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1.GISELLE -3

 私は自分について正確に描写しようと努めたが、どう言葉を尽くしても伝えられることは情けないほど少なかった。  ベネディクトという名。六十五という年齢。殺し屋という職業。アルファという性。それだけだ。私を縁取る情報の全て。伝え終えてしまってジルベールをじっと見つめると、ジルベールの方が困ったような顔をした。えっと、と愛らしく声が零される。 「あなたが俺を助けてくれたのは、どうして……?」  問いがあれば答えやすい。 「エンツォを殺したのは仕事だったからだ。ちょうどこの屋敷の主人からの依頼で。そこにお前がいた。目ぼしいものは持ち帰っていいという契約だったから、そうさせてもらった」  苦しそうな、痛そうな表情をするのは、殺人と名のつく行為に恐怖を覚えるからだろう。当然の感情ではあるが、ジルベールはそれを言葉にはしなかった。 「俺をどうするつもり?」  マグカップを包む細い指に力が入ったのが見えた。  さて、それが難しいところ。  私は椅子から立ち上がり、ジルベールのベッドの縁に座りなおした。近付いた距離にジルベールは分かりやすく肩を震わせる。私がその麗しい顔に手を伸ばせば、彼はぱっと視線を逸らしたが逃げることはなかった。  頬に触れた。若く滑らかな肌だ。 「どうされると思う?」  囁けば、ジルベールは自らの首筋に手をやった。 「……あなたは、俺を……、っ」  言葉尻は吐息に消えた。  その白い肌がじわりと赤くなる。耳の色の変化は顕著だ。  マグカップの中の水面が小刻みに震えだす。  様子がおかしい。 「ジルベール?」 「っ、はぁ、あ、今は……、今は何月、ですか……?」  ジルベールの呼吸が荒い。息苦しそうに喉に手を当てている。  私の鼻腔を、むせ返るほどに甘い匂いが襲った。  この感覚には覚えがある。 「今は十二月の一日だ。……まさか、ヒートかっ?」  ヒート。もっと動物的に言うなら「発情期」。オメガ性にのみ訪れるこの現象は女性の月経に似て、繁殖行為のための生理現象だ。ヒート中のオメガは他者を強制的に欲情させる特別なフェロモンを放出する。そしてその期間だけ、男女性に限らずオメガは妊娠することができるのだ。この特性ゆえにオメガ性は「出産のための性」と呼ばれ、低い身分に押し込められてきた歴史がある。  ヒート中は発情状態で日常生活にも支障をきたす上、フェロモンによって周囲の人間――特にアルファ性を狂わせる。  周期は約三ヶ月。 「ふぅ、は、っ、周期、過ぎてる」  ジルベールは白磁の肌を真っ赤に染め上げて、喘ぐように言った。  生活環境の変化などを起因とするストレスによる周期のズレ。よくあることだ。声も出なくなるような精神的苦痛を味わったこの青年ならば当然とも言える。しかし、今はまずい。  脳が溶け落ちそうなほどに強烈なフェロモン。視界が一瞬くらりと揺れて、心拍数が急激に増加する。自分の姿勢と理性を保つので精一杯だ。目の前の美しい青年を今すぐに押し倒してその首筋に食らいつきたい衝動が、私の中から皮膚を破って暴れ出そうとしているのが分かる。  ここにいては駄目だ。「ラット」――オメガのヒートに呼応するアルファの発情状態に陥ってしまう。 「っ、抑制剤を取ってくる。少し待て……」  この屋敷には常備薬として置いてあるはずだ。抑制剤を飲めばフェロモンは抑えられる。  私がこの部屋を出ようと腰を上げた時、強い力で袖を引かれた。  振り返れば、多量の発汗を起こしながらジルベールが私の袖を握りしめていた。 「ぁ、だめ、よく、よくせーざい、だめ……」  高熱を出しているように、喋り方ももう覚束ない。 「何故だ」 「くす、り、あわ、なくて……、きもちわる、く、なっちゃう、から……っ」  薬物アレルギーか、それはかなり厄介だ。  私は浮かしかけた腰を中途半端に止めて、思考にかかり始めた危ういモヤを払うように頭を振った。  獣に似た呻きが自分の喉から漏れる。 「どうすればいい……、いつもはどうしているんだ」  オメガのヒートは放置するのも得策ではない。神経が鋭敏になるヒート中は、些細な音や光でさえ強い刺激になってオメガの神経を攻撃する。しかも、たとえ暗く静かな部屋に隔離しても、触覚だけはどうにもならない。体質によっては肌に触れる服やシーツに苛まれて眠れない夜が続くと聞く。そして恐らく、ジルベールはその類だ。発汗と肌の紅潮が尋常ではない。  ジルベールはゆるゆると首を横に振った。何か呟いているようだが、声が小さくて聞こえない。  これ以上近付くのは良くないと理解しつつ、私はジルベールの声を聞くために顔を寄せた。 「何だ……っ」  襟が、ぐっと引かれる。  反応が遅れたのは、既に部屋中に蔓延するフェロモンのせい。  私を無理矢理引き寄せたジルベールが、私にキスをしていた。  柔らかい唇。少し汗の味。  私の心に火が点いた。  気が付けば私はジルベールをベッドに押し倒していた。うるさいのは自分の心臓の音と、切羽詰まった呼吸音。  澄んだ湖面だと思った瞳は、今は沼のように蕩けて私を見上げる。底なし沼だ、変わらない美しさと増す艶に誘われて踏み込めば永遠に捕らわれる。 「ん、はっ、ぁ、はや、く……、はやく、ほしい……っ」  悩ましく身を捩るこの青年は魔物だ。分かるのに。  求めずにはいられない。 「ナカに、ちょーだい、ぁ、ほしい、の、はやく、たすけて」 「クソ、この……、喋るな、その声で……!」  思考が溶ける。その汚された首筋から目が離せない。  ――ラットだ。あてられた。 「めちゃくちゃにして……っ」  その言葉で、理性の糸がぷつりと切れた。  今すぐに噛まなければ。これは私の番だ。私のものにして、望み通りに抱いてやるのだ。逃げることなど許さない、途中で乞われても止めてやるものか、快楽の底に突き落として、気絶するまで愛してやる。そうしてこの薄い腹を私の子種で満たしたい。孕ませるのだ、孕ませなければ!  ジルベールは無防備に首を晒していた。  後はそこに噛み付くだけ。私は牙を剥き出しにして。 「……っ、ああ、クソ!」  最後に残った理性の残滓を掻き集め、私はジルベールの首、ではなく自分の腕を噛んだ。  痛みが思考にかかったモヤを晴らしていく。  口いっぱいに血の味が広がった。  ジルベールは目を丸くして私を見ていた。  まだ何か喋ろうとしたから、空いている片手でジルベールの口を塞いだ。これ以上乱されればもう歯止めがきかない。苦しそうに身を捩っていたが見えないフリをして、私は何とか呼吸を整えた。  腕から口を離すとそれなりに流血していた。痛覚にも視覚にもちょうどいい。ジルベールの魔力から逃れて立ち上がることにも成功する。ちらりと見下ろせば不安そうな顔が目に入ったが、今、私が早急に行うべきことは「慰めて」やることではない。 「ここで、大人しく、していろ。すぐ戻る」  私はジルベールをベッドに残し、今度こそ部屋を出た。

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