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夜、想う

 音も立てずに入室して来たのは龍野だった。 龍野は俺の姿を見ると一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに嫌な笑みを浮かべた。 「高槻くんじゃあないか。きみ、てっきりそのオメガを捨てたと思っていたんだけど、まだ御執心のようだね。」 龍野は足早にアオの元へと近づくと無遠慮にアオの腕を引っ張る。 「んっ.....」 寝ているアオが僅かに顔を顰める。 「触れるな!」 俺は龍野をアオから引き剥がすと、隠すように薄いブランケットをアオの頭まで引き上げた。 俺の行動に龍野は声をあげて笑った。 「今更騎士気取りかい?残念だけど、こいつは俺の大事な商品なんだ。もう遅いよ。」  龍野はベッド脇の小さな椅子に腰掛けると優雅に脚を組んだ。そして、やれやれと大袈裟な身振りをして続けた。 「まったく、ここの主人にはしてやられたよ。まさか高槻くんとこいつを引き合わせちゃうとはね。折角きみたちを別れさせたのに。」 「......どういうことだ?」 睨みあげれば益々可笑しそうに笑う。 「俺はね、美しいものが壊れる様にとても興奮するんだ。ずっと前から、きみがこいつに出会う前から俺のものにしたかった。こいつの美貌には、どんなに育ちのいいオメガだって敵わない。俺は美しいものだけ側に置いておきたいんだ。」 「.......っ!」 「でも、少し手間取っているうちに高槻くん、きみがやって来てしまった。そう、あの日、きみたちがまだ高校生だった夏の日だ。でもね、俺はあの日の計画が失敗して良かったと思っているんだ。」 龍野はうっとりとその眼を潤ませ、落ち着かないように指をばらばらと動かした。 「高槻くん、きみは孤独で美しい。アルファの風格も携えているけど、反面オメガのように繊細だ。恵まれた環境と才能の中で不安定に哀しく生きるきみと、実の親にも捨てられてそれでも健気に生きるこのオメガが結ばれて本当の幸せを掴む。誰もが喜ぶハッピーエンドだ。でもね俺は、その二人が引き裂かれぼろぼろになる結末が見たかった。」  俺は目の前の男が何を言っているのか分からなかった。ただ、視界が真っ暗になっていく。その感覚が怖くて、そっとブランケットの中に手を入れてアオの手を捕まえる。その手があまりにも温かくて俺は泣きそうになった。 男はべらべらと話し続けた。 「このオメガを壊すのは高槻くんの役目だと思ってね。どんな天才にでも挫折はやって来るだろう?きみの繊細さに俺は付け込んだのさ。」 「....何が言いたい?」 「マスコミに君たちのことをリークしたのは俺だ。」 ひくっと呼吸が乱れた。 「ま、さか....」 「あははは!俺の想像以上にきみは追い詰められた。そして、今、この有り様だ!ねえ、高槻くん?このオメガがきみに捨てられた後、何人の男を咥え込んだと思う?」 「やめろ....やめてくれ......」 「これはきみの心が弱いせいで招いた結末だよ。あの夏の日、随分と啖呵を切っていたけれど。」  龍野はアオのベッドに腰掛けている俺へと近づくと、強引に引き降ろして俺を床へと叩きつけた。 そして、仰向けに寝転がった俺を見下ろすと先の尖った革靴で俺の右手をぎりぎりと踏みつけて吐き捨てるように言った。 「無様だね」 踏みつける足に更に力が込められる。 「.....ぅっ、くっ....!!!」 「きみは自分だけを愛していればよかったんだ。」 ◇◇◇   そう言って笑った龍野が急に崩れ落ちた。 俺は痛む右手を庇いながら上体を起こした。 そこには、いつの間にか起きていたアオが龍野の足元にしがみつくように乗っていた。 「た、龍野さん!やめて!紫音はピアニストなの!だ、だから手はダメなの!..........うあっ!!」  バシンと鋭い音とともにアオは後ろに突き飛ばされ、ベッドの脚に強く頭をぶつけてしまった。 「くそっ!淫乱で莫迦なオメガが俺に向かって歯向かいやがって!」 龍野は激情に任せてもう片方のアオの頬を殴った。アオは頭をぶつけた衝撃で既に意識はなかった。 「や、やめろ!!!!!」  俺は更に暴力を振るおうとする龍野に掴みかかった。ミシリと右手が嫌な音を立てたが気にする暇などなかった。 ◇◇◇ 「そこまでだ!」  別の声が部屋中に響き渡った。 声のした方を見遣ると、そこにはあの資産家がいた。 資産家はふっと息を吐くと、アオを抱き抱えベッドへとそっと寝かせた。そして奥に控えている従者に「医者を呼んでくれ」と小さな声で指示を出した。  それから未だに座り込んでいる龍野に視線を合わせると静かに言った。 