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第19話

 チャンダナは出て行かなかった。キッチンスペースで動けなくなっているのを抱き上げてリクライニングベッドに戻す。ポプリをケージに帰すのとそう変わらない作業だった。ナオマサは知らない顔をして床に蹲る。素足が冷たくなっていた。硬い寝床に肩や腰が痛んだが、屋根があり壁のある場所に辿り着けたことは喜ばしいことだ。 「イノイお姉さ……も、寝タ……?」 「はい」 「そっか……イノイお姉さん、カラ見テ、ロージャは………いい人?」 「寝ています」  彼は小さな声で謝った。目を開けると不気味な人形や盗撮写真が視界に入ってしまう。チャンダナがよく着ているような白いワンピースタイプの服からしなやかな長く細い脚が伸びている。そこに腕輪で隠されている跡はない。どれも形ばかりの紛い物だった。盗撮写真にしろ、金さえ積めば違法な手段も問わない探偵を雇ったのだ。 「貴方にとって、都合の良い相手であることは間違いありません」  金銭面や社会的立場だけでなく見目も良い。想い人に対しては苛烈なまでに愚直だ。同時に可憐で清らかな人形でいなければ暴力が待っているのだろう。チャンダナはあの男の顔色を窺って肯定と同意を重ね、身綺麗な傀儡でいなければ殴り蹴り殺されるか、刺し殺されるか、絞め殺されるのだ。 「軍人さんハ………ヤダ」 「退役しています」 「もう………ユキムラさんト、会わないカラ…………イノイお姉さ、ハ………おでのコト、許しテ、くれるノ………?」  ナオマサはむくりと起き上がった。肩や腰、その他関節が鈍く痛んだ。すると、おそらく笑っていたチャンダナが怯えた顔をした。 「ゴメン………軍人さんか、ドウカ…… イノイお姉さ、には、些細なコトかも…知れないケド…おでにハ…」  チャンダナは鼻を啜った。 「だっテ、みんな死んじゃっタ。家族、ミンナ。嘘吐いテ、ゴメンね。おで、家族居たノ。お父さんと、お母さんと、妹。近所の人トモ、仲、良かったヨ………」  嗚咽が聞こえる。ナオマサは腰を上げた。ストーブガードの奥に進み、近くで突っ立つ。裂傷や痣や炎症のある顔を彼は乱暴に拭う。 「目の前でサ、脚無くなっちゃった子もいたノ……火傷がヒドくて、砂埃いっぱいカブっちゃった人モ、いた。おで、怖くテ、助けてようトモ、しなかっタ……」  泣き止むのを待った。よく泣く人間にナオマサは慣れていない。感情を素直に丸出しにする人間の扱い方を彼女はよく知らなかった。誰も彼もが上面ばかりだ。子供が泣く原因は大抵、腹が減ったか、どこか不快か、眠いか。 「茶碗蒸卵(ブロスプリン)があります。食べますか」 「うん……」  鍋を借りて茶碗蒸しを温めた。キッチン用品からみてもあまり生活感がない。水道にはカルキが白く固まっていた。鍋に茶碗蒸しを浮かべ加熱する。ガスではなく電磁調理器だった。タオルに包んで持っていく。しかし部屋中の写真が邪魔をして電気を点けられなかった。身体を支えたながら隣の部屋に連れて行く。上体を起こし続けるのが重労働なようでナオマサは後ろから腕を回した。少し強張っている。 「もっと体重を掛けても構いません」  腕と肩口に重さが加わった。仲睦まじいカップルのような構図になってしまう。深夜帯の番組を観ながら食事が終わるのを待つ。 「ゴメン、泣いちゃっテ」 「いいえ」  銀色の長いスプーンが耐熱プラスチックの容器に当たり軽快な音がする。 「美味しい……ありがナ。お腹、減ってたみたい」 「彼がそれだけしか買わなかったということは食事制限があるようなので、とりあえずのところはそれだけで辛抱してください」  電話を掛ければ開口一番に栴檀、口を開けば栴檀、急ぐ先には栴檀のあの看護師がこの少年を忘れていたなんてことはない。 「うん…」  ベッドに戻すと彼はまた眠りに就いた。ナオマサも小さく丸まった。爪先が冷えた。カナンは眠れているだろうか。そればかりが頭に浮かび、やがてふわりと沈んでいった。肌や髪、慣れない寝間着を包む空気の感じがふと変わった。くしゃみをする。捲った袖を伸ばし、裾も爪先で戻す。寝床の違いに気付き、目が開く。窓から赤みのある日差しが入ってきている。