」
「男女2人でいればああいう表現はよくある。嫌ではないが君は?真剣に向き合っていたのに茶化されて」
カナンといる時も周りの目はカップルだった。そしてナオマサもまた2人連れを恋仲として区分することが多かった。少年に言われるまでまったく気に留めていなかった。カップルか否かをあの看護師が知るのは、赤の他人であるナオマサにはどうでもいいことだ。
「イノイお姉さん…」
チャンダナはナオマサの腕に擦り寄った。
「寒いか」
ワークキャップが横に揺れる。肩を抱いた。歩くのを促す。
「小さな頃、火喃とよくこうして帰った。ずっと一緒に居られるものだと思ってお互いに気にしていられるのはお互いのことだけだと思っていたから、アカミネさんと交際すると聞いた時は戸惑ったな」
「……兄貴分だったんだネ」
「わたしにとっては、家族と呼べるのは火喃だけだった。養父もいたが、長く一緒に居て、わたしを大切にしてくれたのは火喃だから」
触れている友人の身体が強張り、そして離れた。唇の色が悪かった。一言断ってから張りのある頬に手の甲を当てる。
「少し疲れたか」
「あ、う…ん、ちょっとだけ座らせテ!」
ナオマサは近くのブランコに彼を座らせた。膝をついてワークキャップのつばの下を覗いた。
「何か飲み物を買ってくる」
「ダ、ダイジョブ。ダイジョブ!」
彼は立ち上がろうとするナオマサの腕を掴んだ。ゆっくりとその手が滑るが、落ちることなく縋り付くように袖を摘んでいる。
「少し休んだら帰ろう」
小さな頭が頷いた。背中を摩る。背骨の細かな凹凸が指に伝わる。二夫の背に浮かぶ曲線も何度か目にしたことがあるが、触れたことはない。初めての男の背は固い。簡単に折れてしまいそうだった。日が沈み気温が下がる前に2人は帰路に就いた。言葉は少なかった。部屋まで送るつもりだったがマンション前で彼は別れを切り出した。
「一人暮らしだと何かと不便だろう?何かあれば連絡するといい。ロビーに公衆電話があったな?」
電話番号 を記した紙片を乾いた手に握らせる。
「ゴメンね、イノイお姉さん。ゴメン」
「謝らなくていい。養生することだ。早く帰ってすぐに寝るんだ」
数歩ごとにチャンダナは振り向いた。エントランスに白い服の後姿が消えるまでナオマサはそこに立っていた。ガラス扉に入る直前で彼は手を振った。手を振り返す。それから寄道をして自宅に帰った。二夫も帰ってきていた。綺麗に靴が揃えてある。玄関の音にハムスターのエサ箱を拭きながらカナンがやって来る。
「おかえりなさい、イノイ」
「ただいま帰りました。連絡もせずにすみません」
「いいんだよ。お友達のところ?」
「はい」
共にリビングに進み、ソファーでテレビを観ているアカミネにも帰宅の挨拶をする。ハウスキーパーはもう帰っていた。そしてリビングの隅には銀色の囲 が設けられ、中にはトンネルや小型の木製タワーなどハムスター用の玩具が置かれていた。
「あの友人と仲が良いんだな」
「はい」
「今日は何をして遊んだんだ」
「公園の散策をしました」
意外にもアカミネが興味を示した。しかし片夫の前のパフォーマンスだろう。
「セントラルパークか?記念公園?」
「西部 川端 公園です」
「市民病院の裏にある?」
「はい」
カナンは柔らかく夫と付き人を眺めていた。2人の仲が良いのが嬉しいらしい。ナオマサもアカミネも互いにそれを汲んでいることを承知している。かといって2人は特別仲が悪いわけでもなかった。カナンに対する立場が違う。そこに生じる差が埋め難く、相容れない。
「楽しかったか」
「はい」
「良かったな」
「はい」
中身の無い会話を続けた。カナンが見ている。それだけで下手な役者になった。キッチンテーブルセットにいた彼がアカミネの隣に座る。
「今日はサフランライスとコンソメのロールキャベツにします。キノコのソテーも付けます。それでいいかな?」
世帯主は頷いた。そしてカナンがナオマサにも確認する。
「お願いします」
「うん。美味しく作るからね」
ナオマサは自室に戻った。
