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第18話

 実家に帰ると彼女は嘘を吐いた。熱っぽいカナンのことを一度も見ないで、彼が不安定な中にいることも忘れてナオマサは帰る場所もないというのに出てきてしまった。怖がらせることはいけない。不安がらせるのなら離れなければならない。加害することは許されない。少しの間共有ガーデンに座り建物を見上げてどうするか考えた。行くあてはなかった。行くあてのない人間の行ける場所がひとつだけある。貧民窟だ。去る者も来る者も拒まない。下の階の住民とすれ違い、適当に挨拶を交わす。丘下に降りると赤い点滅とサイレンが見えた。高級住宅街に向かっている。強盗か、殺人か、両方か。カナンのことは心配だった。そこに偽りはなかったが、不安因子と2人きりで同じ屋根の下にいることほど問題ではない。歩を進める。カナンとの距離を空けなければならない。怖い。その一言が耳と頭に貼り付いている。延々とリピートされている。まずぶつかる三叉路のうちの隣の市に貫通する道から人影が見えた。外灯に黒く塗り潰されている。頭が小さく、脚が長い。胴は短くしなやかだった。 「大旦那様」  条件反射のように彼女はメイドよろしく恭しく上体を伏せる。まだ黒く塗り潰され顔は見えない。しかし人違いではなかった。 「彼はどうした」 「大旦那様は旦那様のもとにお戻りくださいまし」 「戻らない。もう戻らないから必要なことがあれば第三エレミビルに来い」  彼は手袋を嵌めていた。極めて小さな鱗のようなざらついた質感と反射からいって革製だ。自殺者ばかり出す怪奇スポットを冷ややかに告げられる。反社会的勢力の根城ともいわれている。「大旦那様」がそことどのような関係があるのか。身投げしろということだ。 「わたしは出て行きます」  アカミネの醸す空気が変わる。 「何かあったのか」 「旦那様を怖がらせる真似をしました」  頬を平手が打った。ナオマサは小さく礼をする。そしてばつの悪そうな舌打ちが聞こえた。 「傍に居るために生きているんじゃなかったのか」 「旦那様の恐怖になるわけにはいきません」  外灯に染められた影がライターによって一瞬褪せた。タバコを吸うアカミネの姿は稀だ。煙がゆらゆらと上がっていく。 「旦那様のためなら、俺を殺せるか」  タバコを持つ反対の手がナオマサに差し出される。彼女は手を出した。硬く重い物体がそこに乗せられた。男の手の重さも含まれていると願った。形状と重み、質感に覚えがある。 「……できません」 「駄犬め」 「旦那様が哀しみます」 「何故」  顔はやはり見えなかった。しかし片眉を上げ、挑戦的な表情をしているのが彼女は容易に想像できた。 「旦那様は大旦那様を愛しています」 「違うな。(おとうと)分のお前が人をぶち殺したことを哀しむのさ。俺が死んだことじゃない」 「死者よりも生者を慮るのは別段不思議なことではありません」  頭を小突かれる。掌に乗った物体は大きさの割に重いままだった。鉄の塊だ。 「俺はお前になりたかった。何が無くても彼の傍に居られるお前に」 「わたしは常に旦那様の中心で居られる大旦那様になりたかったものです」  アカミネは黙った。するとナオマサも黙る。タバコの火が緋く光りながら高圧的な口にじりじりと近付いていく。 「これからどうするんだ」 「実家に帰ります」  鼻で嗤われる。嘘を見抜かれたような心地だった。 「それはお前にやる。いつでも俺の頭でも心臓でも狙いに来い」 「要りません」 「要るさ。お前に撃たれたいんだ、俺は。お前にな。だって彼は俺を撃てないだろう。お前にぶち殺されることに価値がある」  未使用の携帯灰皿を差し出す。癖で持ち歩いていた。養父から貰った初めてのプレゼントだった。だがナオマサは喫煙者ではない。