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第6話 祓戸の神⑥疫病神とバイトのボーナス
翌朝。いつものように神棚の前までご飯と水、それに御神酒を持ってきて、ふと思う。
――俺は祓戸の神。詩、お前が毎朝毎晩手を合わせている相手だ。
あれは本当なんだろうか。
詩はお盆を横に置くと、椅子にのぼって神棚へと手を伸ばした。
「……これ?」
奥の小さな扉を開いてみると、そこには確かに“祓戸大神”と記された細長い御札が納められている。
「なんで祓戸の神なんだ……」
詩は筆で書かれた文字をしげしげと眺めた。
ここに御札を入れたのは、おそらく詩の祖父母だ。二人とも今は地方の高齢者向け住宅で悠々自適の生活を送っている。
とはいえその二人に聞いても、昔のことだし、氏神さまを決めた経緯はわからないだろう。
(ご先祖様の好みだったとか?)
昨日見た男の顔が浮かんだ。
「と、そろそろ店に出なきゃ!」
残念なことに、朝から雨の降る音が聞こえている。音の大きさからして雨脚が強そうだから、今日は店を開けてもほとんど客は来ないだろう。
そんなことを考えながら神棚にご飯や御神酒を上げ、手を合わせた。
(商売繁盛……は無理そうだよね。美味しいコーヒーでも飲もう)
ひと息ついてから、引き戸1枚を隔てた店へ向かった。
*
開店準備をしながら天気予報をチェックする。今日は雨が上がることはないらしい。
いつも通勤途中にコーヒーを買いに来る人がいて、その人たちにコーヒーを売ったあとは暇になった。
そこで、残りわずかになっていたショップカードを新調しようと、デザインに手を入れる。
詩は学生時代からデザインをかじっていたこともあり、こういう作業がわりと好きだ。
時々来る客に対応しながらノートPCをいじっていると、あっという間に夕方になった。
大学の授業を終えたソンミンが出勤してくる。
「ミンくんお疲れ。生憎の雨だね」
「それよりてんちょー! あのあとどうなったんですか!?」
傘を閉じる音とともに大きな声が聞こえてきた。
そういえば昨日は食い逃げ犯を追いかけていったきり、ソンミンに会っていなかった。
神社での一件のあと、遅くなるといけないから先に帰るよう電話で指示したのだ。
「食い逃げの件は問題解決……ああいや、代金は回収できてないから未解決か」
「……え?」
傘を畳みながら、ソンミンは不可解そうな顔をしている。
「えーと、食い逃げの人は置き引きをして逃げてたんだよ。それで僕が追いかけていって、盗まれたバッグを取り戻して……ああ、違うか。取り戻したのは祓戸の神か」
「ハラエドノカミ?」
「うちの神さま」
「……?」
「その話はあとでするとして、バッグが戻ってきて飲み屋のお客さんは喜んでた。けど食い逃げならびに置き引き犯は逃げていっちゃったから、飲み代の回収は今のところ厳しいな。その人が心を入れ替えてくれない限り……」
詩は雨に濡 れて冷えただろうソンミンのために、ホットラテを作りながら説明した。
「置き引きならびに食い逃げの人が、心を入れ替えるとは思えませんけど。……ああ、あったかいのありがとうございます」
彼はマグカップを両手で抱えて息をつく。
「僕は人が心を入れ替えるのなんて見たことありませんからね。昨日のブルマンの人もきっとお金を払いに来ませんよ」
「そうだね……。その予想に関してはミンくんの意見が当たってたみたい」
「ん?」
ソンミンがカップから顔を上げた。口元に白いひげが付いている。
「あのね、その人が祓戸の神、うちの神さまだったみたい」
詩は困惑を隠さずに説明した。
ソンミンはカウンターでラテをすすりながら思案顔になる。
「それはつまりこういうことですか? 店長の大事にしている神さまは、商売を繁盛させるどころか疫病神だったと」
「疫病神は言いすぎだよ……」
奥の神棚に聞こえていないかヒヤヒヤする。
「いや、どう考えても疫病神でしょう。少なくとも役立たずだ」
「えーと、そんなことはないと思うよ……?」
「その神さまはクビにしてバイトにボーナスを出しましょう」
話があらぬ方向に行ってしまってびっくりした。
「え、ミンくんボーナスが欲しかったの?」
思わず頭の中で電卓を叩 く。1万円くらいならどこかからひねり出せるだろうか?
考えていると、ソンミンがカウンターの向こうから身を乗り出してきた。
「映画か美術館のチケットを2枚ください。それで僕とデートしましょう」
「それは、ボーナスっていうのとはちょっと違うような……。でも、それくらいなら」
頭の中の電卓が、ポップコーン代込み約5000円の金額を弾き出した。
「やった!」
ソンミンがガッツポーズをする。そこでちょうど店のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
「ああーっ!!」
ソンミンの大きな声が店に響く。
雨粒を払いながら入ってきたのは、疫病神こと祓戸の神だった。
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