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第二章 寒凪は薄藍色

 アオは東京の国立大学へ、俺は音楽大学への進学が決まった。  放課後、二人きりの図書室で目的もなく話し込む。 「紫音もキャンパスは東京だよね?」 アオはいつもの席で、誰かが書いた小説の背表紙を意味もないまま撫でていた。 「ああ。」 「よかった!それにしても凄いね、最難関の音大でしょ?」 アオは相変わらず自分のことよりも俺のことだ。 「おまえも、国内トップの国立大学だろう?」 「そうだけどさ〜。やっぱり紫音のピアノはちゃんと誰かに評価してもらって、認めてもらえてる。勉強とはまた物差しが違うでしょ?誰かの感性に働きかける事ができる人は凄いと思うよ。」 「そうかな。それよりおまえ、何で経済学部にしたんだ?」  アオは見かけによらず数学や物理が得意であったから意外に思っていた。 「うーん、ほんとに些細な事だよ。」 アオは硬い表紙に箔押しされた金色の文字を、白い指先でなぞっていく。 「それが、知りたい。」 「この小説家が、僕の行く大学の経済学部を出てたんだ。ほんとにそれだけ。全然現実考えてないかもだけど。」 アオはトントンと持っていた小説を指で叩いた。 俺は柄にもなくぽかんとしてしまった。毎日必死に勉強していたアオの進路選択が大胆だったからである。 「本当にそれだけなの?」 思わず聞き返す。 「うん、それだけだよ。施設が面倒見てくれるのは高校生までだから、大半のオメガは一人で生活するために就職することを選ぶんだけどさ。僕はバイト代と奨学金でやり繰りする代わりに、好きなように進学先を選んでみたいなって思ったんだ。でも僕は、これまで何となく生きることに必死になっていたから、あんまりやりたい事とか分からなかったんだよね。」 アオは照れたように笑った。 「それで好きな小説家と同じ大学に行くことにしたのか?」 「うん。彼が大学でどんなことを学んで、どんな世界を知っていったのかを見たくなったんだ。」 「ほんと、お気楽だよね。」とアオは小さな声で付け足した。 「いいんじゃない?そのくらい楽な気持ちでいた方が長生きできるよ。」  底が見えない静かな空を眺めながら俺は言った。事実、オメガは短命であることが多いから、アオには少しでも長く生きてもらいたかった。そうして長生きしているアオが自分の傍に変わらずいる未来を、俺は当たり前のように思い描いていた。 「僕も、もっともっと世界へ駆け出していく紫音の姿が見たいなぁ。」 アオが花を咲かせながら笑った。 「どうだかな、俺は物心つく前からピアノと一緒にいたからさ。両親の期待通りに生きていると思うよ。でも、それだけだ、と感じることがある。ただ、ピアノが人より得意だっただけ。ピアノが無くなれば、俺自身も必然的に失われていくような、そんな感じ。」 「紫音......」 「まあ、そんな風に悩めるくらいには自由だってことだよ。おまえをそんな顔にさせるつもりはなかった。変なこと言ってごめんな。俺は、おまえが傍に居てくれればいいんだ。」  誰もいないことを良いことに、俺はアオの唇にキスを落とした。 ◇◇◇ 「ん.....」 「なあ、ここで抱いてもいいか?」  囁くように言うと、アオは顔を真っ赤にさせてぶんぶんと首を横に振った。 「なっ....!何言ってるの?!ここ、学校だよ?!」 「いいじゃん。高校生活最後の思い出。」 俺はニヤリと笑う。アオの腰をがっしりと抱き寄せて。  くしゅん、と可愛らしいくしゃみがひとつ。 「さ、寒い.....」 アオは肌けたワイシャツを整えるが、ボタンを掛け違えていた。俺はそれを一つずつ直していってやる。 「あんなにあっためてあげたのに。」 「紫音、オヤジくさい。」 アオがころころと笑った。 俺たちは背の高い本棚が立ち並ぶ、一番奥の光も届かないような場所でひっそりと抱き合った。 「眠くなっちゃった。」 アオは背を預けて俺の足の間に座っていた。俺はアオのブレザーをアオの膝に、俺のブレザーをアオの肩にかけた。そして、後ろからしっかりと抱きしめた。 「少し眠れば?」 俺はアオの肩に顎をのせて訊ねた。 「そうしようかな。紫音は平気?寒くない?」 「俺は大丈夫。おまえ、あったかいしな。」 「ん、そっかぁ。」 アオは本当に眠ってしまいそうだった。 「ふっ、おまえ、ほんとに眠いんだな。」 「だって、紫音もあったかいし。それに、いい匂いする。」 アオが目を閉じて呟いた。 「.....どんな匂い?」 「山吹の 花色衣 主や誰 問へど答へず くちなしにして」 「なんだ、それ?」 「紫音は、梔子(くちなし)の香りがする。.....梔子って、花を咲かすのに、すっごく時間がかかるんだ。でも、とっても、きれい......」 アオはその後も何かを言っていたような気がするが、眠気には勝てなかったようでスウスウ寝息をたてて眠ってしまった。 ◇◇◇  俺には梔子がどんな花なのか分からなかった。名前は聞いたことがあるが、花の色も形も思い浮かばなかった。 「おまえは金木犀の香りがするよ。........でも、おまえは蒲公英みたいだよな。花を咲かせたら何処かへ行ってしまいそうだけど。」  寝てしまったアオを抱き上げ、図書室を出る。  ふと廊下の窓から空を見た。  それは、今は瞼の奥に隠れているアオの瞳の色によく似ていた。

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