タバコは静かな嘲笑と共に灰皿に押し付けられる。プレゼントは十何年も経ってやっと役割を果たした。 「じゃあな。帰る実家があるなら帰れ。彼のことは残念だが仕方がない」 「お戻りください。旦那様のもとにお戻りください。わたしはもう戻りませんから、旦那様のもとに…」 「あと5発入っている。好きに使え」  あまり馴染みのあるものではなかったが、これの装弾数が6発であることは知っていた。1発を何に使ったのか、それが訊けなかった。アカミネは夜に紛れてやってきた大型車に乗ってどこかに消える。  サイレンは街中に響いていた。繁華街には軍警が配置されていた。あちこちで職務質問されている。荷物検査もしているようだった。大抵は任意だという。ナオマサは夜間に出歩いても職務質問を受けたことがなかった。銃を隠し持ったまま歩く。 「おい」  狭い路地を通りがかった時、横から伸びた腕に掴まれる。あの看護師だ。息を切らしていた。電話奥から聞こえてきた生々しさを呼び起こす。 「探したぞ」 「何か用ですか」 「来い」  服を引っ張られ足元のゴミや室外機を避けながら昼間も満足に日の届かなげな袋小路に入った。木造アパートの建つ敷地に入り、錆びた鉄板の階段を上がる。赤い塗装が剥げていた。小火騒ぎですぐにでも全焼してしまいそうな脆さがある。 「ここは」 「俺の家」 「お邪魔します」  10代にして軍役経由の看護師で市民病院勤めならばもう少しグレードの高いアパートにも住めるはずだった。内装も質素で、開けたら目の前に小規模な下駄箱と入ってすぐにキッチンスペースがあった。適当な台に電子レンジや炊飯器が置いてあったがまめな性格なのか生活感のある汚れなどは見当たらない。かなり片付いていたが洗濯機の上に下着が干されている。ボクサーブリーフとトランクスの2種類だった。片方は無地で暗い色をしていたが、片方はキャラクターのプリントされた明るいものだった。まだ糊が効いているところからして新品だ。ユニットバスとキッチンスペースの奥は襖で仕切られていた。小さくテレビの音がする。看護師は襖を引いて中に通す。石鹸に似た馴染みのある柔らかな匂いがした。しかし石鹸そのものではなく、あくまで似せて作られた香りだった。部屋にはグレーのカーペットの上に毛足の長いラグが敷かれ、黒いテーブルとベッドが置かれていた。急遽作られた舞台セットといった感じでやはり生活感がなかった。テレビの横にもうひとつ部屋がある。 「それで用というのは」  促されたとおりにラグの上に腰を下ろす。看護師はカップにエナジードリンク・ナイトメサイアの緑缶を注いで彼女に出した。蛍光黄色の液体のなかで小さな泡が弾けている。 「あんたがやったのか」 「何をですか」  看護師は顔を近付けた。切れの長い目と目頭から目尻まで美しく畳まれた二重瞼を見る前に、閉ざされた襖から叫喚が聞こえた。気を取られる。ロージャークは自身の膝を下に押して立ち上がった。出して、出して、帰して、と悲痛な声だった。襖が開く。壁中にびっしりとポスターが貼ってあるらしかった。ドーリーミュージシャンを追う趣味でもあるのかと思われたが、部屋の電気が点くと被写体に見覚えがあった。金髪に褐色の肌と瑞々しい笑顔を浮かべている。ひとつも目線はカメラに向いていない。画角からして隠れた場所から撮影されている。ドリンクを飲む姿、買い物袋を持つ姿、花束を持つ姿、中にはそこにいる看護師と並んで歩く姿も撮られていた。ナオマサは叫び声よりも異様な室内に気を取られていた。褐色の肌に金髪のソフトビニール製の人形まで並んでいた。有名な子供用の人形だが、店頭で見るのは毛先のカールしたロングヘアのはずだった。すべて髪を切られている。白いシャツワンピースや病衣を着せられ飾られている。 「帰らせテ、帰らせテ…!」  