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第20話

 婚姻届にチャンダナの下手な字が記されていく。ロージャークは居なかった。 「本当に結婚、するノ…?」 「はい。嫌なら言ってください。強制婚しようっていうのではありませんから」 「うう~ん、おで、イノイお姉さんとナラ、いいヨ………デモ、その、イノイお姉さんハ、おでデ、いいノ…?」  まだ痣のある額へ髪越しに口付ける。 「目の前にある書面は何ですか」  チャンダナは顔を真っ赤にして照れた。婚約すると彼は治療に協力的になった。ただ病院に花を届けて欲しいということだけは変わらなかった。これからチャンダナを寝かせたら市民病院に行くところだった。結婚してしまえば入院患者の書類の名義も変わる。下手な字を書く手が止まった。住所だ。 「アカミネさんには話しましたからね、アカミネさんの自宅マンションでいいでしょう。建前上の場所ですから大丈夫です」 「ユキムラさんと、話したノ…?」 「これということは言っていませんでしたよ。ただ穴兄妹にはなるかも知れませんね。チャンダナ、わたしを抱きますか。それともわたしに抱かれますか。わたしが抱く側になるなら週5は約束します」  金色の目が焦った。小動物的な仕草で顔を覆った。 「えっ、あっ、イノイお姉さ……?何言っテ、えっ…」 「言っていませんでしたね。言う機会も必要も今までありませんでしたから許してください。君はわたしをお姉さんと呼びますがわたしには陰茎があります。嫌ですか。それなら結婚はやめましょう。傷付きませんから大丈夫です。結婚生活に必要なのは向き合うこと、正直であることだとあの破綻したユキムラ二夫から学びましたので」  よく日光を浴びて痛んだ毛が揺れる。彼はボールペンを置いて隣のナオマサと向き合った。 「よ、夜のコトは、結婚してカラ、2人デ……決めヨ。おでハ、どっちデモ大丈夫だし。デ、デモおで、女の人トハそういうノ、したコトない……」 「ゆっくりやっていきましょう」 「17歳なのニ、変カナ……?」 「20くらいまではやらなくていいと思います。そのほうが健全ですからね。ですが妻夫(めおと)ですから、あってもおかしくないかも知れません。そこは君に任せます。わたしが年長者ですから」  カバーの付いた指がナオマサに伸びた。しがみつくように抱きついた。まだ完治していない身体を抱き締め返す。 「その……火喃さんハ………?」 「会いませんから大丈夫ですよ。会わせません。会わなければいいんです」 「うん……デモ、」 「疎遠になりますから大丈夫です。大丈夫ですよ。わたしが味方でいます。だって女夫(めおと)ってそういうものでしょう」  大きな犬のような少年の背中を摩る。婚姻届を仕上げるのを促し、ナオマサは花を買って病院に向かった。見覚えのある白い容貌の男が虚ろな目をしてレンガの外装が洒落た建物を見上げていた。ハウスキーパーのカヤハラだった。彼は喉を晒し、長いこと頭を上げていた。そのまま後ろへひっくり返ってしまいそうだった。 「カヤハラさん」  呼ぶと色素の薄れた目がナオマサを認める。 「どうしましたか」  斑らに白い指がどこかの部屋を差した。色のない唇がぼそぼそと何か言った。荒れたような肌に一筋、涙が落ちていく。足音も立てずカヤハラは身を翻し、彼女とすれ違った。捉え所のない相手だった。意思の疎通は図れても限定的で事務的だった。私的な会話は数えるほどで、どれも一方的だった。 「カヤハラさん。以前あなたが助けてくださった人とわたし、結婚します」  白い姿は何の反応も示さなかった。とぼとぼとナオマサが来た道を行く。いつものことだった。結婚。この言葉はまだ浮つき、ナオマサ自身上手く掴めていない。自分とはそう親しくない、或いは未知の他人が結婚するような感覚だった。  病室に入り萎れはじめている花瓶を掃除していると看護師がやってくる。美貌は骸骨のようになっていた。頬骨から影が落ちている。ナオマサは足繁く年下の婚約者の元に通ったが、ロージャークは下の階にいるか、病院にいるかだった。怪我人も快方に向かっている。 「どうですか。これが貴方のおすすめした、わたしとチャンダナが結婚する現実です」 「素敵だ」  げっそりしてもなお退廃的で嗜虐的な雰囲気が美しさを加味している顔がナオマサから背いた。 「あの子が治療に協力的なのは助かる」 「わたしは彼を愛しませんよ。彼が悩み傷付いても、わたしは彼とは向き合いません」 「大切にしてくれ。幸せに…」  彼は入院患者を看ていた。 「あの子が泣いたり悲しんだりするのは可哀想だ。俺じゃ幸せにできないのは悔しいが、あの子が泣いたり痛がったり怖がったりするのは耐えられない。幸せにしてくれ。大切に……何より一番に考えてくれ、頼む。