金髪を切られたソフトビニール製の人形が並んでいる。水を飲む姿や長葱(リーク)の飛び出した買い物袋を抱える姿の写真も視界に入らざるを得なかった。幼少期の訓練が身に染みついていた。些細な空気の流れを過敏に覚る。チャンダナと自分以外にあと1人いる。 「お姉さ……っ、んぁ………っ」  譫言と熱を帯び、掠れた吐息にナオマサはそのままの体勢で目を真ん丸にした。電話奥で聞いたこの家の主の生々しい息遣いに似ていた。ナオマサも10日間おきに溜まった精を出す必要があった。朝に粗相をして、肉体のことを分かっていてもなお女性として扱う兄代わりに知られるのが恥ずかしかった。しかし電話の向こうで聞いたような声は出たことがない。そして今も耳にしているような声は。 「お姉さ……っぁう…!」  魘されているといっても違和感はなかった。あるいは性的な興奮を催す夢をみている場合もある。ナオマサはゆっくり振り返った。首と肩、腰、肘が軋む。チャンダナの下半身にロージャークがいる。寝不足ではないが眩暈がした。起きた心地は悪いが、それでもある程度は眠れた。慣れない場所だが目覚めもすっきりしている。 「ぅん……、お姉ちゃ、ヤダぁ……っ」  甘えた声音でチャンダナは背筋を反らせた。テープの剥がれ掛けた指が、彼の股の間に淫事に取り組む男の髪を突き撥ねようとしている。頭髪をチョコレートフォンデュされたような猫毛が上下に忙しなく動く。チャンダナの身体が弛緩し、間の抜けた溜息が聞こえた。それからそこで看護師は少しの間止まっていた。焦らすようにゆっくりと端麗な顔面が振り返る。薄い唇を筋張った手が拭った。見てはいけないものを見てしまった。 「おはようございます」  それしか言葉が出てこなかった。彼は無言のままキッチンスペースで手を洗ってから戻ってきた。包帯が巻かれ、ガーゼが手際良く貼られていく。静寂の中でそれを眺めていた。 「朝飯を食え。テーブルにある」 「そこまでお世話になるわけには」 「いいから食え。代金は要らない」 「そういうわけにはいきませんので、買わせていただきます」  チャンダナの包帯やガーゼはすぐに元に戻っていった。新しい袋を開け、指にも布製のカバーが嵌められる。布団を掛け直し、タオルが褐色の肌を滑っていった。 「迷惑料くらい払わせろ」  一度もこちらを向かず、ロージャークは点滴と機械を調整した。 「お仕事はどうするんですか」 「休みを取ってある。明後日まで」  長い指が慈しみいっぱいに金髪を撫でた。 「貴方も少し休んだほうがいいです」 「寝た」  夜更けにナイトメサイアの青缶を飲み、寝たはずがなかった。隈は濃い。唇の色も悪かった。 「あんたの仕事は」 「…雇主が…………あ~、その、亡くなったので」 「無職か。ちょうどいい」 「よくないです」  ベッド脇に拳ほどしかない腰を下ろした。膝を抱くように座り、少年の寝顔を見上げている。 「傍に居てくれ」  愛想のない語気で甘い声質が静かに珍妙な空間へ溶けていった。 「あんたに言った。俺はきっとまた栴檀に手を出す。俺の口はこの子専用の便器だ。でもあんたが居なかったらもっと先に進んでいた。もう性犯罪者にはなりたくない」 「病気です。素人に頼まずその道の医者に相談してください」 「今すぐの話だ。あんたには分からない話だろうがな」 「性行為で物を考えているわけではないはずです。好意の衝動がすべて性加害に結び付いているのは異常なことです。彼の人格に対する尊重と敬意が足りないのではありませんか。彼の肉体が好きだというのなら、それも否定はできませんが」  ロージャークは俯いてしまった。 「ひとつになりたい。明るくて眩しい、この子とな。神も教えも浄土楽園も何も要らなくなった。ひとつになれるなら、苦獄で(つくね)にされてもいい。苦獄でこの子と捏にされたほうが、花畑を永遠に走り回っているよりずっと………苦獄にも浄土楽園にもいない、生きた人間に赦されるのはセックスまでだ。この子の意思を尊重できなくなる。ひとつになりたい。この子の声を聞いて、この子のカラダの反射はすべて俺のものだと思いたくなる。周りを見ればカップルだの夫婦だのでいっぱいだ。こんな苦しい思いを繰り返して、人はまだペアを(のぞ)むのか…?」  