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梅雨のミドリ

 相変わらずアオを籠の中に閉じ込めたまま、半年が経とうとしていた。 (アオと旅行には行けなかったな。)  俺は結局のところ、俺は両親の言いなりのまま運命の番を待ち続けている。 重たく湿る梅雨の空気が俺に纏わり付き、それが両親の傀儡でしかない事を象徴しているようで虚しかった。   ◇◇◇  三ヶ月前に知った「ミドリ」と名付けられたアオと俺の子ども。 「......そうだ、アオ、番になろう。そして俺の子を孕め。そうすれば、誰も仲を引き裂こうなんてしない。」  俺はアオに謝罪ではすまないような仕打ちをした。まだ生まれてもいないミドリに話しかけるアオの声を聞いてからは、もう二度とアオは俺を見てくれないのではないか、という不安が心の中で渦巻いていく。 (無理やり番にしておいて、怖くて番に会いに行けないなんてな......) 俺は心の中で自分自身に嘲笑を向ける。  あの時何故、自分はアオにそんな事を言い放ち、挙句には無理やり番契約を結ぶという強行に走ったのか、今では自身のその心境が理解し難いものになってきていた。番契約によって得られた心の安息は、自身の冒した罪の重さを知る為には充分すぎるものであったが、同時にアオには会いに行けないという恐怖を(もたら)すものであった。 (それでも、俺はアオと向き合わないとな....)  そんな折に母親から電話がかかってきた。 空は灰色に染まり、今にも涙を流しそうだった。  両親の重い束縛から逃げるために、俺は高校卒業とともに家を出ていた。 「紫音、あなたの番を見つけたの。近いうちにこちらに帰って来られるかしら?」 電話口から母の感情の読めない声音が聞こえる。 「母さん、悪いけど俺は例え運命であってもアオ以外と番になることはない。」 (.......俺の運命はアオしか考えられない。) 母は激昂することもなく、淡々と吐き捨てる。 「何を馬鹿な事を言っている?あなた、まだあんな身元も不確かなオメガと一緒にいるのね。」 「俺は母さんや父さんが望むとおりピアノを弾いて来ただろう?確かに、半年近く不調が続いているけど、それだっていつかはきっと抜け出せる。これまで通りに結果を出していくから、どうかアオだけは奪わないでほしい。」  生まれて初めて、両親へ見せた反抗だった。 それはすぐに打ち捨てられたが。 「いつかは?あなたは本当に何を言っているの?その、やらされ続けたピアノが上手くいかなくなって、あのオメガと番になって身篭らせたのでしょう?あなたにとっては、あのオメガよりピアノの方が大切だという何よりの証拠だわ。まだ気づいていないの?」 母の冷たい声が響く。 「.......なっ」 「あのオメガも不憫ね。あなたの八つ当たりの捌け口にされてしまって......。ああ、でもいいのかしら?それであなたの心の平穏が保たれるのならば......」 「違う....!そんなことでアオの傍にいるわけじゃない!」 思わず母の言葉を遮る。何故、母がアオと番になり子どもまで宿した事を知っているのかは分からなかった。しかし、過保護な親だ。俺の身辺調査など朝飯前なのだろう。恐らく、アオを監禁してる事も知っている。 「違うと言うのならば、それなりの姿勢を見せてもらいたいわ。あのオメガを鎖に繋げたままでも、あなたはしっかりと高槻家に相応しいピアニストでいられるのかしら?それとも、本当に全てを捨ててあのオメガと添い遂げるつもりなの?」 暗に、もうピアノでしか生きていけない俺が、この先アオを大切にすることは無理なのだから手放せ、と言われているようなものだった。 母は囁くように続けた。 「それにね、紫音。運命の番と添い遂げると相手のオメガだけでなく、アルファも仕事の効率が上がったり、飛躍的に才能が開花されると言われていることは知っているかしら?」 「.....なにを」 「あなた、スランプから抜け出せるのよ。」 それは甘い誘惑だった。 (今の何もかも上手くいかないこの状況から抜け出せる?) 俺の思考はぐらぐらと揺れる。 「既にあなたの一部となっている音楽に躓く苦しみは、これでも分かるのよ。同じ音楽家なのだから。