俺が悔しいのなんか、そんなのに比べたら些細なことだ」 「彼のどこが好きなんですか。放浪穢多だから?17の割りに見た目も言動も幼いから?目が綺麗だからですか」  見目は金髪と瞳が魅力的な程度で、決して醜い顔立ちではなかったが華はなく、若さゆえの可愛らしさが少しあるくらいだった。 「ここに来た日に一目惚れした。綺麗な花を持っていた。髪と目と服によく似合っていた。声も綺麗だった。俺に挨拶してくれた。いい匂いがした。ここに長居して、寝ている姿が可愛かった。理由を挙げたらきりがない。関わったら性格まで優しいときた。あそこまで懐かれて、惚れないあんたがおかしい」 「年下はタイプじゃないです。まだ17ですよ。わたしからすれば乳臭い子供です」  看護師はタブレットの画面にサインした。そこからもう喋らなかった。ナオマサは何度か寝たきりの入院患者を見つめていたが特に変わった様子もなかった。ユキムラ宅に帰る前に一旦、婚約者に会った。すでに婚姻届を書き終えていた。彼はあの異様な部屋で寝ていた。盗撮写真について本人からコメントを聞いたことはない。テーブルの上の紙を回収し、その旨の書置きを残して古びた木造アパートを出た。骨と皮のような美男子の不遇ぶりにいくらか同情した。性加害よりも元軍人という誉れのある経歴によって彼の直向きな想いは届かない。  適当に丸めた婚姻届をナオマサは自室でぼんやりと眺め確認した。そのすぐ脇に、保険屋が座っている。カナンが言うには、変な来訪者が後を絶たないらしかった。実際彼女もインターホンを何度か聞いている。カナンが1人で過ごしていた夜も常識外れな時間帯にインターホンが鳴り、ガランガルがエントランスで不審者を見たと彼に連絡を入れて泊まってもらったらしい。そのまま居着いている。何かしらのアピールのようにこの保険屋は二夫の部屋ではなくナオマサの部屋にいた。口を開けば田舎コンプレックスを拗らせた後、婚前旅行に行こうということだった。 「何故保険屋と出掛けなければならないんですか」  婚姻届に記入漏れはなかった。下手な字が健気だった。犬猫や他人の家の幼児を愛でるような感慨なら否めなかった。しかし看護師が囚われて苦しむような熱情はない。週5で抱けるなど吹かしだった。あの子供相手に勃つのかも怪しい。 「依倚(イノイ)と行きたいの~!依倚と、行く!行こ~ぜ!行こーぜぇ!」 「気安く呼ばないでくれますか。カナンと未来の夫にしか許していません」  アカミネはどうせ呼ばない。突き放すに決まっている。人前でだけ、夫の妹として堅く呼ぶ。 「依倚、なぁ、じゃあさ、(おい)ちゃんが、依倚の家族でも?」 「気持ち悪いです。どう貴方がわたしの家族になるんですか」 「依倚、でもさ~、」 「イノイ」  カナンがノックもなしにドアを開けた。同時にインターホンが鳴る。彼は玄関のほうを向いたが、ガランガルが家人の如く、自分が出ると言ってカナンの横を擦り抜けていった。リビングに促される。 「イノイ、結婚するって話だったでしょう?だからあの人にも連絡を取ったんです。あの人にも、もう伝えてあったんですね。それで……本当に短かい別居だったけど、何かとあるかなって思ってまた、自分勝手ですけど、帰ってきてほしいって頼んだんです。体調も良くなったし……ひとりで荷物を纏めて出て行けばいいんですけれど、ほら……やっぱり、結婚するなら、引っ越しとか、準備とか……」  手は借りないつもりだった。しかし彼は長く保護者と兄貴分をやっている。それを頭から否定できなかった。鈍く頭痛を起こす。カナンのことを考えると、最近、頭が痛んだ。 「でも、あの人、帰らないって言ったんです。イノイはぼくの妹です。あの人にとっても義妹(いもうと)なんですよ。なのに…夫に代わってぼくから謝ります。イノイ、あの人は冷たいけれど、ぼくはイノイを愛していますからね。あの人とは……もう、だめなのかな」  カナンは眉と眉の間を摘んだ。 「別れましょう」 「……ずっと一緒にいた人が急に他人になるの、すぐに気持ちは切り替えられないんです。朝から夜までずっと一緒にいた人が他人に。別れるって決めたら、まだ同じ屋根の下に暮らしていたって、もうこの人とは他人にならなきゃいけないんだって、割り切らなきゃならなくなるんです。まだ、あの人を、そんなふうには………」 「もう無理です。もうだめです。別れましょう。カナン、新しい生活をすると決めるのは困難なことかも知れません。ですが、上手くやらないと。目の前に選択があるのなら」 「あの人は、でも優しいし…」 「殺人鬼や強姦魔も優しいときくらいありますよ。優しいカナンも、時に無情になることだってあるはずです。ありませんか?あります。虫を殺すのだって、魚を食らうのだって、そうでしょうが?時折見せる優しさにしか縋れないのならもうダメです。