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第17話
カナンの熱は夜になっても下がらなかった。しかし高熱というほどでもなかった。体温計も微熱に留まり、しかし潤んだ目と頬の紅潮は治らない。相変わらずぼんやりして人懐こくナオマサの手を触った。頻りに寝返りをうち、足や膝を擦り合わせる。寒いのかと問えば寒くないと彼は答えた。
「セックスしたい……」
熱っぽい呟きにナオマサは目を丸くする。彼女の反応にカナンもまた驚いた顔した。まったくの無意識だったらしかった。口元を覆い、水膜の張る目を瞠った。
「あ……その、違、くて……」
生温かく汗ばんだ手が必死に妹分を繋ぎ止める。彼女は何を言っていいのか分からなかった。
「リビングにいます。リビングに……必要なものがあれば、準備しますから、言ってください」
「ち、違うんです。イノイ、ここに居て……」
下着を押し上げていたものは、放置しておけばそのうち鎮まる程度のものだと高を括っていた。ナオマサの自分の経験ではそうだった。熱っぽい吐息が別の色を持ち始める。何かに助けを求めようとして真っ先にアカミネが浮かんだが、この件に関してアカミネほど冷徹な男はいない。
「多分、あの人の匂いがするからだと思うんです……だって、今までは、こんなんじゃなくて………もっと純粋に…」
カナンの肉体に重なる布団が蠢く。手は強く妹分の手を握る。生温かい手と冷たい手の間が汗ばんでいく。
「何か慣れないものを口にしましたか」
インスタント食品に精力剤のような効果はないはずだ。多少効果のある食材や添加物が入っていようと、これほど重度のアレルギー反応のようなものではないはずだ。空いた手で額に張り付く髪を除ける。カナンは濡れた目を細め、緩やかに首を振った。
「あの人の匂いがするから……」
「わたしのベッドに移動しますか」
ナオマサは彼の言葉をすっかり受け止めた。彼は震えるように首を振る。
「だ、大丈夫……寝汗すごいし、汚してしまいますから」
繋がれた手がぎこちない。ひとつひとつ、骨張ったしなやかな指を外した。
「イノイ……」
「旦那様。生理現象です。少し空けますからまずは落ち着きましょう。わたしは旦那様に楽になって欲しいのです」
「イノイ…っ!」
出て行こうとする妹分の腕にカナンは必死になってしがみつく。兄貴分の多分に水を含んだ美しい眼差しに貫かれ、彼女は硬直した。
「気持ち悪いって、思わない?」
「思うわけありません」
「女の子は、こんなおじさんのそんなの……気色悪いと、思うから………」
「旦那様が気持ち悪いだなんてことは今までにひとつとしてありません。これからもそうです」
汗ばみ熱を孕んだ手が妹分の腕を布越しに引っ掻いた。
「わたしは早く、旦那様に楽になってほしいのです。それだけです」
「じゃあ、キスして…」
特殊な意味ではなかった。彼が秘密を打ち明ける時、秘密厳守の誓いのキスをねだるのだ。彼が交際と婚約を話した時もそうだった。最初はアカミネのことを怖がり、気味悪がっていたが、思想改造のようにいつの間にか彼はあの男を好いていた。
ナオマサは兄貴分の唇に顔を近付け、寸前になって頬に口付けた。この期に及んでまだ「大旦那様」に義理立てしてしまう。潤んだ瞳を直視できず、ナオマサは顔を逸らして部屋を出た。スマートフォンを確認すると大量の着信が入っていた。看護師と話していた時のものに違いなかった。そのうちのひとつから折り返す。3コール目で出る。
<なんだ>
低い声は相変わらずだった。
「名尾方 です。お仕事中申し訳ございません」
<留守電のことならもう済んだ>
「出られずすみませんでした。旦那様のことでご相談が」
電話の奥が静まった。2人だけで話す時は大体彼は怒っているような雰囲気があった。
「微熱が出ておりまして……」
<ほかに症状は>
「微熱だけです。それから………その、」
<なんだ>
ナオマサは口籠もった。アカミネは鋭く追求した。
「いいえ、微熱だけです。ですから、家を空けるのはもう少しだけお待ちください」
<そのことならいつでもいい。彼の家でもある>
