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第8話 祓戸の神⑧お供えはコーヒーで

 その日もランチタイムの忙しさが去った夕方頃、祓戸が店のドアチャイムを鳴らした。 「詩、いつものくれよ」  彼はゆったりとした足取りでやってきて、カウンターを挟んだ正面に座る。  特に店の役に立つこともない氏神は今日も健やかそうだ。 「いつものですね」  ブルーマウンテンの瓶に手を伸ばすと、洗い物をしていたソンミンが口を挟んだ。 「何『いつもの』で通じ合ってるんですか。その招かれざる客には僕が水道水でも飲ませておきますから店長は座っててください」 「水道水……」  祓戸が死んだような目をして詩を見る。  ソンミンが、水で満たしたコップを彼の前に置いた。 「美味しいですよ? 東京の水道水は」 「知ってるよ……。毎朝、詩からもらってる」  おそらく神棚に上げている水のことだ。 「いっそのこと毎朝コーヒーも供えてくれよ。豆はブルーマウンテンで」  祓戸が水のグラスを(のぞ)()みながら言った。  詩がその要望に応える前に、ソンミンが切り捨てる。 「調子に乗らないでください。水で十分です!」 「コーヒー!」 「ほら、2人ともお客さんが来たから……」  初めての客だろうか。身内だけだった店内に、スーツ姿の若い女性が入ってきた。 「いらっしゃいませー」  詩が営業スマイルで出迎える。 「店長さん、その節は……」  女性はドアをくぐったところで足を止めると、突然深々と頭を下げた。 「え、誰ですか?」 「誰だよ」  ソンミンと祓戸がソワソワしだす。  彼女が誰なのか、詩にもすぐにはわからなかったけれど……。 「この前、バッグを取り返していただいた……」 「あああ……! あの時の……」  ようやく詩も思い出す。飲み屋でバッグを渡した時は、服装が違ったからわからなかった。 「あの時お名前を聞きそびれてしまって、気になっていたんです。そうしたら、たまたまコレにこのお店のことが載っていて」  そう言って彼女が見覚えのあるバッグから出したのは、この地域で配られているフリーペーパーだった。  ドリップポットを手に微笑む詩の写真が、表紙に大きく使われている。 「ああ、この前取材に来てたやつ……」 「なんですかそれ!? 僕にも見せてくださいよ!」  ソンミンが近づいていって、食い気味に彼女の手元を覗き込んだ。 「確かうちにも来てたよ」  詩は封筒に入った同じフリーペーパーを、店の奥から取ってくる。 「なんで早く言わないんですかー!」  ソンミンが目をキラキラさせながら、食い入るようにそれを見つめた。 「昨日だったかな。ランチの時に届けに来てたから、僕も見る暇がなかったんだ」  詩も取材を受け入れたものの、こんなに大きく取り上げられているとは思わなかった。  ソンミンがフリーペーパーの紙面から顔を上げ、詩を見る。 「店長これっ、商売繁盛間違いなしじゃないですか! こんないい感じの店長サンがいるなら、僕は毎日通います」 「ミンくんは毎日バイトで来てるでしょ」 「それも店長目当てです!」 「あはは、ありがとう。そういえばミンくんもそろそろ1年経つし、時給上げようか」 「やった!」 「おーい、詩。そうやってすぐバイトを甘やかすなよ」  祓戸がカウンターに頬杖(ほおづえ)を突き、つまらなそうに言った。  それはそれとして、フリーペーパーでこんなに大きく扱われたなら、きっと客も増えるだろう。詩はホクホクした気持ちになる。 (いいことがあったから、みんなにおすそ分けしなきゃな!) 「あの、わざわざ来てくださってありがとうございます。ちょうど休憩にしようと思っていたので、一緒にコーヒー飲んでいってくださいね」  詩は彼女にそう言って、4人分のブルーマウンテンをミルに落とした。

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