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【部下の愛が重すぎる件】
空を渡る飛行機の微かな音が聞こえ、篠宮 正弓 は顔を上げた。
窓の外にビルの一群が見える。その上には、雲ひとつない秋晴れの空。青く澄んだ空気の中を、白い機体が悠々と横切っていく。
そういえば、先々月に我が社で輸入することが決まった、あのワインの入荷日はいつだったか。無事に入ってきたら、また販促で忙しくなるだろう。今から根回ししておいたほうが良いかもしれない。
誰もが名前を知る、国内有数の大手飲料メーカー。篠宮はその営業部で働いていた。営業など自分には向いていないと思いながらも、与えられた仕事には堅実に取り組み続けて、もう三年目になる。
パソコンから視線を外し、篠宮はすぐそばのタブレットを手に取った。暗い画面に、一瞬だけ自分の顔が映る。絵に描いたような仏頂面だ。
整っていると言われることもあるが、だからといって女性にもてた記憶もない。冷たそう。真面目すぎる。融通が利かない。物心ついた頃からそんなふうに言われ続けて、自分ではどうにもできないまま今に至る。
入社の際、篠宮自身はもっと地味な部署を希望していた。会社によって差はあるかもしれないが、本社営業部といえば、たいていの所では花形部署に入るだろう。仕入れや生産、マーケティングなどすべての業務を把握しなければできない仕事であり、それと同時に一番の出世が見込める所でもある。
普通に考えたら、こんな無愛想な自分が営業などできるわけがない。だが海外の顧客には、このいかにも日本人らしい生真面目さがかえって好評のようで、取引の際は「ぜひミスター・シノミヤに」と指名を受けるまでになっていた。大口の契約も何件かあり、おかげで営業成績は常に上位を維持している。二十五歳という若さで主任の地位を得られたのも、その点を評価されてのことだった。
「篠宮くん」
背後から涼やかな女性の声がした。
振り向くと、見慣れたポニーテールが眼に入る。この営業部始まって以来の才媛と名高い天野係長だ。
目鼻立ちのはっきりとした美人で、二十代前半にも見える。だが本人が『あたしももうアラサーだからさあ』と言っているところをみると、おそらく三十前後なのだろう。篠宮にとっては直属の上司にあたる。
「後でちょっと時間取れる?」
唐突にそう問われて、篠宮はパソコンとタブレットの画面を見較べた。午後は手元の資料をまとめてから、得意先に顔を出してこようと思っていたが、特に約束をしていたわけではない。
「この報告書をまとめるのに、三十分ほどかかりますが……後は急ぎの仕事はありません。なんでしょうか」
「部長が面談したいんだって。十四時、応接室で。いいかな?」
「……はい。大丈夫です」
冷静を装って応えながら、篠宮は内心少し動揺した。いきなり面談とはなんだろうか。呼び出される心当たりはない。
仕事にミスはないはずだ。問題があるとすれば、周りとのコミュニケーションについてだろうか。だがいくら自分が無愛想といっても、挨拶くらいはきちんとしているし、仕事に関することなら仲間と連携も取れているはずだ。
上司である天野係長は女性らしい細やかさの持ち主で、無口で誤解されやすい自分を理解し、巧みなフォローで周りとの仲を取り持ってくれている。彼女のおかげで篠宮は『職場で浮きまくりな人』から『愛想は悪いけど仕事はできる人』として、なんとかこの営業部に溶け込んでいられた。
あるいは、その天野係長に関することかもしれない。彼女は頭の回転が速く、相談ごとに関してはすぐに的確な答えを返してくれる。篠宮はその点を信頼していて、何かあると天野係長にアドバイスを求めることが多かった。
彼女は美人だし、魅力的な女性といって差し支えないと思う。だが自分が彼女に抱いているのは尊敬の念であり、決して恋愛感情ではない。部下の一人として、節度を守って接しているつもりだ。誤解されるようなことは何もしていない。
結局のところ、これという理由は思い当たらない。頭をめぐらせてそのことを再確認すると、篠宮は諦めて覚悟を決めた。
考えても仕方ない。とにかく、この報告書を早く仕上げてしまおう。タブレットの文字に眼を走らせてから、彼は顔を上げてパソコンのキーを打ち始めた。
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