淡々とした口調は普段と変わらない。心配した様子もなければ突き放す感じでもなかった。それが少し意外だった。ナオマサの見ているこの二夫は今からでも帰宅すると言わんばかりの一種の盲目さがあった。
<面倒を頼んですまないな>
「いいえ。大旦那様のお気持ちは理解しているつもりです」
<お前に理解なんざ出来ない>
熱い湯が掛かった反射の如く、間髪入れずにぴしゃりと通話相手は言った。
「出過ぎたことを申しました」
<いや、いい。無事なんだな?>
「微熱はありますが、他にはこれという症状はありません………」
<それならいい>
電話を切られてしまう予感がした。アカミネは忙しい。メディア露出も名前を出したりもしないが、この地有数の若手社長だった。隣人でさえそのことを知らない。カナンはそういう片夫を奥ゆかしいと慕っていた。内向的には自慢に思っていたようだが周りに言いふらしたり鼻にかけることもなかった。
「あの………旦那様はなんだかんだ言いましても大旦那様に一目会いたいと思うのです。その、微熱によって精神のほうでも弱っているというだけでなく………」
通話中なのかもう切られているのか分からない。
<あの薄汚い売男 とその番犬に構うのはやめて、火喃から目を離すな。一挙手一投足見逃すんじゃない>
「……はい」
<お前なんぞは俺にとったら火喃の生肉ディルドに過ぎないんだからな。あの綺麗な身体をディルドらしく慰めてやれ>
ナオマサは顔を険しくした。自分だけでなくカナンまで卑しめられた心地になる。まるで股の間に凸部分があるのなら誰でもいいような言い方だった。カナンが求めているものをこの夫は分かっていない。蔑ろにしている。今まで何を見てきたのだ。カナンは一度たりとも血肉を持つ他者を性玩具のように扱ったことはない。
「何をおっしゃいます」
<……切る。火喃におかしな男を寄せ付けるな。お前も彼に触る手で変な性病 を拾ってくるなよ>
もう何も言わせなかった。ぶつりと切れる。スマートフォンを叩く音さえ聞こえるようだった。あれで動揺している。典麗優雅な口が露骨に下品な言葉を吐いた時、ナオマサはそれを察した。ソファーに座り時間が過ぎていくのを待つ。滑車の音は聞こえない。静寂に全身が融解していく。やがて二夫の部屋が開いた。駄犬のように彼女は駆けた。壁に手を付いてカナンは立っていた。まだ熱があるようだった。
「保険屋さんの書類に不備があったんですって……」
「わたしが代わりにやっておきます」
「大丈夫です。イノイは座っていて。すぐに来るらしいから」
カナンの身体を支えた。彼は低いところにある妹分の肩に頭を預ける。首に力が入らないのか気怠い様子で、接触したところは汗で湿った感じがあった。吐息も熱く弾む。
「咳や頭痛はないんですか」
「うん。ちょっと暑いだけ…」
重い足取りでキッチンチェアに辿り着きテーブルに突っ伏してしまう。ナオマサは水を汲んだグラスを差し出す。スポーツドリンクや補水液は置いていない。
「下の自動販売機でスポーツドリンクを買ってきます」
「大丈夫だよ、イノイ。そんなに気を遣わないでください。本当に、ちょっと熱っぽいだけなんですから」
「いけません。買ってきます。そこから動かないでください」
柔らかな生地のタオルを掛け、いくらか強めに言った。彼はそれを手繰り寄せ頬に当てると、ぼんやりした目がテーブルから持ち上がる。
「じゃ、じゃあ……保険屋さんにも何か………ジャンクなものが好きだと言っていたので、コカドリンクとか」
「はい。買ってきますから、そこから動かないでください。転んで頭や膝を打ちます」
「うん」
カナンは可愛いらしく返事をした。ナオマサは10音遊びの如く何度か振り向きながら病熱の中にある兄分を確認した。テーブルに伏せた脳天が見える。父の遺伝が強ければあと50年近くで禿げるのだろう。ナオマサは目を逸らしエントランスにある自動販売機に向かった。「大旦那様」の愛人が住むタワーマンションのエントランスとは違いラウンジはなかったが、こじんまりとしたロビーはあった。そこに自動販売機がある。暮なずむ空と電飾の灯る共有ガーデンを映すガラス窓横のソファーに見覚えのあるぼさぼさの茶金髪があった。ばりばりと音がした。髪を加工した形跡のあるスーツの男はポテトチップスをスナックトングで食っている。ナオマサよりも先に相手はもう彼女に気付いていた。肩に真っ赤なヘッドフォンを掛けている。
