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1.GISELLE -1

 私の顔を見た瞬間に、その男は明確な死を覚悟した。逃げられないと悟ったのだろう。青ざめた顔に、眼球が飛び出そうなほど見開いた目。全身の震えは見る間に増幅し、喉仏が上下する。  吸い慣れた煙草が不味くなった。 「久方ぶりだな、エンツォ。……残念だ」 「ああ……神よ……」  随分と信心深くなったものだ。私を前にして、漏れ出た言葉が的外れな祈りであったことに落胆する。この男の魂は別のところへ預けられたらしい。ならば私が加える慈悲も既に無い。  コートに隠して構えた拳銃の引き金を引くのに、何も躊躇いはなかった。  祈りを吐いた口から、赤い液体が溢れる。ぐらりと傾く身体。私が立ち位置をずらせば、男は真正面に倒れ込んだ。薄く雪の積もった、自らの屋敷の玄関で、エンツォ――私が懇意にしていたマフィアの幹部は「裏切り者」の汚名を背負って絶命した。  ファミリーから持ち出した「薬」の製造方法は、さぞや富をもたらしてくれたことだろう。一人で住むには大きすぎる、この辺境にひっそりと建つ屋敷は、丁度良いことに立派な墓標になる。  エンツォの背の上に吸いかけの煙草を放る。――人生最後と決めた仕事が裏切り者の始末とは、なんとも華のないことだ。  私の背後で、雪を踏みしめる複数の足音がした。  清掃業者の服を纏った男たちだ。 「お見事でした、サー……」 「くだらん世辞を言う暇があるなら働け」 「はい」  彼らは短い返事の後は、手際よくエンツォの死体を袋に入れた。流れ出て玄関先を汚す血液に薬品をかけて、殺しの証拠を消していく。鮮やかな仕事だ。郵便も届かないような僻地にあるこの屋敷に人が訪れることなどまず無いだろう。処理には十分な時間がある。物騒な組織から借り受けた彼らは間違いなくエキスパートたちだった。  私は数人を伴って屋敷の中へ足を踏み入れた。 「適当に持っていっていいんだろう?」 「ええ、ファミリーに関するもの以外なら」  彼らは淡白に答えるとすぐに仕事にかかっていく。私はもう用もなかったが、かつては仕事で手を組んだこともある懐かしい男の名残でもすくっておこうかと、適当な部屋のドアを開けた。  窓のない、暗い部屋だった。  ベッドの上に何かがある。  いや、――いる。  私は拳銃を構えなおす。仲間か、呑気に愛人でも作ったか。  片腕で狙いを定めてから、手探りで壁の電灯スイッチを押した。  一、二度の点滅。それから照らし上げられた部屋の様子は、異様だった。  家具と呼べるものはベッドと椅子、テーブル、それからエアコンくらいだ。棚も無く、装飾品の類も一切無い。時計すら無かった。その代わりとばかりに壁にずらりと並ぶのは、大小種類も様々な、拘束具に鞭、拷問器具。蝋燭などもある。床にはオブジェのように、檻や分娩台に似た拘束椅子などが配されていた。  何を目的とする部屋かは一目で分かった。  思わず「げ」と声を漏らしてしまった原因は、壁の一面。  そこは、とある青年の写真で隙間無く埋め尽くされていたのだ。陽光に輝く銀色の柔らかな髪。澄み渡る湖面のような瞳。通った鼻梁はどの角度でも華やかに映る。街角で友人と談笑する顔や、バス停でスマートフォンを見つめる横顔。  全て盗撮写真だった。  なんとも見目麗しい青年の写真だった。  ――そして、下世話な欲を押し付けられた彼は、今まさにここにいる。  ベッドに横たわる青年は紛うことなく、写真の彼だ。 「……」  細い四肢には厳しい枷が嵌められ、それぞれ短い鎖でベッドに繋がれている。これでは寝返りも打てない。下半身にだけ無造作にブランケットがかけられているが、上半身は裸のまま晒されていた。その胸元には赤い筋が幾本も痛々しく残る。写真では健康的に見えた頬は血色を失い、眠りながら流すのであろう涙に濡れていた。  間違いない。これは監禁だ。 「……なるほど。随分と『お楽しみ』だったわけだ」  独りごちて、眠る青年に銃口を向けながら歩み寄る。  彼の状態で一際目を引くのは、首筋だ。  獣に襲われたような噛み痕で傷付けられていた。内出血で青く変色している。エンツォの特殊性癖という可能性も無いでは無いが、恐らくこの青年は「オメガ」なのだろう。人間が生まれながらに持つ性の一つ。雄性のアルファと雌性のオメガ。哀れなことだ、エンツォは中性のベータだった。才気に恵まれるアルファ性に強い憧れを持ち、繁殖能力を具えるオメガ性を蔑む男だった。  身に余る支配欲と断ち切れない劣等感。その結果と思えば裏切りは運命だった。永遠に満たされない欲望は、何の関係もない一人の青年に向けられた。  