点滴や機械の(くだ)に繋がれたチャンダナが暴れている。目を瞑り、意識はないようだったが、自分の乗っている小型のリクライニングベッドを叩いていた。その周りをストーブガードとしてユキムラ宅にもある低い柵が囲っている。看護師はその中に入り注射器を管に打っていた。部屋のどこに居ても無数にいるチャンダナの目と合わない。実物も叫びはすれど意識がない。彼とは違う青やグリーンの瞳のアイシールが不気味に虚空を眺めている。 「随分と用意がいいんですね」  看護師は答えなかった。黙ってチャンダナの処置をしている。唸るような声を喉に反響させながら少年は静かになっていく。小さな顔を覆う酸素マスクが白く曇った。 「それは治療ですね」 「鎮静剤。機材はあの医者から借りた。いくら投げ込み病院でも流浪民族(ノマディック)は置いておけないそうだ」  彼はまだ管に注射器を射している。ゆっくりとプランジャーが沈んだ。 「俺が栴檀を殺すと思ったか」  彼を殺して自分も死ぬだの、逮捕してくれだの言っていたのを聞かされている。そう思うのも無理はなかった。肯定は沈黙になった。 「殺すかもな」  看護師は乱れた少年の衣服を整え、剥がれかけたテープもまた新しく貼り直していた。無防備な頬を手の甲が摩る。部屋中を埋め尽くす少年の笑顔が虚しい。 「貴方に必要なのは彼ではなくカウンセリングです」  恋慕に狂っている男はまた黙ってしまった。立ち上がり、部屋から出るよう促す。そしてまたこじんまりとしたリビングに移った。 「先程の話に戻りますが……」 「あんたが栴檀を見つけたビルで殺しがあった」  ナオマサは顔を険しくする。この話題に触れたくない。詳細を知ることを拒んでいるくせ、関心は捨てきれない。 「殺し…?」 「俺はてっきり、あんたが栴檀の仇を()ったものかと思ったんだがな」  唖然とした。何を言われたのかすぐには理解ができなかった。 「よくよく考えればあんたなはずがないな。あんたには守るべき家庭があるんだものな」  青年は冷ややかに笑いはじめた。不穏な感じがあった。笑いというものが彼の中にあったのだ。爛々とした目が鋭く威圧的にナオマサを捉えた。 「何が守りたい家庭だ。あんた等にとって全部悪いのは栴檀だ。あんたの守りたい家庭は、旦那がぶち壊してることには知らん顔して、栴檀ばかりを責め立てる!栴檀がそんなに悪いのか。金をもらって仕事をしただけの栴檀がそんなに……?あんたの家庭は不倫してる旦那を一度だって取っ捕まえたか?見逃して黙認して事勿れ主義を貫いたんじゃないのか。部外者の栴檀だけが悪役にすれば丸く収まったのか?あんたの家庭(いえ)の旦那の我慢が利かない棒切れをカットするくらいの話は当然出たんだよな!」  胸ぐらを掴まれ脳震盪を起こしかねないほど揺さぶられた。 「そんなに栴檀が悪いなら俺も謝る。俺が、火喃サンとやらに詫びを入れにいく!そんなに!栴檀が悪いなら!家族の義務も果たさないで、商売男だけがそんっなに悪いって言うならな!」  ロージャークはすっくと立つ。ナオマサはやっと我に帰った。 「栴檀を看ていてくれ。菓子折りはクレメンタインのなんとかトルテでいいか」 「火喃を刺激しないでください」  激しく混乱した。長い脚にしがみつく。蹴るように振り払われた。 「どこだ家は?跪拝でも靴舐めでもしてやる。腹切りでも首切りでもいい。元々栴檀のためにある命だ」  ロージャークにしがみついたが、彼は気にもせず玄関まで歩いた。 「火喃サンとやらが栴檀を殺さなければ気が済まないというなら俺が栴檀を殺してやる。火喃サンとやらがそれで栴檀を許すというのならな。それでも許せないというのなら反社に人権(ナンバー)を売り付けて火喃サンの奴隷になろう。寝取られ野郎の奴隷だと背中に紋々を入れてな」 「この時間に行くんですか。この時間に行くのは謝罪ではなく脅迫です。