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最終章 金木犀のあの子
「単刀直入に言います。この縁談を破棄していただけないでしょうか?」
庭園に置かれたシックなベンチに座ると、彼女は口を開いた。膝の上で丁寧に重ねられた手は僅かに震えている。
「......どういうことですか?」
俺は恐らく、顔に深い困惑の色を浮かべているだろう。彼女はするりとオメガの頸を守る為のチョーカータイプのガードを外した。そこには、くっきりと歯形が付いていた。
「紫音さんは私の運命の番ですから、きっと私の香りが分かったと思います。私も紫音さんの香りは分かりますから。でも、それでも、ごめんなさい。私には心に決めた方がいます。私は、あなたと番にはなれません。」
彼女の大きな瞳が真っ直ぐに俺を見つめる。俺なんかに彼女の固い意志を捻じ曲げる事などできないとその時に感じた。まだ震えている彼女の手をそっと取る。きっと今日までとても悩んだはずだ。同時に、俺は本当にどうしようも無い人間だと思った。
「この縁談話は貴女のお祖父様から勧められたのですか?」
彼女は、怒りもしないどころか今は困惑の色すら浮かべない俺に驚いている様子だった。
「え、ええ。」
「そうですか。実はね、俺も番がいたんです。先日、解消しましたが。」
彼女はその言葉を聞いて真っ青になった。
「そ、それは、こちらが縁談話をすぐに断らなかったからですか!?どうしましょう、わたし、なんて身勝手なことをしてしまったのかしら.....。もっと早くにこの事を伝えておけば......」
どうして、俺の周りのオメガはこうも自分のことを二の次にするのだろうか。
「違います。貴女の所為では決してありません。これは、俺の身勝手が招いたことですから。」
「.......どういうことですか?」
今度は彼女に聞き返された。
「俺ね、今スランプなんです。全然、ピアノが弾けない。恐ろしい程に鍵盤が冷たいんです。だから、俺が弱いばかりに、運命の番と結ばれたら齎される安寧に縋ったんです。俺は貴女を利用しようとしたアルファです。」
「それで、番となった方と番を解消されたのですか?」
彼女は目に涙を浮かべていた。
「ええ、一方的に番の契約をして、解消も。俺が不安で不安で仕方がなかった時に番になったんです。アオまでも失いたくはなかったから。それなのに、結局選んだのはピアノを弾ける自分の事だった。本当に、馬鹿ですよね。」
「本当に、馬鹿です。紫音さんはアオさんに何故何も相談しなかったのですか?少しは苦しみを分かち合わなければ、今のように判断を誤ってしまう。」
彼女は俺の手を強く握り返して言った。
「オメガは番を解消されたら二度と誰かと番になることはできません。今、きっと孤独に苦しんでいる。アオさんを救いに行かなければなりません。そして、アオさんに許してもらえなくても、あなたは謝らなければいけません。アオさんは何処にいらっしゃるのですか?」
「アオは.......」
数日前、病院から忽然と姿を消したと聞いた。彼女にそれを伝えると、その顔が曇っていく。
「そんな......番を解消されたショックはとても深いと聞きます。そんな状態で病院から誰にも気付かれずに出ることなんてできるのでしょうか?」
「まさか.....」
「攫われた、なんて事は私の考えすぎですよね。」
嫌な予感がした。彼女もその雰囲気を察したようだった。
「紫音さん。今すぐアオさんのこと探しに行ってください。」
「え......」
「この縁談は私に任せてください。きっと破談させますから。だから、今すぐアオさんの所へ。」
随分と大胆なことを言う彼女に、今はとても救われた。俺は小さく肯く。
「分かりました。この御恩はいつか必ず返します。」
「いいんです。私だって私の幸せを優先させたまでですから。そうだ、連絡先だけ交換してください。紫音さんが幸せを掴んだらきっと連絡してくださいね。私も、連絡いたします。」
俺は彼女とメールアドレスを交換すると、ホテルを後にした。
◇◇◇
アオを預けた病院に詳細を聞くと、龍野という男がアオの身元引き受けの書類を持ってアオを連れ帰ったと言う。
「あの、その件については高槻様からご連絡もいただいておりますが。」
事務の女性が訝しむが、俺は「龍野敏哉」と書かれた字を見つめていた。
(こんな男、知らない。)
「すみません、少し忙してくて失念しておりました。」
俺はその男の名前を記憶して適当に話を切り上げ病院を出た。
家へ戻るとパソコンを立ち上げ「龍野敏哉」について調べる。携帯には夥しいほど母からの着信が来ていたが全て無視した。
その名前は想像以上に簡単にヒットした。
「.....官能小説家?」
プロフィールの書かれた画面をスクロールしていくと、顔写真が現れた。
「こいつ......!」
そこに映し出されたのは、記憶より多少は老けているものの、嫌でも鮮明に覚えている顔だった。
龍野敏哉とは、高校生の時にアオをレイプしようとした用務員であった。
「もう、ここには二度と来ないよ。アオくんにも手は出さない。というか、きみがいる限りは手を出せないかな。」
あの時、男が飄々と言いのけた言葉を思い出す。
(俺がアオの傍からいなくなったから手を出したというのか.....!?)
俺は拳を机に叩きつけた。全ては俺の身勝手な行為が生み出した顛末だ。
(本当に馬鹿で、救えない......)
自分自身を罵倒する言葉が幾つも浮かび上がり、その度にアオにした仕打ちを後悔した。
(アオ、必ず見つけだす。だから、どうか無事でいてくれ。)
外は酷い雨が降っている。
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