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教育係

 応接室の前で深呼吸し、篠宮は右手を上げて扉を叩いた。 「どうぞ」  中から返事が聞こえる。そっとノブを回し、彼は室内へ足を踏み入れた。 「悪いね、忙しいところ」  ソファに腰掛けていた営業部長が、篠宮の姿を見て立ち上がる。その様子を見て篠宮はひとまず安心した。とりあえず、叱責を受けるような事ではなさそうだ。 「お話とはなんでしょうか」  だが、まだ油断はできない。緊張したような篠宮の声を聞くと、部長は安心させるように相好を崩した。 「いやいや。面談とか面接とか、そんな堅苦しいアレじゃないんだ。ちょっと頼みがあってね。まあ座ってくれ」  勧められるまま、篠宮は向かいの長椅子に腰掛けた。見るからに高級そうな革張りのソファは、さすがに座り心地が良い。  部屋の隅のサイドボードには、歴代のヒット商品のサンプルがさりげなく飾ってある。ちらりとそちらに眼をやってから、部長はおもむろに口を開いた。 「実は君に、今度入ってくる新人の教育係を頼みたい」 「……この時期に新人ですか?」  思わず疑問が口をついて出る。今は十月だ。一般的に言えば、新卒の社員が入ってくる季節ではない。 「留学していたんだが、このたびめでたく卒業して、我が社に就職することになったんだ」  部長が続けて説明する。ああ、と篠宮は心の中でうなずいた。海外の大学であれば、卒業の時期が日本と違って様々なのも納得がいく。 「それは解りましたが、教育係ということでしたら、他にも適任者はいると思います。なぜ私が選ばれたんでしょうか。私はどちらかというと、初心者に説明や指導を行うのは、あまり得意ではないのですが」 「何を言っているんだ。君の説明は丁寧で解りやすいと、お客様からもお褒めの言葉をたくさんいただいているぞ」 「それはマニュアルがあって、お客様のほうもある程度の知識をお持ちだからです。新入社員に一から仕事を教えるのとは訳が違います」  篠宮がやや早口にまくしたてると、部長は笑いながら手を振った。 「まあまあ、話は最後まで聞いてくれ。わざわざ君を選んで呼び出したのには理由があるんだよ。後になっていろいろ詮索されるのも困るから、先に言っておくが……実はその新人というのは、社長のご子息なんだ」 「社長の?」 「ああ。二十三になったばかりだというから、君よりふたつ年下になるな」  その言葉を聞いて、篠宮は心の中で首を傾げた。社長の息子とは、なにかのイベントの時に会った記憶がある。歳はたしか三十を少し過ぎているはずだ。  今は取引先の会社に出向し、いずれは幹部の一人として戻ってくる予定だと聞いている。留学などという話は耳に入ってきていない。だとすれば、自分が知っているあの人物ではなく、別の人間のことを言っていると考えるべきだろう。 「社長のお子様はお一人のはずでは……? ご兄弟がいらっしゃるなんて、初耳ですが」  恐る恐る篠宮が尋ねると、部長は意味ありげに声をひそめた。 「まあそれが……大きな声で言うのもなんだが、内縁の子でな」  要するに愛人の子か。篠宮は思わず肩をすくめた。よくある話だ。まあ、社長はかなり前に妻を亡くして独り身のはずだ。過去はどうだったか知らないが、いま現在の話でいえば、不倫というわけでもない。 「お相手の女性の希望で、十年ほど前から海外で暮らしていたそうだ。だが奥様が亡くなってもうだいぶ経つだろう。ご結婚についてはまだ決まっていないようだが、とりあえずのところはこっちに戻って暮らすことになったらしい。先日社長と会食した際に紹介されたんだが、なかなかの好青年だ。ゆくゆくは事業の一部を任せるつもりでいるのかもしれないな」  話を聞きながら、篠宮は心が暗く沈んでいくのを感じた。なんだか面倒な話になってきたではないか。これならば、もっと売上を伸ばせと怒られたほうがまだましだった。 