やめてください。火喃を刺激するな。彼の目にチャンダナのことは映っていません。彼の目にあるのはあの男のことだけです。今行って、浮気相手がチャンダナだったなどと知れても、戸惑うばかりで許すか許さないかなんてすぐに断ずることはできません。会っていますから。わたしの友として家に招きました。彼は料理も作ってくれたんです。苦悩してでも許してくれます。そういう人ですから。許せないことの方が多くても、無理に許すと言ってくれます。火喃はそういう人で、貴方もチャンダナも死ぬ必要なんかありません。火喃がその分、苦しむんです貴方は………そこに寄り掛かるだけなんです。寄り掛かろうとしに行くんです。やっぱり貴方は、最低だ」  ナオマサはわずかばかり早口になったが努めて冷然と話した。 「チャンダナをあんな目に遭わせたのは、火喃の父親です。わたしの育ての親です。ですが火喃は何も知りません。縁切りもしています。お願いですから、チャンダナも貴方も、もうわたしたちに関わらないでください。どうしても許しを乞いたいなら、神というものにお願いします」  玄関扉の把手に触れた硬く筋の張った手を止める。互いに体温は高くなかった。人の皮膚の感触をしているにもかかわらず、人に触れているような心地はしなかった。 「神に?」 「はい、神に」  祈り慚愧(ざんき)するのなら無害だ。とはいえ時に宗教戦争を起こす者たちもいる。雰囲気からしてロージャークは納得したようだった。 「で、もう一度訊くが殺しの犯人はあんたじゃないんだな?あんたの口から否定しろ」 「わたしではありません」  彼は高慢げに鼻を鳴らした。聴覚とは別の雑音がする。カナンのことや、アカミネのことでふと重苦しくなる。 「飯を買ってくる。栴檀を看ていてくれ。適当な弁当でいいな」 「え…」 「栴檀を看ていろ」  ロージャークは肝心な部分を二度、さらに語調を強めて言うと薄い軽金属製の玄関扉を潜っていった。ナオマサは他人の家にひとり残された。しかし隣に1人いる。不気味な部屋の扉を開けた。照明は落とされ、壁中に貼られた盗撮写真らしきものが白く照った。機械が唸っている。人工呼吸器は加湿器の音に似ていた。ナオマサの腰までほどの高さがあるストーブガードらしき柵が彼を見せ物にしているみたいだった。 「イノイお姉さ……?」  眠そうで舌足らずな声が小さく響いた。機械の音で掻き消えそうになっている。意識はあるようだがはっきりしている様子ではなかった。 「はい」 「また…会えテ、ヨカッ……タ」 「悪いことは言いません。あの看護師と結婚することを推します」  酸素マスクの中からもう声はしなかった。それでも隣室から射し込む光で細めらた目から金色の視線は感じられた。 「貴方の立場で、誰の援助もなしにこの土地で暮らすのは酷です」 「こっち……来テ、ほし……」  気後れした。そして弱っている相手をぞんざいに扱えず、ストーブガードに似た柵を開いて近付いた。チューブの刺されている腕が震えながら伸びる。 「ラヴァンドラお姉ちゃんがネ………運んで、くれたんダ………おでのコト………見つけテ、くれた。だカラおで……ずっとここニ、居たい」  腫れた目蓋がゆっくり瞬く。 「あの看護師を利用してまで強かにならなければ難しいです」 「軍人さ…初めて見た時、おでのコト、怖がってタ………いっぱいネ、いきなり目の前が砂煙ニなっテ、耳無くなっちゃっタみたいな、爆発…」  彼は要領を得ない話し方をし始めた。ナオマサは拙さを覚え、掛かっている薄いブランケットを直す。 「ゴメン……眠く、なっちゃっテ………イノイお姉さ、イノイお姉さん……」  チャンダナは酸素マスクの舌で暫く何か言っていた。よく聞こえなかったが何度も呼ばれていることは分かった。汗ばんだ掌を慎重に包んだ。指の1本1本にガーゼを当てられ柔らかな生地のカバーも付けられている。