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1.GISELLE -5
いくつも悪夢を見た気がする。怖かったり無茶苦茶だったり嫌な思い出だったり苦しかったり。助けてって何度も叫んで、泣いて、だけどその度に温かな風が俺の頬を撫でてくれた。涙は優しく拭われて、痛いほど高鳴った心臓は穏やかな速度を取り戻す。それを何度繰り返したことだろう。悪夢がだんだんと薄れて、最後に見たのは実家の自分の部屋だった。俺はベッドの上に座っている。窓の外には夜空が見える。机の上に置いたパソコンが起動している。画面を覗くと真っ白な背景にカーソルが点滅しているのが見えた。
キーボードが一人でに動き出す。
『お前が悪いんだよ、愚かなオメガ』
違う。俺は思わず叫ぶ。キーボードは止まらない。
『違わない。お前が悪い。お前が余計なことをした。迂闊なことをした。被害者ヅラをするなよ、偽善者。大人しく生きていれば良かったんだ。どうせオメガに生まれたならば、アルファの子を産む以外に生きる意味などないのだから』
違う、違う、絶対に違う。オメガはそんな生き物じゃない。もっと違う生き方を選んでも良い。選べるはずだ。俺たちだって人間として生きている。
『人間? ああ、滑稽だ。お前だって分かっているんだろう?』
うるさい、黙れ、見たくない、聞きたくない。
『駄々を捏ねるな。お前が生きる世界は汚くて残酷で、幸せになるには誰かに支配されるしかないんだ。一生アルファ様に跪くしかないんだよ。さあ、目を開けてみろ、馬鹿なジゼル』
俺はパソコンの電源を切ろうと思い立った。だけどどれだけ探しても、それらしいスイッチが見当たらない。
『現実を見ろよ! お前は子を産む道具だ。せめて丁寧に使われることだけが幸福だ!』
うるさい、そんなこと。
「分かってるよ!」
その言葉だけが何故だかはっきりと声に出た。視界が滲む。涙が溢れる。
優しい風がまた、俺を包んだ。
目を開けると知らない老人に見下ろされていた。
いや、知っている。記憶がまだ覚束無いけれど、この人は確か……俺を助けてくれた人。
「随分とうなされていたな」
低く落ち着いた声が、さっきの風によく似ていた。
「大丈夫か?」
俺はまた泣きそうになった。彼から伝わる静けさが何よりも俺の心を守った。俺が目を潤ませたことに気付いたのか、老人は驚いた顔をした。
「どうした」
「や……、ごめんなさい、大丈夫です……」
「大丈夫という顔はしていないな。顔色は悪くなさそうだが……、気分が悪いか? 強力な薬を使ったからな。思ったより効果も出たようだし」
「薬?」
何の話だろう。眠りにつく前の記憶がまるでない。何だか苦しかったような気もするけれど。俺は思い出そうと頭を回した。覚えているのは、俺が監禁されていたところをこの人が助けてくれたこと。殺し屋で、アルファで、名前は、……ベネディクト。
「覚えていないか? お前がヒートで自我を喪失したから、睡眠薬を飲ませて眠らせたんだ」
「ヒート……っ」
俺は言葉を失った。そうだ、そうだった。
よりにもよってアルファの前でヒートを起こすなんて。俺は咄嗟に自分の首に手をやった。そこで初めて、自分の首に分厚い首輪が装着されていることに気が付いた。
「あれ……?」
「新品じゃなくて悪いが、取り敢えず嵌めさせてもらった。……お前、煙草は吸うか?」
反応できたのは最後の問いに対してだけだった。俺は反射的に首を横に振る。彼は――ベネディクトは片眉をちょっと上げると、立ち上がって窓辺へ移動した。
懐から取り出したのは煙草。慣れた手つきで火を点けて、少し開けた窓の外へ煙を吐く。
それがあまりにも絵になるものだから、俺は束の間、考えることもやめてしまった。白い髪を後ろに撫で付けたスタイルは映画スターの正装みたいだ。前髪が一房だけ垂れているのも、何というか、色っぽい。蓄えた髭は手入れされているのが分かるし、清潔感もある。
アルファの風格だ。どれだけ憎くても目を奪われる。あるいは眩しすぎて目を逸らす。太陽のような輝き。
彼が纏うのは、夜のにおいだけれど。
俺はだんだんと目覚めていく頭で、自分が晒した痴態も鮮明に思い出してしまった。恥ずかしくて汗が出る。顔が熱い。
「あの……お見苦しいところを……」
やっとの思いでそれだけ言って、苦し紛れに頭を下げた。彼の顔が見られない。
すると、小さな笑い声が聞こえた。
「たいそう愛らしかったがね。食えない据え膳だった。次は素面の時にお願いしたい」
恐る恐る顔を上げると、彼は俺を見て微笑んでいた。
大人の男としての格好良さにくらりとくる。彼の一挙手一投足、紡がれる言葉も全て、映画の中にいるみたい。
不思議なことがいくつもある。
「……俺はあなたに抱かれたんですか?」
「無実だ、指一本挿れてない。キスはしたが不可抗力だ」
「そ、それだけ? 番にもされてないし……」
「もちろん、同意がなかったから」
「どうい」
俺が知っている単語と、同じ響きで違う意味を持つ言葉かと思った。
アルファがオメガに同意を求める?
「おかしいかね?」
「ええ、とっても……」
常に社会の上層に席が用意されているアルファにとって、発情するしか能のないオメガは道具か玩具程度の扱いで事足りる。それが一般的な価値観だ。発情期のせいで就労もままならないオメガは結局、誰かに依存して生きていく他ない。アルファの番として必要とされてやっと存在意義を見出される。たとえ愛し合って番になったとしてもその部分は変わらない。
幼い子どもでも知っている序列。
オメガはアルファに逆らえない。
番を選ぶのはいつだってアルファだ。そこにオメガの意思が介在することなんて。考えるだけでも鉛を飲み下したような気分になる。女性の社会進出が目覚ましい昨今において、なお取り残される惨めな性。
「煙草のにおいは嫌いか?」
押し黙る俺に、彼が放ったのはそんな言葉だった。
「えっ、い、いいえ……、気にしませんけど……」
「そうか。それじゃあ、近くで話そう」
まだ長い煙草を携帯灰皿に押し付けて、彼はまた悠然と立ち上がる。歩み寄られることに少しの恐怖を感じないでもないが、俺は大人しく待った。
彼がベッドの縁に腰かけ、俺の顔を覗き込む。
「美しいお前、今すぐにでもその首を噛んでやりたい」
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