別れましょう。別れないんですか?別れてください、面倒臭い」  カナンは硬直してしまった。肩を張り、ガラス玉のような目がテーブルの反射を凝視している。 「わたしにあの人の恨言を話すのは何故です?同意が欲しかった?それとも感情の捌け口が?別れたほうがいい、離婚しないのか、わたしに出てくる感想はそれだけです。もうダメなのか?答えは、そうです。別れましょう。相手方が拒否するのなら然るべき機関もあります」  突然、吐気に似た腹の違和感を覚えた。ナオマサはキッチンチェアを鳴らして立った。トイレではなく自室に飛び込む。行儀よく床に座っている保険屋が振り返った。彼女がゴミ箱に顔を突っ込むと、男の手が背中を摩った。 「依倚は火喃サンに逆らっちゃイケないんだって。あの爺さんがそうしたの。知らないのかよ?」  胃液は出てこなかった。しかし胃の中のものを出したがっている。生唾が溢れた。親しくない男の手が肌に慣れていく。耳元できゃらきゃらした声質が囁いた。 「(おい)ちゃんと暮らそ。(おい)ちゃん、依倚と依倚の婿さんと3人で暮らしたい。あの爺さん、死んだし、いいよなぁ?」 「………意味が分かりません」 「(おい)ちゃん、依倚のこと知ってんの!依倚より、ずっと知ってる!俺ちゃんイケてる生まれだから差別しないし!フォンダンショコラくんだっけ?バンダナくん?とにかく、一緒に暮らそ!一緒に暮らすのぉ!いいよな?な?どうせ肥やし臭いド田舎に暮らすんだろ?慣れるから!」  他人の家の匂いがするハンドタオルを口元に当てられた。摩擦熱でも起こすような雑さで掌が背筋を往復する。 「依倚の婿さんなら俺ちゃんの嫁みたいなもんなんだし…」 「わたしだけの婿ですよ」  呼吸を邪魔するタオルを払った。頭のおかしい奴等ばかりだった。保険屋はまだ背中を触る。吐気は少しずつ引いていった。 「別に奪ろうとか思ってないし!尤も、依倚の婿さんが俺ちゃんにメロメロになっちまう可能性はあるケドな」 「ところで、あの爺さんとはどの爺さんのことですか……」  痺れたような口腔が不快だった。 「あっ………あ~」  しまったという顔をしてガランガルは両手であざとく口を押さえた。 「依倚………依倚はね、あの爺さんに………そう!洗脳されてるんだ!洗脳say yo!このままじゃただで済まねぇ、貧困ママからtake money!田舎に暮らそう、ド田舎に、世の中に、暗そう、悪そう、バカそう―な奴等はいつもいる。損切りできなきゃバカをみる、ギリギリ、義理と人情守ってる、働きもんのキリギリス、冬ン頃には死んでいる、アホに限って夢をみる。これがド田舎、肥やし臭せぇ、鶏糞、牛糞、お前の寿命はあと5分yeah!」  不出来な韻踏みは彼女の耳を通り過ぎていった。黙っている肩にガランガルは機嫌を窺いはじめた。 「つまり何が言いたいんです?わたしがそろそろ死ぬと?」 「だ~か~ら、いい?もう一回。hey ブラザー、俺ちゃんのインデシベルで今日から兄妹、どうだい、喜ばしいかい、お前の気持ちはどうでもいい。俺ちゃんのブラザー、put your hands up(プチョヘンザ)、同じママンの腹ユーザー、ここ通るのはブルドーザー、窓の外はティラミスさ、肥やし臭っ、ド田舎、そんないいか。俺ちゃんの妹、おいちゃんと芋を掘れ!ド田舎、そんないいかね、婿は寝取られ、嫁は阿婆擦れ、股擦れの訪れ、また太ったげ、こんな結婚結構、早々バックレ決定、くだらねぇド田舎、どうでもよくないか」  顔を真っ赤にしてガランガルは喚いた。ナオマサは首を傾げてもう一度リビングに戻った。しかしキッチンテーブルにいるカナンの姿を見ると再び体調不良に襲われ壁に凭れて屈んでしまう。保険屋もやってくる。 「あ、火喃さん。やっぱり例のあれでした」  ついでとばかりに先程のインターホンの正体を報告した。 「ここまで酷いともしかしたらどこかに個人情報を書き込まれているかも知れませんね。ちょっと住所のほうで検索かけてみてください」  下手な韻踏みをしていた時とは一変した態度だった。 「わたしがやっておきますよ。本人にやらせるなんて酷です」  似た顔と見つめ合う。 「いいよ、大丈夫、イノイ。イノイは女の子なんだし、怖いですよ、こんなの。ぼくがちゃんとどうにかしますから」  カナンは繕った笑みを浮かべた。痛々しい表情にナオマサは頭が痛くなる。頭を押さえると、その手の上に保険屋の手が重なった。 「それよりイノイ。体調が悪いなら休まないと」 「(ボク)、看病します」 「さすがにそれは悪いです。チャンダナくん……お婿さんにも悪いですから」  カナンはさりげない仕草でガランガルと妹分の間に割り込んだ。 【打ち切り未完結】

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