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第4話 祓戸の神④逃走
無銭飲食なんて普通はやらない。1杯のコーヒー代、1回の飲み代くらいでお縄になるなんて割に合わないからだ。
あるとしたら財布を忘れたか、店側と何かあっての支払拒否あたりだろう。しかしそんなことで大の大人が走って逃げるものだろうか。
(何か変だ……)
人をかき分けるようにして走りながら、詩は思った。
商店街を抜けるとすぐ北口の大通りに出る。
正面にあるスクランブル交差点の歩行者信号が点滅していた。
(さっきの人たちは……、あっ!)
はためきながら交差点に突っ込んでいく和服のそでが見える。
(どうする!?)
一瞬迷ったものの、詩も点滅信号の交差点に飛び込んだ。
無事に信号を渡りきり、そして……。
逃げた男たちはどっちへ行ったのか。
横道に入るところにまたはためく和服が見えて、詩はそれを目印に追いかけた。
飛び込んだ通りは天神通り。小さな飲食店が建ち並ぶ、歩行者の多い通りである。
「わっ、すみません!」
人にぶつかりかけて足にブレーキをかけた。
ちょうど今の時刻は人通りの多い時間帯だ。
息が切れてきたが、ここまで来てみすみす男たちを逃したくない。
詩はとにかく前へと足を進めた。
次第に汗が噴き出してきた。
にぎやかな天神通りを北上し、また大通りに出て横断歩道を渡りきる。
すると逃げていた男の1人が、布田天神の鳥居をくぐったように見えた。
ここまで見失わずに来たのは奇跡に近かった。
しかし高い木々の生い茂る、神社の境内はもう暗い。
男たちを見つけて、それからどうしようかと詩は今さらながらに考えた。
人目のある通りでなら、周囲の人に警察を呼ぶよう頼めただろう。
だがこんな場所で男2人を相手にするのは危険だ。
思わずゴクリと唾を呑 んだ。
その音がはっきり耳に届くほど、辺りはしんと静まりかえっている。静けさが恐ろしい。
息を殺した瞬間。
暗がりから飛び出してきた男が、正面から詩にぶつかってきた。
(――えっ!?)
辺りを見回していたせいで反応が遅れた。
店から逃げてきた男の一人だった。彼は肩からこちらにぶつかって、そのまま鳥居の外へ逃げようとする。
「待って! お会計!」
とっさに男のひじをつかんだ。
振り向いた彼がギロリとにらむ。
その目に何か尋常ならざるものを感じ、詩ははっと息を呑んだ。
つかんだ手を振り払い、男がバッグで殴りかかってきた。
「うわっ!」
硬い金具が顔に当たった。
「待って、このバッグ」
とっさにバッグをつかみ返す。
女物だった。
「無銭飲食じゃなくて置き引き!?」
飲み屋で酔った女のバッグを取って逃げようとしたんだ。だから店の人に声をかけられ逃走した。
全力で走って逃げたのはそのせいだ。
男も必死だった。雄叫びをあげながら詩を突き飛ばす。
詩の手からバッグが離れた。
バッグが石畳の上を転がり、それを男が拾い上げようとした時。
「そこまでだ!」
誰かが男の手を踏みつけた。
(え……!?)
男がぎゃっと悲鳴をあげる。
彼の手を踏んでいるのは裸足に藁草履 ……。
あの和装男子だった。
突き飛ばされ尻餅をついていた詩は、唖然 としてその姿を見上げる。
立ち姿が絵になっていた。
境内の木々をサワサワ鳴らした夜風が、彼の長い髪をなびかせる。
「何があったか知らないが、泥棒はいけねえな」
腹の底に響く声。
置き引き男は気持ちをくじかれてしまったのか、転がるバッグはそのままに、フラフラとどこかへ消えてしまった。
「……ああっ、お会計」
遅ればせながら言うものの、詩にももう追いかける気力がない。
和装男子が詩を助け起こした。
「すみません……あなたはもしかして、あの人を追いかけて?」
彼は口の端を持ち上げ、肩をすくめてみせる。答えはYESなんだろう。
「そうですか。バッグ、取り返せてよかったです。ありがとうございました」
女物のバッグを拾って礼を言うと、彼は首を傾げてみせた。
「礼を言うなら昼間のコーヒー代」
「……?」
「今のでチャラにしてくれよ」
「……!?」
なんと答えていいのかわからない。
泥棒はいけないなんていいながら、この人はコーヒー代を払うつもりがないのか。
「なあ、詩」
答えられずにいると、なぜか親しげに名前を呼ばれた。
男の右手が伸びてきて、詩の顎を持ち上げる。
赤みがかった瞳と目が合った。
「誰なんですか? あなたは……」
やっぱりこの人には既視感がある。
「俺は……」
男の視線が、網膜を通して詩の目の中まで入り込んできた気がした。
「俺は祓戸 の神 。詩、お前が毎朝毎晩手を合わせている相手だよ」
(ああ、それで初めて会った気がしないんだ……)
普通なら信じられないような話なのに、詩はすんなりそれを受け入れていた。
「詩、言いにくいんだが、お前に言わなきゃいけないことがある」
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