「お話は解りました。だとすればなおさら、他のかたにお願いしたほうが良いのではないでしょうか。社長のご子息を教育するなど、私には僭越に感じます」 「そう言わずに引き受けてくれ。なにせ社長が、是非とも君にとおっしゃっていてね」 「社長が、私にですか? ……なぜでしょうか。この私が、社長のお目に留まるほどの働きをした覚えはないのですが」  結局、引き受けざるをえないことになるのだろうな。そんな予感を抱きつつ、なんとか最後の抵抗を試みる。篠宮の言葉を聞くと、部長は愛想笑いを浮かべながら話を続けた。篠宮が予想していたとおりの返事だ。 「それはまあ……例の『伝説のスピーチ』によるところが大きいだろうな」  やはりそうか。思っていたのと一語一句違わない答えを聞いて、篠宮は肩を落とした。誰が言い出したのか、この『伝説の』という言葉を耳にすると、恥ずかしくて仕方がない。 「あの……その伝説のなんとかという言い方は、いいかげんやめていただけないでしょうか。聞くたびに居たたまれない気持ちになります。私は普通に、与えられた仕事をしただけなんですから」 「そう謙遜するな。大勢の聴衆の前で、あれだけ堂々としていられるとは大したもんだぞ。私も面目が潰れずに済んだ」 「はあ……」  篠宮は溜め息とも返事ともつかない声を出した。脳裏に、あの時の出来事が蘇る。  もう半年以上前の話になるが、篠宮は米国で行なわれたイベントで、自社の企業理念と、営業の果たす役割についてスピーチを述べたことがあった。  当時まだ入社二年目だった篠宮が、なぜそんな大役を押し付けられたのか。それは開催二日前になって、部長次長クラスが軒並みインフルエンザで倒れたせいだった。頼みの綱は天野係長だったが『あたしドイツ語とフランス語と中国語は得意だけど、英語は苦手なのよ! 知ってるでしょ!』と言われ、篠宮にお鉢が回ってきたというわけだ。  結果としてはまあ大成功といっても良く、ビジネス関連の雑誌にも掲載された。篠宮のスピーチに感銘を受けたと言って、国内外から優秀な人材が多く入ってきたとも聞く。  だが、別に自分の手柄ではない。部長が作った原稿をそのまま読み上げただけだし、他の参加者にたまたま年配の人が多かったから、若い自分が目立って見えただけだ。 「新人を育てるのは先輩の務めだ。この先、管理職としてやっていく上で大事なことだぞ」  得意げに語る部長の言葉を、篠宮はうんざりしながら聞き流した。そもそも自分には、出世欲などというものはほとんどない。生活に困りさえしなければ、一生平社員でもかまわないと思っているのだが、ここでそんな話をしても仕方がない。 「社長のご子息といえども、営業部に入ればただの一社員だ。社長におもねって、息子である彼に甘い顔をしたり、変に媚びたりするようでは話にならない。また事情が事情だから、社長のご家庭のことを軽々しく口にしてもらっても困る。この件は、課長にも係長にも話していない。君という人間を見込んでお願いしているんだ、内密に頼みたい。君なら他言することもないだろうし……それに、君は英語が堪能だから、ここでコンビを組んでおけば何かと都合がいいと思っているんだ」  滔々と流れていく言葉を聞きながら、さすが叩き上げの営業だと、篠宮はこの状況を一瞬忘れて感心した。話に淀みがない。  部長の言葉にも一理はある。たしかに、社長の息子が身近にいるとなれば、うまく取り入って出世のために利用しようとする者もいるだろう。口の軽い人間では困るというのも理解できる。 「来週から来る予定だ。ひとつよろしく頼みたい」 「……解りました。私に務まるかどうか解りませんが、できる限りのことはいたします」  とても断れる雰囲気ではない。最後には根負けして、篠宮は渋々首を縦に振った。

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