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1.GISELLE -6
「……ッ」
言葉にされると息が詰まる。
この緊張を彼は、ベネディクトは軽く笑った。
「だが、それだけで手に入る『番』など味気ないだろう? マーキングなら畜生にもできる。肉欲だけの関係は望まん。私はお前の身も心も欲しい。……その純白の薬指に、一世一代の誓い立てをしたい」
「……もしかして口説いてますか?」
「はは、伝わったようで何よりだ」
口の達者なイタリア男の受け売りでね、とベネディクトは肩をすくめた。
俺は早まる鼓動の意味を考える。
ヒートは終わったけれど、きっとまだ名残があるのだ。アルファの近くにいるから反応しているだけ。フェロモンのせい。もしくは単なる吊橋効果。だってこの人は殺し屋だと言っていた。悪い人間じゃないか。怖い人だ。助けてもらった恩はあるけれど、長く一緒にいるべきじゃない。
何とか逃げた方がいい。
……どこに?
帰る家も無いのに。
「……噛んで」
「ん?」
「噛んで番にしてくれた方が良かったです」
ついそんなことを口走った。急激に気分が落ち込んでいく。
言わない方が良い言葉たちが吐き気のように迫り上げてくる。苦しかった。吐き出したかった。八つ当たりみたいに。
「だって、どうしろって言うんですか。俺はここがどこかも分からない。助けてもらったお礼もできない。この身体しかないんですよ。それなのに、同意だなんて、そうやって、選択肢を与えられてるみたいで、実際は俺に選択権なんてないんだ。それなら俺に選ばせるなんて酷い、酷いです。俺は今あなたに縋るしかないのに、他にないのに、お前が選んだんだろって、そんなの、……ごめんなさい。あなたは悪くない。ごめんなさい……」
みっともない、泣きそうになって。優しいかもしれない彼を罵って。
――お前が悪いんだよ、愚かなオメガ。
夢が蘇る。ああ、本当に、分かってるよ、そんなこと。
今すぐに追い出されて当然の暴言だった。
ベネディクトが、小さく溜め息を吐くのが聞こえた。
「悪かった」
思いがけない言葉だった。
俺は慌てて顔を上げる。ベネディクトは哀愁を秘めた優しい瞳で俺を見つめて、窺うようにゆっくりと、俺の手をそっと握った。
年齢を感じさせる皺の数と、乾いた肌。熱い皮膚は心地よい熱を帯びていた。
「実を言うとお前の素性はあらかた調べた。両親が存命だったから、家に帰る気になるかと思ったんだ。それでもいい、望むなら、私は諦める」
この人の真意が分からない。
俺は何も言えなかった。
家に帰りたくないのは、俺のわがまま。だけど死んでも帰りたくない。帰れない。
途方に暮れてしまう。
「まあ、諦め切れるかどうかは分からんがね」
「……それならなおさら、番になれと命令すればいいじゃないですか。それだけで俺の全部があなたの所有物です」
「そんなことはない。……いや、そうか、私がアルファだからか」
ベネディクトは即座に否定したけれど、その後で考え込むように低く唸った。眉間に皺が寄ると、やっぱり恐ろしく見える顔立ちだった。怖くてまた口をつぐむ。
少しの後、ベネディクトはひょいと肩を竦めた。
「アルファという性が不利なカードになるとはな。まずは何よりも、お前の信用を得なければなるまいな?」
同意だとか信用だとか、本当にアルファらしくない人だ。
「私の話を始めると、まあ信用を失うことばかりだが……。正直に言うが私は約半世紀、人を殺して金を得てきた人間だ。ろくでなし共が雁首揃えて泥を塗り合う最低な世界。命を金で勘定するマフィアが唯一生涯の友になるような人生だった。酷いだろう?」
「……映画の話を聞いているみたいで、何とも……」
「清廉で結構。私は幸か不幸か悪人の才能があったようで、五体満足のまま今日まで来たが、流石にこの歳になると限界でね。それで、先日めでたく殺し屋稼業は引退した。お前を苛んだエンツォを殺して」
ベネディクトは、まるで御伽噺を語るような調子で言葉を重ねていく。淡々としているのに、すっと頭に入ってくる。これもアルファの力だろうか。恐ろしく物騒な話をされているというのに耳を傾けるのが心地良い。ずっと聞いていても良いと思えるような。
ヒートが終わったばかりの、不安定な心が落ち着いていく。
「……続けてください」
「ありがとう。歳を食う前にどこかで野垂れ死ぬだろうと思っていたんだが、実際は往生際悪く生き残ってしまったわけだ。すると不思議なことに、こんなろくでなしの老人にも余生に託す夢というものができた。……引退して、今までできなかった、穏やかな暮らしというものがしたくなった」
そう言う瞳は確かに穏やかに凪いでいた。
「看取ってくれとは言わないが、せめて平凡な思い出がほしい」
「それが番を作ること?」
「番じゃなくていい。傍にいてくれるなら、何でも」
変なところで投げ捨てるようなことを言う。
だけど、何となく腑に落ちてしまった。この人は他のアルファと明らかに違う。オメガ性に対して特別な感情を持ち合わせていないし、番という関係に価値を見出してもいない。自分がアルファ性であることにだって無感動なんだろう。
きっとこの人は、アルファでもオメガでも、男でも女に生まれたって、同じように生きる。
羨ましかった。
俺はずっと、「オメガ」として生きてきたから。
アルファに縋って媚びへつらう人生に絶望していたけれど、この奇妙なアルファを選べば、何か変わるだろうか。
「……傍にいる、だけでいいなら」
そう呟けば、ベネディクトの静かな瞳に淡く期待の色が浮かぶのが分かった。
なるようになれ。
「俺で良ければ、連れて行ってください」
運命を動かす言葉だったと思う。
ベネディクトは一瞬驚いた顔をして、その後で。
「ああ、お前が良い」
とびきり甘く、蕩けるような笑みを見せた。
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