ロージャーク看護師は人格破綻しているが、細かなところに、チャンダナへの情をぽつぽつと残している。それに気付くと軽く息の詰まる思いがしたが、視界に広がる夥しい盗撮写真によって払拭した。 「おやすみなさい。回復したらお別れです。わたしは貴方を責めてしまいますから」  短い睫毛が隣の部屋の光を借りて輝いた。一筋涙が伝っていく。ロージャークはその数分後に帰ってきた。怪我人と話したことは言わなかった。看護師は弁当(ミールボックス)専門店でポークコートレットの弁当を買ってきた。ナオマサに先に食べているように言って、彼は茶碗蒸(スチームエッグ)とスプーンを持ち隣室に行ってしまった。しかし1分も経たずに戻ってきた。 「いくらしました」 「要らない」  ナオマサはまだ手を付けていなかった。だがもう遅かった。条件を突き付けられることを空気で感じ取る。 「あんた、今夜ここに泊まれるよな」 「いいえ」  テーブルを挟んだ対面にロージャークは腰を下ろす。彼はゼリー栄養食のパウチを咥えていた。 「泊まれ。ベッドの布団を隣に移して、栴檀と寝ろ」  「どうして」 「俺と一緒じゃ気を張る」 「貴方はどうするんです」  看護師はゼリー飲料を掴む反対の手で鍵を揺らした。色褪せたストラップが付いている。 「下の階が空いてるから、そこに泊まる。何かあったら来い」 「下の階も借りているんですか」 「一棟丸ごと買った」  ナオマサはゼリーを啜る美男子を見つめた。彼は常時不機嫌な顔をさらに不機嫌にした。 「腹が減っているようだったら温めて食わせてやってくれ。点滴は打っているが空腹感はあるからな。火傷に気を付けろ、あんたじゃなくて栴檀の」  彼はゼリー飲料の容器を洒落たゴミ箱に捨てると茶碗蒸しを指して説明した。 「貴方は何か食べたんですか」 「暫く重いものは食いたくない」  長い脚は立ったり座ったり忙しかった。着替えやタオルを渡される。新品だからと洗濯機の上に干してあったキャラクタープリントがカラフルなトランクスまで添えられている。下腹部のものを悟らせたつもりはない。 「1日穿くだけだ。我慢しろ。男も女もそう変わらん。無理に穿けとは言わないが」  下着を凝視してしまった彼女に冷たく、しかしばつの悪さを滲ませ彼は出て行った。ナオマサは弁当を食らい、おおよその金額をテーブルに置いた。予定外の事態だったが寝床ができてしまった。スマートフォンにはカナンからのメッセージが届いていた。〔ここはイノイのおうちでもあるんだよ〕〔泊まるところがなかったらすぐに戻っておいで〕〔女の子が野宿とかダメだからね〕〔ぼくが言い過ぎた〕〔ごめん〕ひとつひとつ読んでいく。帰りたい。おそらく養父は殺された。それは浸透するのように理解してしまった。そしてカナンにどう知らせようかとナオマサは頭を抱えてしまった。アカミネと出会(でくわ)したタイミングも悪かった。犯人を認められない。養父は様々なところから恨みを買っている。何も伝えられなかった。無難な返信の内容を打ち込んだ。彼は今夜ひとりだ。帰りたくなる。 『怖いです…』  送信ボタンが押せなかった。下書きを削除する。隣室の怪我人の様子を看て、シャワーを浴びた。銃はハンドタオルに包み、脱いだ服に隠した。ベッドの布団を運ぼうとした時に持主の石鹸に似た匂いが薫り、妙な心地がして借りないことにした。盗撮写真の中で、間接照明だけ点けて濡れた髪をタオルに包んだまま横になる。カーペットだけ敷かれ骨がぶつかるが、その下は藺草マットらしく、まだ軟らかさがあった。機械の音は無音よりも彼女を落ち着かせた。繋がれているチャンダナの寝顔も穏やかだった。しかし玄関扉の軋みに寝呆けた眼が薄く開いた。ナオマサと目が合っていたはずだった。彼は眉を寄せ、強く目蓋を下ろす。ロージャークが戻ってきた。