「あ、幸群様ン宅 に下宿してるとかいうお嬢さんじゃん。ド田舎に下宿してまで必要なコトなん?フツーはもっと都会に出ない?お仕事、左遷 されたとか?あ、俺 ちゃんコカがいい。コカ水がいい。糖尿水が」
スポーツドリンクを自動販売機から拾うナオマサを見て彼は言った。硬貨を自動販売機に食わせる。コカドリンクのボタンを押す。ガコン、と鈍い音がしてボトルが取り出し口の底部に叩き付けられる。
「これ全部食って歯磨きして香水振ったらお邪魔するわ。あ、あと白髪も抜こうかな。髭は剃ったし。そゆことでよろちくび。あ、セクハラ!」
誰と喋っているのかも分からなかった。おそらく塩味のポテトチップスをミニトングで数枚纏めて口に放った。
「肥やし臭いド田舎のママンの厚切り芋 天麩羅 が恋しいよな。殺人級のデブ料理が」
両手にボトルを持ち、ナオマサは独り言ちる保険屋の脇を通った。
「ママンの芋 天麩羅 が恋しいよなぁ?」
「知りません」
足も止めず保険屋の男のほうを見ることもなくナオマサは部屋に帰った。カナンは要求どおりキッチンテーブルに上半身を預けていた。スポーツドリンクを注いでストローを挿す。赤みのある白い手がグラスを握ると一瞬曇ってみえた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
淡い色の唇がストローを咥える。軽く窄んだ口をナオマサは見つめていた。保険屋はその数分後に再訪した。百舌鳥 の巣みたいな茶金髪は傷んでいるなりに櫛を通され整えられていた。カナンのぼんやりした目がまた水気を帯び、蕩けた表情をして保険屋を見ていた。
「お嬢さんにはまだご紹介できていませんでしたね。私 、カンファー三保 のユカリ-遊華鯉-ディベス・ハス-覇須-と申しますん。ハーフなんですよ」
エントランスで見た時と態度を一変させ、綺麗な姿勢をを保って名刺を渡した。「カンファー三大保険第一管理株式会社」の「遊華鯉ディベス・Galangal-ガランガル-・覇須」と聖飾名も入っている。看護師と同じく宗教家だ。
「どうぞ、上がってください」
「体調の悪いときにどうもすみません」
カナンはガランガル・ハスという保険屋をリビングに通した。ナオマサも付いていったがソファーに座り背後の会話を聞いていた。
「すみません、署名と印鑑が足りなかったもので」
「あ、の………」
カナンの息を詰めた声が漏れ、ナオマサは上体を捻り後ろにあるキッチンテーブルセットを振り返る。兄代わりの背中の奥でほくそ笑むガランガル・ハスと目が合った。カナンの手に触れている。
「火喃、やはり具合が悪いのでは」
「だ、大丈夫……」
「女性ひとりで看病は大変でしょう。部屋に連れていきますよ」
カナンの腕が保険屋の肩に回された。寒気がした。ガランガル・ハスとかいった胡散臭い田舎コンプレックス持ちが首だけナオマサのほうに向いた。勝ち誇ったような口角の吊り上がり方をした。
「ごめんなさい」
「いいんですよ~!私 のせいなんですから。起こしちゃってすみませんでしたねぇ!」
潤んだ眼球を横から見た。よく知らない男と触れ合っている肩から目を逸らす。嫌な予感がした。部屋に付いていってはいけない。何か、たとえば空気が囁いている。もしくは足が忠告している。あるいは第六感が制止している。部屋の扉が閉まった。廊下を抜け、カナンの選んだヒールのある靴に足を突っ込む。走り回り駆けずり回った時は踵を苛んだものだった。こういう時は2人にするのだ。2人にするのだ。法律的に、社会的に、倫理的に正しい相手の時もそうだった。
『他の人に頼ったりしたら……そうだな、その時はこの家ごと燃やす。俺たちと一緒にお前も焼かれてくれ』
『彼は俺を好いているし、俺は彼を愛しているから、心配するようなことじゃない。彼が俺以外の男 乃至 女と契ることはない。揺さぶりにもならん。くだらない妄想はやめろ』