いつか、なんて言っていたけれど、いつ来るか分からないいつかを待つよりも確かな方法が目の前にあるの。」 俺はその助け舟に乗った。 「.......わかった。近々家に帰るからその時に縁談の詳細を聞くよ。先方にも是非会いたいと伝えておいてくれないかな?」 「話がわかってくれてよかったわ。あのオメガとも早々に縁を切るのよ。高槻家の一員としての役割をくれぐれも忘れないでちょうだい。」 矢継ぎ早に告げると母は電話をプツッと切った。  遠くの方で雨が酷く降り落ちる音が聞こえる。フローリングから冷やりとした空気が立ち上る。窓を開ければ濃厚な雨の匂いがする。 ――俺はアオを選ばない。   ◇◇◇  じわりと嫌な汗がドアノブを握る手から滲む。 「し、紫音?」  アオは俺を見て、何故か安心したように微笑んだ。 俺は足早にアオへと近づく。自分で付けた鎖がアオの白い肌に濃い痣を作っている。 「すまない、アオ。おまえに取り返しもつかないような酷い仕打ちをして。」 俺はその痣をそっと撫でた。 「よかった......紫音が元に戻ってくれて.......」 小さな声でアオが呟く。 なんで、おまえはこんな時まで俺のことしか考えないんだ。もっと、自分の悲劇を嘆いてもいいはずなのに。 「アオ、アオ、すまない。おまえに俺は、これからもっと酷いことをする。一生恨んでくれていい。」 自分勝手な言葉が微かに涙で濡れる。本当に、酷いエゴだ。  俺はアオを組み敷くと、まだ濡れてもいない後孔に自身の剛直をねじ込んだ。 「ぃやぁあああああぁああああぁあっ!!!!」 「すまない、すまない、アオ」 アオはきっと泣いている。けれども、その姿を見ることはできなかった。アオの肩口に顔を埋めて俺はただひたすら謝罪の言葉を重ねる。 「ぁあ!!!あかちゃん....ミドリが、ミドリが!!!!!.....ねがい、やめてっ!!!!!!」 アオの悲鳴が部屋中に響く。 それでも、俺は悪魔のような言葉を吹き込む。 「アオ、これから番を解消する」 自分で言っておきながら、心が氷のように凍える。 ブチッ....... 頸に深く歯を立てた。 気を失ったアオの頬に流れる涙を指で掬うと、病院へと連絡する。 さようなら。俺の番、そしてミドリ。 ◇◇◇  都内の高級ホテルのレストランで縁談は取り仕切られることとなった。  母からは事前に、相手のオメガは高槻家と同じように古くから芸術家を輩出する一族の末子である、と聞いていた。祖父が有名な日本画家で、彼女もまた画壇の中で一定の地位を築いた日本画家なのだそうだ。    父は「責任を果たせ」と無愛想に言うだけであった。昔から、父が笑顔を見せる相手は母だけであった。世界的に名を馳せているピアニストの父とヴァイオリニストの母は、俺にとっては眩しすぎるくらい大きな存在であった。  丁寧に手入れをされた長い黒髪を後ろで一つに纏め上げ、伏し目がちな大きな瞳は長い睫毛で更に隠されてしまっていた。陶器のように白い肌と黒髪のコントラストに雪のような冷たさと美しさを感じた。レースがあしらわれた淡藤色の清楚なワンピースを着た彼女から俺は目が離せなかった。 ――これが、運命の番。 「初めまして、紫音さんですね。幾つか演奏を拝聴させていただきました。私はあまり音楽に明るくないのですが、素晴らしい音色であることは分かりました。」 穏やかな声音に、香り。そうだ、これはあの時アオが言っていて分からなかったので調べた、梔子の香りだった。 「まだ、お料理が来るまで時間もありますから、少しだけ紫音さんと二人きりになってもよろしいでしょうか?」 彼女は頬を少し赤らめて、俺の両親へと訊ねた。 「もちろんですわ。どうかうちの息子とご親睦を深めて頂けたら嬉しい限りです。」 母もあっさりと承諾した。 ◇◇◇  ホテルの庭園は手入れが行き届き、全てが管理された緑色だった。その中に眩しいくらいの白が見え隠れしている。 あれは、梔子。 いずれその花は黄色く変化し枯れてゆく。 山吹の 花色衣 主や誰 問へど答へず くちなしにして 俺はいつかのアオが口にした歌を思い出した。 (第二章 終わり) 

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