カナンが就寝した頃、ナオマサはリビングのコンポを弄った。小さな音量に絞り、スピーカーに耳を近付け有名な曲を集めたピアノの音楽CDを聴く。人生のどこかで何度か聴いた曲が奏でられていく。「裸身の若者たち」と題された曲がまず流れた。寂寥感を帯びた響きがあり、ところどころに嗚咽を殺すような音があった。全体的にゆっくりと時の流れを感じるが、同時に急くこともできない虚しさを覚える。次は「寛ぎそして葬送」だった。オルガンで聴いたことがある。悲壮感が全面的に出ている。優しい高音がたびたび短く挟まれた。
「珍しいな」
寝間着姿でも絵になるアカミネがリビングに来ていた。カナンとともに寝たものと彼女は思っていた。一時停止ボタンを押す。
「起こしてしまいましたか」
電源ボタンを押そうとした。
「続けてくれ。ここまで来てもほとんど聞こえないくらいだ。止めなくていい」
彼は冷蔵庫を開けていた。
「飲まないか」
「ご一緒します」
曲が変わる。追複曲 の形式を取っている。テーブルに移る。缶を渡される。酒肴は赤みの強いプロセスチーズだった。
「〈追複曲と舞曲37番〉だな。彼が好きな曲だ」
アカミネは缶酒を傾け目を閉じている。
「初めて彼とコンサートに行った時も流れていたな」
邪魔することのないよう相槌も打たなかった。「追複曲と舞曲37番」が終わるまで彼は黙っていた。やがて曲が終わると目を開く。
「カレシに影響されたのか」
「恋人ではありませんが、そうです。少しは知っておいたほうがいいかと」
アカミネはまた酒を一口飲んだ。無言のままナオマサを舐めるように見た。
「放浪穢多 だぞ、あのお前の友人は」
どこで見抜いたのか分からなかった。腕輪はしていなかった。しかし日に焼けていない手首を見てしまえば分かる。或いは少し上の世代ならば知る術 があるのかも知れない。確かにチャンダナは特異的な肌の色や地毛をしていたが、それだけではまだ放浪穢多とは断じきれない。もし事実ではなく放浪穢多と触れ周り訴訟にでもなれば、大罪だ。殺人罪に等しい。それほどまでに放浪穢多であることは社会的信用を損失した。
「存じております」
唇が震えた。今日の酒はそこまで強くない。
「知っていて、彼と俺にあの友人を紹介したのか」
「……はい」
アカミネは怒鳴ったりテーブルを叩いたりすることもなく、普段どおりに落ち着いていた。
「彼は気付いていない。だがもう連れて来るな。関わるのもやめろ。どうしてもあの友人と遊びたいのなら彼から離れて暮らせ。もし事が周りに知れたら彼の立場はどうなる?放浪穢多 と関わりがあるのは社会的リスクを伴う。大切な家庭があるということは、時に非常になる必要がある」
ナオマサは酒を呷った。一口齧ったチーズが進まない。
「社会的リスクという点で申しますと、大旦那様は完全に清廉潔白な身の上だとお誓いになられますか」
「脱税、暴力、違法薬物、不倫、窃盗、詐取、過失致死。どれも放浪穢多 との交流だの支援だのに比べれば清廉潔白に等しいな。だが、お前は俺の何かを疑っているな?」
「はい」
「論点を逸らしてまでか」
もう一度彼女は「はい」と答えた。
「何を疑っている」
「不貞行為を」
「証拠を持ってくれば話そう。無ければただの疑いだ」
「旦那様の気持ちはどうなります」
彼は首を回し、酒を口に含んだ。嚥下を待つ。
「放浪穢多 と関わるお前よりも考えているさ。変わらず愛している」
「この件について旦那様には黙っておきます。ですがわたしの友人のことは大旦那様の裁量にお任せいたします」
「惚れたのか」
「いいえ」
アカミネは唇を舐めていた。チーズを噛む。ピアノの曲を少しの間聞き逃していた。川端の公園で見ていた少年の姿が脳裏に浮かび上がって張り付いた。友人といっていた男性看護師もあの少年が放浪穢多と知ったら縁を切るのだろうか。切るだろうとナオマサは思った。その理由は簡単だ。アカミネによく似ていたから。
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