酒気という名目で赦され、酔いとともに流された過去の会話がふと蘇る。飲んだ酒は分解されたとて徐々に内臓を蝕んでいる。ヒトが飲める味付けにされていても人の飲むものではない。あの男も酒嫌いな酒飲みだ。
「ちょ、ちょっと!どこ行くん?お家 の人放っぽる気なんか?」
ぱたぱたと革靴を鳴らし、エレベーターに向かうナオマサを保険屋が止めた。恐れていたことは起きていなかった。
「なんでいきなり出てった?もしかして喧嘩中の人夫が色男と2人っきりになったからって、いやらしいこと考えてたんでしょ!セクハラ~」
彼は身をくねらせながら人差し指で突つくような仕草をした。
「あ、でも火喃さんとデート決まったから。うひょひょ、よろしく。お嬢さんのお義々兄 ちゃんになっちゃうかもね……冗談だよ。怒らんで。こんな牛糞臭いド田舎に婿 ぐのなんて勘弁だし」
「国有数の都心なんですが」
「あ、そこ突っ掛かる?いいよね?火喃さんとデートしても」
「火喃はどう言っているんですか」
表情豊かな顔が軟派に笑う。挑戦的な色を含んでいた。ナオマサは浅く眉間に皺を刻む。カナンがアカミネではない男と2人きりで出掛けるだろうか。
「完全に了承 。俺 ちゃんのコト、義々兄 って呼んでもいいよ」
「それは大旦那様に報告してもいいことなんですか」
「いいんじゃない?報告すんの?じゃ、寝取ります、まで伝えておいてくんない?寝取られ野郎の甲斐性なし、まで。お嬢さんのほうで報告してくれんなら、俺 ちゃん、有言実行するわ。このチクり魔が。え?密告犯。スパイがよ」
そばかすのある自分とよく似た顔立ちからナオマサは顔を背けた。そう思っているのはひとりだけなのかも知れない。
「悪い冗談はやめてください。失礼です。火喃を卑しめるな」
「卑しめる?一体全体、俺 ちゃんが何を卑しめたってんだい。寝取られちゃうこと?へぇ!御宅 さんは寝取られることは卑しめることと同意義なんだな。でも抱かれる側なんてのは気持てぃ~セックスした相手 に付いていくんでさ。人間的不自由からの開放、動物的で、神への魂の譲渡だ。素敵だろ?」
看護師と取っ組み合ったときに感じた強烈な胡散臭さをここでも味わうことになった。彼等は平然と大それた、仰々しい話に持っていく。もっと地に足のついた生臭い、ヒトの界隈の中で収まる話のはずだ。
「火喃には分別があります」
「浮気しまくりのおちんちん脳の"大旦那様"とは違って?」
にやりと保険屋は嫌な笑みをする。ナオマサは彼を睨んだ。
「いんや、浮気しまくりは語弊がある。1人の浮気相手とパコりまくってたほうがガチ度も違うし、性欲肉欲パコり欲ってだけじゃなさそうだからクズ度はバリ高いよね。で、浮気相手って火喃さんよりやらしいの?やっぱ男は清純系より結局はセクシー系を選ぶんだよな。清純系好きなやつがそもそも浮気大好きなんだかっさ」
「黙りなさい!火喃の選んだ人を蔑 めるな!」
爪を立て高いところにある減らず口を摘んだ。しかし上手いこと掴めず、頬を引っ掻く。ガランガル・ハスは仰け反ったが抵抗したり反撃したりはしなかった。むしろ思い切り被害者であることを愉しもうとしていた。そういう底意地の悪い笑みが口元にある。
「うわぁ~。だから侮 ったりしてないって!なんで?セックスに貪欲ってイケナイこと?」
ナオマサの手ほどの大きさしかない男の顔をそのまま首の曲がる方に加圧する。
「黙らないなら黙らせます。貴方はアカミネさんをクズ同然のように言いました。やらしいだのやらしくないだのと火喃の人格を無視した発言をしました。どこのどなたが性に奔放なのかはわたしに関係ありません。ただわたしに関係のある人間の人格を無視して面白おかしく喋り続ける怒ります」
「もう大激怒 だね?」
彼は頭部を突っ撥ねる女の細腕を乱暴に叩き落とすと、へらへら笑い様子をみながら一瞬で捻り上げた。背後に回った男の腿をピンヒールで蹴った。