隣の明かりで逆光し、盗撮写真部屋には青年の影が大きく伸びた。ロージャークは毛布を抱いていた。中に入り、寝たふりをしている怪我人へ優しく毛布を掛けると、踵を返した。かのように思われたがベッドからダウンケットを剥がすとナオマサに放り投げた。青年の清らかな石鹸の匂いが爆ぜ、気恥ずかしい、ひとり気拙い思いをした。一言も話さないでロージャークはまた戻っていく。程なくして寝息が聞こえはじめた。この夜は冷え込んだ。ストーブガードの奥で小さく啜り泣くような声が聞こえた。匂い立つ花々に近似した石鹸臭いダウンケットを怪我人に掛ける。 「イノイお姉さん……」  眠たげに彼は呼んだ。汗ばんだ手がナオマサの捲った袖を押さえた。 「何か食べますか」 「ダイジョブ……」  上体を起こそうとしていたため、背を支えた。痛みに呻きながらチャンダナは自身を繋いでいる管を外しはじめた。 「出て行く、おで………」 「貴方が逃げ出すと、わたしがあの看護師に呼び戻されます」 「ラヴァンドラお姉ちゃんニ、会いに、行かなきゃ……」  話を聞いていないようだった。彼は身体中のチューブを外し、包帯もガーゼも次々に外していく。ナオマサはその頬を打った。金色の目が見開いた。怯えた顔が持ち上がる。ナオマサは表情ひとつ変えずに彼の双眸を見下ろしていた。 「野垂れ死なれると困ります。身寄りのない貴方が自殺行為に走った場合、死体焼却も埋葬費用も税金です。治療される場所があるのなら寿命まで生きなさい」  ナオマサは下の階にロージャークを呼びに行った。彼は階段下に座っていた。ナオマサが出てくることにも落ち着いた態度で構えていた。何をするでもなくナイトメサイアの青缶を傾けている。 「彼は逃げ出すかも知れません」  彼女の予想に反してロージャークは取り乱したりはしなかった。青缶を一口飲んだ。 「あの入院患者に会うと言っています」 「見逃すのと止めるの、あんたならどっちを選ぶ?」  ロージャーク看護師にとってのチャンダナ。形は違えど、ナオマサはカナンに置き換えてみた。 「止めると思います。相手のことを考えるよりも自分のことで精一杯ですから」 「あの入院患者は目覚めない。ただ、ある議員の娘の臓器と適合した。だから生きていて、そのうち使われる。会えるうちに会わせてやりたい。家族代わりが流浪民族(ノマディック)で、さぞ安心しただろうな。臓器提供の合意なんて無くたっていい。あの入院患者は、起きることもなければそのまま眠り続けることもできない。だから、栴檀に後悔させたくないとも思っている」  美貌は夜に紛れていたが不健康げな青白い顔は浮いている。 「強制婚したらいかがです」  ロージャークは黙っていたが缶をコンクリートの地面に押し付けると、すっと立った。 「あんたはどうなんだ。恋人はいるのか?婚約者は?好いている人は?」 「……いませんが」  非常に嫌な予感がした。この男と関わってから第六感が研ぎ澄まされた。 「俺は他の奴が栴檀と結婚するなんて我慢ならない。………生きたまま苦獄に堕ちたも同然だ!あんたが栴檀と結婚してくれ」 「不眠不休で気が狂ったんですね」 「あんたなら栴檀を愛さないし、栴檀を許さない。あんたがいい。栴檀と結婚してくれ」  諭すみたいに彼はナオマサの両腕を取った。媚びたような力加減が気色悪い。気に入らなければ殴り合う関係だ。 「お断りします。そこまで彼を愛しているのなら、あの入院患者と貴方が結婚すればよろしい」  この若い男の松藻を彷彿させる長く濃い睫毛の奥は驚きを示した。結婚は律儀な相手を束縛するものだ。苦しめて、貶めるものだ。配偶者を私物化して、好き放題して憎むものだ。ナオマサは男の前に立って居られなくなった。

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