62 / 62

第62話 番外編:サーモンと卵とルッコラのガレット

※ソンミン視点です!※  その人のことを本当に好きだったのかどうか、実は自分でもよく分からない。  会うたび笑顔で話しかけられ、単純な僕は勝手にその気になってしまったみたいだ。  彼女は、留学生である僕の面倒を見てくれるチューターだった。  日本に来て間もない僕にとって、あの人だけが頼りで失いたくなくて。フリーだって聞いた瞬間、思わず好きだと言ってしまった。  まさか彼女があんな顔をするなんて……。  外国人に想いを寄せられて心外だったのか。それとも僕個人に問題があったのか。  分からない。  思えばあの瞬間まで、僕は彼女の笑顔しか知らなかった。  *  会いたくない。会って冷たくされたら。いつもと同じ笑顔を向けられたって、平気ではいられないと思った。  下手したら感情が爆発して、泣くか怒るかしてしまいそうだ。  学校へ行きたくない。  そう思ったら足が前へ進まなくなって、僕は駅前のカフェの隅っこの席に座っていた。  小さくて古くてぱっとしない、さびれたカフェだ。  客の気配がない、ただそれだけの理由で僕はそこに入ったんだと思う。  音楽すらない、何もない店だった。  そんな中、エプロン姿の青年が、店の奥でジュウジュウと何か焼いていた。  微かに甘い香りが漂ってくる。 「お腹空いてませんか?」  コンロの火をのぞき込みながら、彼は言った。  何にいたしましょう、とかじゃないのか。そういう言い方もあるなら、僕の日本語の勉強が足らないのかもしれない。  僕が答えずにいると、彼は長めの前髪を耳にかけ、こっちを向いた。 「学生さん?」  目が合ってにこっと微笑む。  焼いたものをプレートに移し、それを運んでくる彼から後光が射していた。  やめてくれ。そんなふうに微笑まれたら僕はすぐ勘違いしてしまうんだ。  それなのに彼はカウンター越しに目の前まで来てしまう。 「ちゃんと食べてる? なんだか顔色が悪く見える」  僕が年下だと思ったのか、彼の敬語が取れていた。いや、これは泣いている子どもに対する態度だ。  僕は泣いてなんかいないのに。  いい匂いのする湯気が顔にかかった。 「これ……」  僕がテーブルの上に目を落とすと彼は言う。 「そば粉のガレット。アレルギーじゃなかったら絶対美味しいよ」  ガレット……。クレープみたいな生地の上に、卵とサーモンとルッコラが乗っていた。  微かに甘くて香ばしい匂いはそば粉なのか。生地に砂糖かハチミツが入っているのかもしれない。  具材の三色が、何かのデザイン画みたいにきれいだった。  手が勝手に添えられたフォークへ伸びる。  でも、食べていいのかな? たぶんこれはこの人のお昼だったに違いない。  プレートから顔を上げると、彼はとろけるような笑顔で僕を眺めていた。  甘くてむずがゆい感情が胸の中にわき起こる。 「食べちゃっていいんですか? 注文してないからお金払いませんよ?」  すると明るい笑い声が返ってきた。 「もちろん君へのプレゼントだよ」  初対面なのに、なんなのか。彼の笑顔が……まとう空気の全部が、僕好みで困る。 「こんなことしてたらあなた、商売にならないでしょう」 「そうかな?」 「僕は見ての通りの貧乏学生ですから、一度やさしくしたからって、そのあとせっせとこの店にお金落としたりしませんからね」 「大丈夫。そんなこと期待してないよ」  彼は笑いながら言ってから、少し考えるような顔をしてまた口を開いた。 「でも、ちゃんと食べてくれることは期待してる」 「なんで……」 「僕が、食べてるところ見たいから」  ヘンな人だ。顔は微笑んでいるけれど、目は真剣だった。  僕はその視線に押されてフォークをつかむ。 「……いただきます……」  口の中で言って、フォークで切り取った欠片を口に含んだ。  ほんのり甘くてやわらかい。味はなんというか、はっきりしない感じだった。でもずっと口に含んでいたい気がする。  これって美味しいのかな?  今度は大きめに切り取って口に運んだ。  やっぱりこれといって主張のない味だ。言ってしまえば家庭の味。他にガレットの店があったとして、そことの差別化は難しいはずだ。  でも……。  涙がぽろりと皿のふちに落ちる。  僕はきっとこの味が好きだ。  そしてこの人が……。  涙をぬぐい、サーモンとルッコラを卵の黄身にひたして食べた。  薄めの味付けだからか素材の味を強く感じられる。 「あの、お兄さん、好きな人はいますか?」  僕のグラスに水を注ぎ足しに来た彼が、笑って顔を上げた。 「好きな人か、どうかなあ」  その答えはズルい。 「君は?」 「えっ?」  日本語の質問をふたつも投げ返された。 「僕は……、います! つい昨日失恋してしまいましたが、今また好きな人ができました」  お兄さんはぽかんと口を開けて僕を見つめたあと、ぷっと噴き出して笑った。 「ゴメン、笑って。それ聞いて僕も君が好きになったよ」  告白して笑われたのは初めてだ。でもうれしい。  この人の笑顔が好きだ。  付き合ってください、そう言いたいところを思い留まる。 「この店、なんていう名前ですか?」 「『珈琲ガレット調布店』っていうんだけど……」  お兄さんがカウンターの上にあったショップカードを差し出してくる。 「よかったらまた来てね」  僕は黙ってうなずいた。  よかった、大丈夫だ。今日も学校に行けそうだ。  立身出世のために無理して海外留学までして、学校に行かないなんてことはできない。  失恋がなんだ。僕には明るい未来がある。 「ガレット美味しかったです。ごちそうさまでした」  ガレットと同じ色をしたショップカードは、お守り代わりに胸のポケットにしまった。 <了> この番外編は「ルクイユのおいしいごはんBL」というTwitter企画のために書きました。 素敵な作品がたくさん上がっていますので、ハッシュタグ(#ルクイユのおいしいごはんBL )をのぞいてみてください。

ともだちにシェアしよう!