恋煩いの宗教家は背を丸め鬱ぎ込んでしまった。現代芸術の気風があるが、退廃的な艶っぽさは美術館とは異質の趣があった。 「どこに行けばいい?俺がこの子を呪っているのに、俺の中にはこの子しかない。あの子のことばかりだ。確かに俺は栴檀に酷いことをした。だからこの子が俺を憎んで呪うのは当然のことだ。俺はこの子に夢中になって、息が苦しい。何も喉を通らない。抱き締めたい。触りたい。触りたいんだ。抱きたい」  喉が灼けているようにロージャークは告白した。髪を掻き乱し、膝に顔面を埋めてしまう。 「この身体がこの子を傷付けるなら死ぬしかない。この頭がある限り、俺は延々と栴檀を姦淫する。苦獄に、全身(すべて)堕ちるんだ……」  蛹になってしまった男をナオマサは冷ややかに見ていた。 「色恋にそこまで身を焦がすのは……」 ―異常です。  カナンの手首の小傷が脳裏を過った。寄り添えない。早く離婚を選択すればいい。相手に不服があるのなら。一時の煩わしい手続きを先延ばしにしているのか、合理的な理由が別にあるのか。何故チャンダナを憎んでいるのかも分からなかった。不倫相手だからという記号化された立場にいるからだ。 「栴檀を殺して俺も死ぬ………これが一番手っ取り早かった。どうして俺は治療なんかした…」 「今から殺せばよろしい。犯罪にはなりません」  ナオマサはリクライニングベッドに近付いた。カナンもアカミネもこの男も矛盾している。好きなら盲信すればいい。不服なら離婚を選べばいい。下手に我を出し瓦解している。不合理だ。目の前の正しい選択をすることに臆病になっている。湿った細い首に手を掛けた。酸素マスクの中で小さな唇が呼吸をしている。 「わたしが殺しましょう。放浪穢多が1人死んだところで罪にはならない。お国様が数年前に命じた爆撃の尻拭いをしたんです。それだけだ」  咽喉の隆起に親指を置いた。沈める深さと長さは幼少期に習った。 「やめろ!」  容赦のない殴打が彼女の横面に炸裂した。手は簡単に怪我人の首から離れた。ナオマサは強かに頭部を打った。視界に火花が散る。頭の中に靄がかかったかと思うと、次にはレースカーテンを思い切り開くような光景が広がった。眼前に迫り、胸ぐらを掴む美男子に下卑た笑みを浮かべる。 「なんでお前なんだ、なんで栴檀が懐くのはお前みたいなクズなんだ……年上の女だから?強姦しなかったから?あれだけ懐かれて慕われて終いには殺すってなんだ…!」 「黙れよ強姦魔。神サマが許してくれないから殺せないし自殺もできないの~ってことだろ。死になさい。わたしがその子供を殺してあげるから、貴方も死になさい。死になさい!」  ナオマサはへらへらと笑った。 「こんな悪趣味な自宅が慚愧(ざんき)室だなんて可哀想だから、苦悩する若草を救ってあげようとするのが優しさでしょうが。優しさです。そうでしょうが?貴方の苦悩はね、神サマに慚愧して救われるものじゃないんです。この子供が死んだ時にやっと安堵する、根からのろくでなしなんですよ貴方は。この水無し青海に生きているのに、神サマも見捨てなきゃならないヤツがいるだなんて、とんだ詐欺師だよ!とんだ詐欺師だ!」  ナオマサはげらげらと笑った。怒声と哄笑に金色の目が開いた。 「結婚しよう、チャンダナ。わたしと結婚しよう。わたしと結婚してここに住もう。図書館も美術館も気兼ねなく使えるよ。最先端の医療も受けられる。わたしと行こうよ。大好きだ」  彼女は見様見真似でエスコートするように手を差し出した。 「イノイお姉さ……」  金色の双眸はナオマサを捉えたが、ゆっくりと横に滑り、もう1人を窺った。 「わたしが一生懸命働くから、君は時々あの素敵なピアノを聴かせておくれ」  戦慄いている手が重なった。意味を分かっているのかいないのか、ナオマサには関係がなかった。ただ隣から固唾を飲む気配を感じ、華々しく笑った。 「指輪はアジョワン=クラウンの昇龍・オレガノでいいですね?」  横から筋張った冷たい手が割り入った。下にある女の手を押す。アジョワン=クラウンは中間価格帯のブランドで、中でも昇龍・オレガノのコレクションは若年層がちょっとした装飾に使うようなものだった。チャンダナは訳の分かっていなそうな表情だった。