銃口で、目元にかかる前髪を払ってみた。私も随分長く生きてきたが、それでもお目にかかったことのないような、端麗な顔立ちだ。これでオメガ性と言うのだからさぞや生きづらいことだろう。アルファ性にとっては格好の獲物だ。これを連れて歩けば箔が付く。私の視線もつい青年の首筋に向いてしまう。本能だ。私もアルファ性なのだ。  ベータがいくら噛んでも意味はない。しかし、私が噛めば。 (番に……)  邪な考えが頭をもたげる。銃を下ろして、指先で首筋を撫でてみた。その傷痕に無性に腹が立つ。こんな一過性の嗜虐で汚すには相応しくない。噛むならばもっと綺麗に、永遠に残るほど深く……、ああ、また牙を立てる想像を。  思考に溺れる前に指を引っ込めた。  まさにその瞬間、長いまつ毛で重たそうな目蓋が、ゆっくりと開いた。  朝日が昇るような美貌だった。  思わず覗きこみたくなるほどに輝きを放つ瞳だ。数度まばたきを繰り返す様が神秘的にさえ感じる。何かに純粋に目を奪われたのは、見惚れてしまったのは何十年ぶりだろうか。類稀なる美しさはいっそ目に毒だ。そう思うのに、目を逸らせない。  彼はまだ覚醒しきっていない顔を私に向けた。  その唇が悩ましい。 「……ッ」  引き攣った呼吸が聞こえるのに、さして時間はかからなかった。  青年は素直な驚きを表情に出した。当然だ、自分を監禁した犯罪者以外の人間が唐突に目の前にいるのだから。それから、青年は必死で何かを言おうとした。 「っ、ぁ、……あ、ぁ、っ」  しかし実際は開いた口から意味をなさない音が漏れるだけ。喉が思うように動かないようだ。言葉が発せないもどかしさに青年は綺麗な顔を歪ませる。  監禁という異常な状況が与えるストレスで、一時的に発語に障害が出ているのだろう、と予想する。読唇で、彼が「助けて」と言っていることは分かった。  さて。  私は近くの部屋で作業をしていた処理班の男に、鎖を断つボルトカッターを持ってくるように頼んだ。鍵を探すより早い。それを聞いた青年はほっと安堵の吐息を零す。私は拳銃を隠したまま、下半身のブランケットを上半身にもかけてやった。「もう大丈夫だ」と優しい声で宥めると、美しい瞳に涙の膜が張る。彼にとって私はまさに救世主。どういった動機で手を差し伸べているか、青年は少しも分かってはいまい。  道具を持ってきた男が枷の鎖を切っている間、私は壁の写真に目を這わせた。  中央に留められた写真にだけ手書きで文字が入っている。 『ジゼル』  名前……ではないだろう。ジゼルは女の名だ。エンツォが勝手にそう呼んでいただけかもしれない。あるいはあだ名か。あの繊細な顔立ちに、ジゼルという名はよく似合う。  鎖が断ち切れる音がした。  青年は男の手を借りながら、ベッドの上に座っていた。 「ぁ、……っ、ぅ」  相変わらず声は出ない。私は男を下がらせ、青年の前に立つ。  おずおずと見上げてくる顔がなんとも可愛い。安心しつつも怯えている。私が手を伸ばすだけでその細い体はびくりと震えた。虐待を受けた子どもと同じだ。私は手の甲で、青年の頬に静かに触れる。涙を拭うように。 「美しいお前、あの男はもういない。私が殺した」  青年は最後の言葉の意味を一瞬考えたようだった。  徐々に目が見開かれていく。気付いただろうか。自分の目の前にいる男が救世主ではなく、次の支配をもたらす悪魔だと。  手を頬から首筋に下ろしても、青年は動かなかった。身体が硬直している。エンツォの恐怖による調教が残っている。  手始めにこれを塗り替えなければならない。  私の「番」になるのだから。 「私が怖いか?」  青年は震える吐息を零したあとで、微かに首を縦に振る。 「家に帰りたいか?」  当然の問いのつもりで聞いたが、意外にも青年ははっきりと、今度は首を横に振った。  帰りたくないとはどういうことだろうか。この異常な空間から一刻も早く逃れたいというのが、常識的な思考だと思ったが。  考える私の手を、青年は恐る恐るといった様子で握る。  そうして私に手を開かせて、その平に何か文字を書き付けた。 『たすけて』  確かに、そう書いたのだ。  青年は懸命に私を見上げ、懇願を記した手をぎゅっと握っていた。  ゾクリと背筋を這い上がる快感に震える。このように美しい人間から縋られる、求められる、何という悦。分かっていての仕草ならばとんだ小悪魔だ。魔性の青年だ。手に入る距離にいるなどこの上ない僥倖!  私は青年の手の甲に口付けを落とした。 「美しいお前が望むならば、仰せの通りに」  希望と絶望の狭間。  澄み渡る湖面に似た瞳が、揺れた。

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