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1.GISELLE -7

 ベネディクトは自分のことを「ベネット」と呼ぶように言った。愛称としては珍しい響きだけれど、本人が言うのだから反抗する意味もない。それでも好奇心から理由を尋ねてみると、ちょっと口の端を持ち上げて「簡単な偽名だ」と答えてくれた。  物騒な人に物騒な屋敷。それを忘れてしまうほど、この人は優しく、この場所は静かだ。  俺はどこかのお嬢様のように丁寧に扱われ、ベネディクトが呼んだ医者に一度だけ診てもらった。ベネディクトが俺に使ったという睡眠薬の副作用はなかった。ヒートは昔から理不尽に重い。薬を飲むとアレルギー反応を起こして余計に苦しむのも昔から。医者は鎮静剤と睡眠薬を俺にくれたけれど、これは最良の処置ではないからね、と念を押した。分かってる、ヒートの症状を抑える最良の手は、……アルファを受け入れること。医者が帰った後、ベネディクトは俺の身体が健康であることに対して安堵の言葉を発しただけだった。  それから、彼が新しくくれたものが、二つ。  一つは首輪だ。新品の、しかもオメガなら誰もが知っているブランド品。軽くて肌触りが良くて頑丈、おまけにデザイン性も抜群で、若者の服装によく馴染むように作られている。 「……高かったでしょう、これ」 「いいや、大した金額じゃなかった」  嘘。お店ではガラスのショーケースに入ってるやつだもの。高かったに決まってる。  番でもないオメガに大金を使うのは道楽か、それとも。  そしてもう一つは――パスポートだった。  いわゆる偽造パスポート。 「生年月日と住所を覚えなおしてくれ。ボロが出ないように」  何でもないことみたいに言う。俺は手の中にある違法な代物に少し緊張しながら、そこに記載された情報に目を通した。と言ってもこのパスポートを作ることは既に了承済みで、偽の生年月日も住所も事前に打ち合わせた通りのものだ。国籍もフランスから、彼に合わせてUKに変わった。  名前も。 「“ジゼル・ロレンス”……」 「美しいお前によく似合う名だ」 「ロレンスはあなたの姓、でしたよね」 「偽名の。私は“ベネット・ロレンス”。まだ番ではないが夫婦、という設定を忘れないでくれ。連れ立って歩くにはこれが最善」  それも、了承したことだ。 「ちなみに、本名はなんていうんですか?」  彼は優しく微笑んだ。 「ベネディクトが本名だ。姓は知らない。孤児だったから」  アルファとは産まれた瞬間から全てにおいて恵まれた優等種である。そんな常識をこの人は一言で覆す。年齢を感じさせない美しい立ち姿、その広い背中に、背負うものを想像すると恐ろしい。それなのに、俺の表情の曇りには敏感に気付いて、お前が気にすることじゃないよと気遣うように頭を撫でてくれる。  俺はこの奇妙なアルファと行くことに決めた。 「お前は良かったのか? その名で」  そのために、俺は「ジゼル」に生まれ変わる。 「ネット上では今までも名乗っていたし、違和感は無いです。……アルファに改名させられるオメガは多い。多分、こっちの方が自然に見えると思います」  支配欲はアルファの特性。番にした相手を自分好みの名に変える行為は許可されているが故に横行している。俺とベネディクトの間にはかなりの年齢差があるから、ベネディクトが無理矢理俺を番にしようとしている、という立ち位置の方が怪しまれずに済むだろう。男性オメガに女性名を付けるのはもはや娯楽やステータスの一種だから。俺たちの関係もそう見えるように。 「ネット上、ね。時代だな」 「疎いですか?」 「仕事で使う以外は触らない」  会話だけ聞けば普通なんだけど。  ベネディクトは話しながら準備していたものを、俺の前に置いた。  大きな旅行鞄だ。 「さあ、必要なものは全て詰めた。この鞄には違法な代物は何も入っていないから、堂々としていると良い。重いが、持てるか?」 「持てます、あの、俺も男なので……」 「ああ、それは失敬。お前があまりにも美しいから、花の妖精か何かに見えているんだ」 「……お世辞がお上手で」 「本心だよ。恋心を抱いた相手には最大限口を軽くしろと言われている。この屋敷のオーナー様に」  つまりはマフィア。殺し屋がマフィアに恋愛指南をされているなんて、本当にエンタメ映画の中みたいな話だ。  ベネディクトは楽しそうに見える。俺も、この数日でかなり気分は軽くなった。  俺たちが目指すのはイングランド南部。  民家もまばらな片田舎に、一軒の空き家を買ったらしい。  曰く、電気と水道は通っている。家の躯体の補強も済んでいる。家具は無く、庭は手付かず。生活するにはかなりの掃除を要するそうだ。俺たちは無事にそこまで辿り着いた後、車中泊をしながら家を一つ整えなければならない。 「それがあなたの夢、なんですよね」 「そう。誰の邪魔も入らない小さな世界で暮らしてみたい」  奇妙な老人の夢を叶えるため、偽造されたパスポート携えて。  俺は新しい首輪に守られた首にそっと手を当ててみた。まだ番にはされていない。つまり、また三ヶ月後には発情期が襲いかかってくる。ベネディクトはその時どうするだろう。今度こそ噛まれてしまうだろうか。そうなったらどうしよう。いいや、そもそも俺はベネディクトに助けられたのだから、受け入れなければならないだろうか。  先が見えない道は不安だ。時折陥るこの感情を、ベネディクトは本当に正しく気付いてくれる。いつの間にか傍に来ていた彼は優しく俺の首輪に触れた。 「気が変わったら早めに言ってくれ。私がまだお前を手放せるうちに」 「……不安なら噛めば良いのに」 「言っただろう、肉欲だけの関係は望まん。お前が私と人生を共にする気になれば、すぐに噛むがね」  人生を共にする。その言葉に少しどきりとした。そう、番になるというのはそういうこと。自分の一生を捧げること。子作りの道具、アルファの装飾品、最悪の場合は性奴隷。だけどベネディクトが言う「番」はそのどれとも違うようだ。  彼は、きっと。 「ああ、いや……、噛む前に指輪が必要かな」  不意に左手を取られて俺は飛び上がりそうなほど驚いた。薬指に彼が触れている。  彼はきっと、「夫婦」の意味で言っている。  こんなに真っ直ぐ口説かれたことなどないから緊張してしまう。ベネディクトの本気が分かるから余計に。俺は気恥ずかしくて彼の顔が見れなかった。自分の薬指に目をやって、そのまま床へ視線を落とす。それをベネディクトがどう捉えたかは分からないが、小さく笑われただけだった。 「まあ、今はついて来てくれるだけで嬉しい」  悪人には似つかわしくない優しい声で。 「改めてよろしく、――ジゼル」  彼が呼ぶのは新しい名前。俺は自分に言い聞かせるため、「はい」と声に出しながら頷いた。  アルファに支配されるばかりの人生を呪った「ジルベール」にはさよならを告げよう。違う人生を歩める機会なんて、もう無いのだから。  俺は生まれ変わる。  「ジゼル」に。

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