指輪如何よりも介入してきた強姦魔のことを気にしているふうだった。 「ナメるな」 「指輪に、所有物の証以上の価値なんかありませんよ」  ナオマサは肩を竦めた。怪我人はやっと、何か拙い空気にあることを察したようだった。 「さ、日取りを決めなきゃ。お互い家族が居ないので、呼ぶ人は限られています。君は誰を呼びたいですか?わたしは君が居ればいいけれど。ところで貴方は来てくれますね?誓いのキスを傍で見ていてくれますね?」  美男子はそのまま美術館に持っていけるような彫刻になった。ナオマサはそれを鼻で嗤い、寝間着のまま荷物を持って帰ることにした。拳銃をしまう場所を考えながら。  行き着いた先は婚約者の自宅マンションだった。受付からアカミネの招待を受ける。彼は不機嫌そうな顔をして出てきた。中に通される。テーブルに使い道のない鉄の塊をハンドタオルごと置く。 「結婚します。アカミネさんのお古と」  彼はベランダでタバコを吸っていたが、室内を向いた。レースカーテン越しに紫煙を燻らせる姿は写真展に出してみたくなるような美的な空気を纏っている。 「気が違ったのか」 「孤独なんですよ。どうして浮気をするのに別れないのか、どうして浮気をされているのに別れないのか。まるで人質でもとられているみたいに。それで引っ張るように悩んで、理解できずに孤独なんです。だから結婚することにしました」 「あの牡犬はどうした」 「驚きの話なんですけれど、その牡犬に勧められたんです」  大窓がからからと鳴った。レースカーテンが(くしゃみ)のような音を立てる。乱暴に家主は対面に座った。 「セックスはいっぱいします。抱く側か抱かれる側かは相談する必要がありますけれど。アカミネさんは抱く側でしたか抱かれる側でしたか?火喃とするときは抱く側みたいでしたけれど」  皺の刻まれた眉間がさらに狭くなる。 「アカミネさんの穴兄妹になるかも知れないんですよ。そんな顔しないでください。嬉しいな、火喃とは育ての親が同じで、アカミネさんとは挿れる穴が同じだなんて」 「酔っているのか、お前は。いつから俺にそんな口を利くようになった」  ナオマサはけらけら笑う。 「裏では浮気相手とスゴいコトしておいて下品な話が苦手なんですね。実は火喃に求められまくって冷めてるんじゃないですか。そのくせこの家で浮気相手と交尾しているんですから。アカミネさんの浮気相手は今日からわたしの婚約者です。もう挿れる穴は見つかりましたか?わたしの婚約者の竿兄弟は?」 「口を慎め!」  テーブルが蹴られた。上にある鉄の塊、殺人道具が鈍く弾む。呆れたように彼女は溜息を吐いた。 「今日はそれを返しにきたのと、アカミネさんのお古を婿に貰うという報告をしにきました。それではこれで失礼します。挙式には………来ますか?来ませんね?」  ろくに返事も聞かず、ナオマサは出て行った。鉄の重さが消えると軍警車両だらけの実家に帰った。しかし宿泊はできず、我が家のように振る舞うことも出来なかった。ただ養父が死んだことだけがはっきりと分かった。室内にいた大量の猫は保護施設に送られたという。仕方なくユキムラ宅に帰った。もう彼女には何の頓着もなかった。インターホンを押す。ロックの外れる音がした。チェーンの許す限りの狭間から出てきたのは汚らしく染まった茶金髪だった。ダウンタウンの電柱下の犬糞のほうがまだ綺麗な色をしている。スーツではなかった。寝間着姿だった。見覚えのあるそれはカナンのものではない。そしてナオマサのフリルやレースや刺繍の入ったものでもない。 「おっぱ、おっぱ、おっぱよ~」  ガランガルとかいった保険屋は呑気に挨拶した。据わった目を向ける来訪者に寝間着姿の保険屋は大仰に首を傾げる。 「部屋間違ったんじゃないのぉ?」 「火喃はどうしているんです。います?」  朝一番に営業に来て、それから粗相をして着替えなければならなくなった。それが自然な経過だった。ナオマサは玄関扉を掴んだ。チェーンが伸び切る。 「ちょっ、ちょ、今開けっから!」  保険屋はバランスを崩し、必死に玄関扉にしがみ付いた。そしてチェーンロックが外され、ナオマサは中に入った。 「(おこ)?」  見慣れた寝間着には一瞥もせず二夫の部屋に入った。