「なんかそんな詩歌 あったよね。人の色恋爆走ハイウェイを邪魔するやつはミサイル自動車に追突されて爆散しろやカス!だっけ。発情ハイウェイだっけ?まぁいいや。でも多分その色恋爆走ハイウェイの先にあるのはお気楽ジャンプ台よ。底無しの泥沼に頭から墜落 こいて溺れ死ぬんだろうけど」
男は余裕があった。わざと隙を作った。ナオマサは首を掴み手摺壁に持ち上げる。手を放されたら墜落することも分かっていないのか、それとも分かっていての余裕なのか彼はにやにやと締まりのない顔をしていた。そしていきなり近隣に響き渡るような金切り声を上げる。今更になって女の細腕を両手で抵抗するように掴んだ。
「一緒に堕ちようよ。臭い肥やしの中にさ」
軽快ながらも不気味な笑いを浮かべ、意味ありげにゆっくりと彼は脇に視線を滑らせる。ナオマサも瞳の先を追っていた。サンダルに足を突っ掛けたカナンが立っている。
「イノイ……?何してるの………?」
「火喃…」
「火喃さん!助けて!殺される!」
「イノイ!」
叱るように呼ばれ彼女は手摺壁から保険屋を降ろした。ナオマサに短気な自覚はあった。そしてそれを普段から抑えている。カナンにも悟らせないようにしていた。「大旦那様」はおそらく気付き、煽っている節がある。
「ごめんなさい、保険屋さん。うちのイノイが。お怪我はありませんか」
保険屋はカナンのほうに走り寄り、顧客であるにも関わらず自分の保護者のように甘えはじめた。
「怖かったよぉ、火喃さん」
「ごめんなさい。本当に…ごめんなさい。ほら、イノイ……謝りなさい」
「すみませんでした」
カナンには見えないところで保険屋の男は悪戯っぽく笑っている。ナオマサにこだわるところはない。謝れと兄代わりが言うのならそこに矜持はなく、すべて自分が悪いのだ。悪いのなら謝ることに躊躇いはない。
「いいんです。もう済んだことですし、私 、今ちゃんと怪我なく生きてるんで」
「そうは行きません。きちんと本社まで謝りに……」
「あ、じゃあデートしてください。そんな大事にするつもりないですし!だって悪いですよ、火喃さんもちゃんと止めてくれたんですから」
ナオマサは2人のやりとりから目を逸らし、通路の床をぼんやりと見ていた。
「デートしてください。旦那さんにはナイショで」
「ぁ……でも、夫に悪いですから………」
「ボク、火喃さんに一目惚れしてしまいました。お願いします。1回だけでいいんで。1回だけ。大丈夫です、心配ならお嬢さんも一緒に……」
カナンはおそらく頷いた。ナオマサはゆっくり顔を上げる。濡れた目がいつもより大きく見えた。
「どうしてあんなことしたんですか」
カナンの熱は少し引いたようだった。彼はソファーに座り、ナオマサはキッチンチェアに座していた。責めるというよりは戸惑っている。そして悔いているというよりは反省点のない反省をしていた。
「イノイ……保険屋さんと何かあったんですか…?」
アカミネを侮辱された気がした。カナンを貶められた気がした。あの保険屋はそういうつもりはないと言うに違いない。性に対して偏見を持っていると言うだろう。価値観からしてまるで分かり合えない。話すべきことはないのだ。経緯を言語化するのもひどく気が重い。
「特に、何も」
「特に何もないのにあんなことをしたんですか。悪ふざけじゃすみません。もし何かあったらどうするつもりだったんです。後先考えてください」
「悪ふざけのつもりでした」
カナンは嘆息した。病熱のなかにいながら彼は保護者でいようとする。
「悪ふざけであんなことをするほどイノイは馬鹿な子じゃないと思っていたけれど…今まであの人がいたからですか。あの人が居なくなって、浮ついてしまいましたか」
ナオマサは返事をしなかった。あの男がいれば保険屋が言い寄る隙などなかったはずだ。
「あの人と暮らすのは、イノイにとって窮屈でしたか…?イノイ、悪ふざけで4階から落とそうとするだなんて、怖いです」
胸部を見えないドリルでえぐられような心地がした。怖い。その一言が様々に彼女の頭の中で分散する。守らなければならない人を加害している。圧迫している。追い込み、責め苛んでいる。許されないことだ。
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