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愛される資格

 廊下の突き当たりに位置するその部屋は、篠宮が今まで見たこともないほど豪華なものだった。  高貴な姫君が使うような、ゴブラン織りの寝椅子と白いテーブルがまず眼を引く。窓際には扉のついたシャワー室らしきものがあり、すぐ隣には金の縁取りの付いたバスタブが備え付けてあった。部屋の奥にあるベッドは当然のごとく、豪奢なレースの天蓋付きだ。  白い戸棚の中には、花と小鳥を描いた絵皿や小さなガラス細工などが品良く飾られている。装飾的ではあるものの、決して成金趣味ではない。ホテルのスイートのような続き部屋でこそないが、文句なしに最高の部屋だ。  ひと渡り部屋を見回した篠宮は、振り返ってドアノブに眼を向けた。両面シリンダー錠と呼ばれる、内側と外側のいずれからも鍵で開け閉めするタイプの扉だ。  そういえば、引き出しの中に鍵があると言われていた。橘が話していたことを思い出し、篠宮はこれまたアンティークの品らしい書き物机に歩み寄った。  細かな彫刻が施された引き出しを開け、中から小さな鍵を取り出す。再びドアの前まで戻り、篠宮は鍵穴に鍵を差し込んだ。  少し錆が出ているせいか、鍵を回す時にやや引っかかるような感じもする。だが、取り立てて言うほどの問題でもない。古い屋敷とはいえ、手入れは行き届いているようだ。  今さら帰るとは言えないのだから、諦めて明日の朝まではおとなしくこの屋敷で過ごそう。気を落ち着けて覚悟を決め、篠宮は次の行動に移ろうと考えをめぐらせた。  夕食が始まるまでにはまだ余裕がある。とりあえずシャワーでも浴びさせてもらうか。そう思いながら、篠宮はシャツのボタンに手を掛けた。タオルはバスタブの近くに置いてあったが、脱衣かごのような物は見当たらない。こんな部屋を使うような貴族のお嬢様は、部屋中に服を脱ぎ散らかしてもすぐに侍女が回収してくれて、自分で洗濯物を管理する必要など無いのだろう。  脱いだ服を仕方なく寝椅子の上へ置き、足早に浴室へと向かう。部屋の中に誰かがいるような気がしたのはその時だった。 「……鏡か」  驚いて立ちすくんだものの、すぐにそれが、大きな姿見が近くにあったせいだと気づく。人が動いたと思ったのは、鏡に映った自分の姿だったらしい。  ほっと安堵の息をついてから、篠宮はなんとなく背中を映して自らの姿を確認した。よく見知っているはずの自分の身体が、どこか見慣れない、まるで赤の他人のもののように見える。  綺麗だ綺麗だと、結城はいつも口を極めてこの身体を褒めそやしている。だがよく考えてみると、篠宮がこうしてしみじみと自分の全身を見たことは、ほぼ皆無といってよかった。  心なしかくびれが目立つようになった腰に、篠宮はそっと指を這わせた。自分では大して魅力的とも思えないが、結城がこの身体をいたく気に入って、宝物のように大切にしていることは確かだ。  もしかしたら、今夜。この身体は、彼に愛される資格を永久に失ってしまうかもしれない。絶望的ともいえる考えが唐突に胸をよぎり、篠宮は切なさに身を引き絞られるような思いがした。  結城のそばに居たい。そう思うと同時に、彼から離れなければいけないとも思う。思いきり甘やかしてほしいと思いながらも、それとは逆に、彼には頼らず自立していたいとも思う。彼に深く愛されたいと思い、嫌われてしまいたいとも思う。  整理しようのない胸の内を持て余し、篠宮は深々と溜め息をついた。いくつもの感情が複雑に交錯し、自分でもどうしたいのか解らない。結城を好きだという想いと、彼を失う苦しみを知りたくないという思い。そのふたつが同じ強さで反発しあっている限り、いくら考えたところで答えなど出ない。  もし今夜、橘に身体を求められたとしたら、自分はどう振る舞うだろうか。後先考えず突き飛ばしてしまうかもしれないし、案外あっさりと身を任せるかもしれない。実際にその時になってみなければ、自分ですら自らの行動の予測がつかなかった。  とにかく、今はさっさとシャワーを浴びてしまおう。そう思って再び歩きだそうとした篠宮は、鏡の中に、何かきらりと光る物が映るのを見た。  一糸まとわぬ裸の中で、薬指に嵌めた指輪だけが静かにきらめいている。そのことに気がつき、篠宮は鏡から眼を離して自らの薬指を見つめた。  変わらぬ愛の証にと、結城が自分にくれた大切な品。指輪にまつわる記憶が次々と脳裏に甦り、篠宮は万感の想いを込めて、半分になったハートの模様を指先でたどった。  結城を想う気持ちに変わりはない。これほど彼を愛しているのに、わざわざこんな屋敷まで来て他の男と二人きりで過ごしているなんて、自分はきっと頭がおかしいのだろう。  くちびるを噛み締め、篠宮は自らの薬指に改めて眼を向けた。これと対になるもうひとつの指輪を、結城はもちろん片時も離さず身に着けていることだろう。自分には最高の恋人がいるのだと、誰彼かまわず自慢しているに違いない。 「ふ……」  押し殺したような溜め息が洩れる。しばらく思い悩んだ末に、篠宮は指輪を外して傍らのテーブルの上に置いた。

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