「龍野さん、そこまでです。彼らから手を引いていただきたい。」 龍野はもう飄々とした笑みは浮かべずに資産家を睨め付けた。 「それはできませんね。」 龍野の言葉に資産家は諦念の表情を浮かべた。 「それでは仕方ありませんな。龍野さん、この部屋での会話は全て録音されているのです。あなたが何の疑いもなく、私にオメガの青年を引き渡した時から、私はあなたの悪行を調べていたのですよ。しかし、どうにも最後の布石を置けなかった。きっとそれは、そこにいる高槻くんも同じでしょう。でも、これでやっと決着がつきましたな。」 龍野が拳で床を叩く。 「くそっ!!.....何が望みだ。」 「あなたの罪は裁かれるべきです。しかし、その前にオメガの青年を高槻くんの元へ帰らせてはくれないだろうか?」 資産家の言葉に俺は驚いた。 (........そんな資格、俺にはない。) 「......わかった。」 龍野が了承の意を見せた時に、俺の頭に一人の男の姿が浮かび上がった。気づいた時には唇が動いていた。 「ま、待ってくれ!俺にはアオといる資格はもうない。俺はアオと二度と会わないことで自分の罪と向き合う。そして、最後に俺はアオに運命の番と引き合わせてやりたい。アオは俺のせいで二度と番を結べない。それでも!だから、俺は、僅かな望みにでも縋りたい。アオの幸せを、願いたい。」 「高槻くん、きみはアオくんの運命の番を知っているのかい?」 資産家が静かに問いかけた。 「ええ、今日、本能で知りました。アオの番は小説家の佐伯雅史です。........龍野、さん。」 俺は龍野に向き合うと額が床に擦れるまで頭を下げた。 「お願いだ、アオを佐伯雅史の所へ引き渡して欲しい。やり方はあなたに任せる。」 俺は固く目を閉じて返事を乞う。 「.......わかった。二週間後に佐伯雅史の祝賀会がある。その時にどうにか引き取るように仕向けてみせるよ。」 俺は情けなくもその言葉にほっとして脱力した。 資産家は念を押すように言った。 「その祝賀会での取り引きはこちらから見張り役を付けさせてもらいます。そして、祝賀会まではアオくんは引き続き保護、龍野さんの身柄もこちらで拘束させていただきます。よろしいかな?」 その声音は穏やかであったが、否とは言わせない覇気があった。 龍野のもその言葉に従った。  その後、龍野の身柄は資産家の呼んだボディーガードに引き渡され、アオの医師による診断を受けた。俺も右手の傷を診てもらった。幸い、骨に損傷は見られず数日不自由する程度のものだった。 ◇◇◇  孤高に聳え立つ豪邸のバルコニーで、俺は夜風に当たる。酷く気持ちが凪いでおり、それでいて息がしやすかった。 ――これでいいんだ 「やあ、こんな所におりましたな。」 資産家はバルコニーにある鉄製の簡素なテーブルにウィスキーのグラスを二つ置いた。 「今日は、ありがとうございました。」 ぽろりと本音が出た。 資産家は微笑む。その目尻に小さな皺が薄らと浮かんだ。もう髪を染めることはしていないのだろうが、所々に除く白髪は元々の髪の色にぴったりと馴染んでいた。50を幾つか過ぎた年齢ではあるが、その身体が引き締まっていることは緩やかなガウンの下からでも顕著であった。 「疲れたでしょう。少し飲みなさい。」 資産家はウィスキーのグラスを俺に渡す。カランと氷が鳴る。その音が妙に心を落ち着かせた。 「.....あなたは一体何者なのですか?」 俺はちびちびとウィスキーを舐めながら訊ねた。 「なあに、一色財閥の末子ですよ。長兄は素晴らしい人でね、もちろんその奥方も。長兄の息子さん、私の甥にあたる青年は医者になって沢山の人の命を救っていると聞いてます。私は、昔、そんな一色家に泥を塗ってしまった馬鹿者です。自身に溺れた。」 「......そう、ですか。俺にはあなたも立派な方だと思いますが。って言うか、ほんとすみません!雇われたのにその方のことも知ろうとしてなかっただなんて.....」 一色さんは朗らかに笑った。 「いいんですよ。.....実はね、あなたがあまりにも昔の私に似ていたから。だから、御尽力したいと思ったまでなのです。」  しとしとと雨の降る音がする。 「今夜、ここを出ます。」 「そうですか。アオくんには?」 「会いません。」 「そうですか。紫音くん。」 「はい」 「雨はね、冷たいだけではないですよ。梅雨の雨は、傷も包んでくれます。自論ですがな。」  ふと、金木犀の香りを感じた。  梅雨の濃い雨の匂いの中で。  おかしな話だろうか?  夜、おまえを想うよ。どんな季節でも。 (最終章 終わり)

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