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1.GISELLE -2

『ベネディクト、どうだね、僕の別荘は』  受話器の向こうのしわがれた声がいつもより少し弾んでいる。お気に入りのおもちゃを見せびらかす子どもと同じだ。 「ああ、最高だ。貸してくれて感謝する」 『いいとも。むしろ使ってくれてありがたい。手入れだけして、人を招くことが稀だからな。……して、件の青年は起きたかね? エンツォのやつが“可愛がっていた”という、世にも美しい青年というのは?』 「ついさっき起きたようだ。今から様子を見に行く。あれは私の戦利品ということで構わんのだろうな?」 『もちろん好きにやってくれ。お前がそこまで言う美貌は、一度拝みたいものだがね』  笑い声は上機嫌そのものだった。ご機嫌麗しくて何よりだ。寄越せだの殺せだのと言われずに済んだことは僥倖だった。この好々爺を気取る老翁と意見を対立させることは全くもって得にならない。  泣く子も黙る、イタリアン・マフィアの大ボス様だからだ。 「首尾よく行けば会わせるさ」 『楽しみにしていよう。……ああ、ベネディクト、それよりもお前が離れてしまうことの方が惜しいよ、僕は。まだ頼みたい仕事は山ほどあったのに』 「よしてくれ、もう目も満足に見えんのだ。老眼だ、歳だよ」 『お前から歳だなんて弱音を聞くとはね。まあしかし……、痛いほどに分かるね、それは。私ももう若い頃と同じようには動けん。嫌だな年齢というものは。残酷だ』  しみじみ言うものだから可笑しい。お前はまだまだ現役だろう、と返せば高らかな笑い声が聞こえた。あと五十年は生きそうな生気だ。結構なことである。 「……私は一足先に退くよ。一緒に仕事ができて、光栄だった」 『こちらの台詞だ。また何かあれば連絡を寄越してくれ。お前の面倒は死ぬまでみてやる。今までありがとう、友よ』  私の身には余るような言葉を送られた。  礼の言葉は少し気恥ずかしく、それは向こうも同じだったのか、程なくして私たちの通話は終わった。  青年をあの悪夢のような屋敷から連れ帰り、緊張の糸が切れて眠りに落ちた彼が再び目を覚ましたのは夜が一つ過ぎてからのことだった。  ベッドの上で、私が手渡した蜂蜜入りのホットミルクを一口飲んだ青年は、躊躇いがちな目をしながらも深々と頭を下げた。 「あ、ありがとう、ございました……本当に……」  美しい容姿通りの、澄んだ声音だった。今は少し掠れているのも良い。昨夜は鎮静剤を飲ませたからよく眠れたはずだ。頬は幾分か血色を取り戻していた。  両手足の枷は無事に外せた。手首にアザは残ったが。  首筋はまだ青い。 「名前は?」  私が声を発すると、青年は目を伏せる。怯えているようだ。 「……ジル。ジルベール」  名から察するにフランス系か。顔立ちも華やかだから、そうではないかと思っていた。 「歳は?」 「二十二」  若い。年齢よりも大人びた印象を受ける。既にその美が卓越して、完成されているように見えるからだろうか。この部屋に入ってからずっと青年、ジルベールの顔を眺めているが、まだ飽きない。  緊張はしているのだろうが、落ち着いているように見える。精神状態はさほど悪くないはず。 「状況はどこまで把握している?」  この問いに、ジルベールは数秒の時間を使って考えた。 「俺は、監禁……されてて、それをあなたが、……助けて、くれた」  助けて、と。その言葉だけは少し自信が無さそうに。  まだ私のことを信用し切ってはいない。しかし現状、私以外に縋る相手がいないのだ。薄氷の上にいる気分だろう。「たすけて」と私の手の平に書き付けた願いが、しかと聞き届けられたのだと、ただ信じる他ない。  不安を拭い去ってやらねばなるまい。 「ここがどこだか分かるか?」  ジルベールは首を横に振った。  ここはイタリア北部にある小さな田舎町である。そう教えると、ジルベールはそのクリアブルーの瞳を大きくして驚いた。聞けば、やはりフランスの出身で、パリに住んでいたというから移動距離は相当なものだ。英語の流暢さを指摘すると、一応は大学に通っていたからという答えが返った。  彼は私と言葉を交わしながら、躊躇いがちにゆっくりと部屋を見回していた。  高級ホテルのスイートルームほどありそうな広さ。壁にかかった大きな絵画。映画のセットみたいに洒落たバルコニー。キングサイズのベッド。どう見たって「普通」の部屋ではない。 「この屋敷が何か、と聞きたいんだろうが……。知らない方がいいかもしれないな」 「ど、ういう、意味ですか?」 「真っ当な人間の住処じゃない」 「それは……」  ジルベールは薄い唇で言い淀んで、それからこくりと唾を呑んだ。 「マフィア、とか……?」  真剣な顔をするものだから可笑しかった。若くて結構。 「その通りだ」 「えっ」  不安の色が濃くなるジルベールの顔はなおも美しい。  私は慣れないながら出来る限り「真っ当な人間」のような声で、そう怖がるな、と言ってみた。 「悪漢どもは不在だ。私とお前と、使用人が少しいるだけ」 「あなたはマフィアじゃない?」 「違う。まあ、似たような者だが」  もっとタチが悪いかもしれないが。  ジルベールは逡巡しているようだった。飲みかけのホットミルクに視線を落とし、きゅっと唇を引き結んだ後で、その温かく甘い飲み物をごくりと飲んだ。  それで、どうやら腹を決めたらしい。 「……あなたのことを、聞いてもいいですか?」  緊張で僅かに震える声だった。

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