ベッドの上にいるカナンは驚いた目を向けた。帰るとメールするのを忘れていた。 「あ…イノイ。あの、ああ、おかえりなさい」 「ただいまです。火喃、わたし、結婚します。以前うちにも遊びに来たチャンダナくんですよ」 「そ、そうなんだ。おめでとう!いつのまにそんな仲になってたんだ?」 「はい。元の婚約者と仲違いしていたので、わたしから求婚しました」  部屋の出入口でドアに腕をついて立っているガランガルも首を突っ込む。 「お嬢さん、結婚するんです?」 「放浪穢多なんです。嫌でしょう?結婚したらユキムラ宅とは縁を切ります。何といっても放浪穢多ですからね!何といっても。アカミネさんが嫌がりますよ。放浪穢多と関係があるだなんて。そんなことは、ユキムラ家が許しません」  わざとらしくガランガルは口元に手を当てた。 「ちょっと、待って……そんなこと言わないで。待って。ちょっと……えっと、チャンダナくんだよね、あの…」 「そうです」 「その……だから、三つ輪違いの…?」  化学物質汚染を示す標識から、放浪穢多は「三つ輪違い」や「地抜き三つ輪」とも呼ばれていた。放浪穢多か否かよりも、運び込まれてくる穢れを重視しているニュアンスが強い。 「そうです。何と言っても無駄です。わたしは彼と結婚します。彼を恨まないでくださいね。穢れがどうのと吹聴しておきながら検査も治療もさせないのは彼の身の上が悪いのではなくて、この国がルールとして定めたんですから。もし本当に穢れを運んでいるのだとしたら、早急に検査、治療、隔離をするべきだったのにこの国はそうはしませんでしたね」 「イノイが決めたなら、別にぼくがとやかく言うことじゃないし……縁を切る必要なんてないけれど……ちょっとびっくりしちゃって。ちょっと…」  ナオマサはまったくの部外者にも意見を求めるような眼差しをくれた。カナンはどこか居心地が悪そうだった。 「ま、縁まで切るこたないでしょう。旦那さんが許してくれないからといって夫奥(おく)さんまで許しちゃいけないなんて決まりはありませんよね?」  2人を交互に見遣る。ガランガルは何か用かとばかりの挑戦的な顔をした。彼女は首を振る。 「だって……誰にでもあるでしょう、誰にも、たとえば親 同胞(きょうだい)、恋人、配偶者、メンタルクリニックの先生、会社にも内緒なコトなんて」 「お兄さんにも?」  軟派な口を利いた。ガランガルはびっくりしたような眼差しでナオマサを捉える。彼は慌てたように視線を逸らした。 「そりゃ、ありますよ。たとえば、21になってもちんちんの皮が剥けてないとか」 「や、やめてください、イノイの前で…」  ベッドの上の浄土楽園に住まうという有翼の徒と見紛う淑やかな青年はダウンケットを抱く。ナオマサは彼を一度見て、またきょろきょろと忙しなくなったガランガルを見た。何故保険屋がこの家のものを着てここにいるのか、問う気は起きなかった。 「挙式はそういう理由で2人か、共通の友人を呼んでやります。だから火喃のこともアカミネさんのことも呼びません」 「……分かった。でも、写真くらい、いいんじゃないかな。もちろん、チャンダナくんが嫌だというのなら無理強いはしないけれど……」 「きっと嫌がります。いや、厳密には嫌がりません。でも嫌でしょう」  自室に籠ると保険屋も我が物顔で付いてきた。世帯主も入ってこない自室にカナン以外の男がいる。咎めるつもりはなかった。目を合わせると、途端にもじもじとしはじめる。 「トイレは出て向かい側ですが」 「ち、違う。あのさ、なんで(おい)ちゃんがここにいるのかとか訊かないん?」 「火喃が警戒していませんでしたから、それ以外の興味はないです」 「ね……あのさ、お嬢さん………イノイ」  トイレに行きたそうな態度を取る茶金髪を睨んだ。 「なんです」 「じゃ、じゃあ結婚する前に火喃さんとお兄ちゃんと3人でお出掛けしない?しよ!ド田舎だけど、面白いところくらいあるっしょ」 「嫌です。婚前旅行は火喃と2人で行きます」  もうナオマサの中から保険屋は消えた。悪趣味な部屋で強かに打った頭が今になって痛んだ。

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