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白皙の美青年

 二十分の間、じっと動かずにポーズをとり、十分間休憩する。それを幾度繰り返しただろうか。  やけに手許が薄暗くなってきた。そう感じて、篠宮はポーズを保ったまま視線だけを窓の外に向けた。  樹々の隙間から見える空には、宵闇がすでに色濃く忍び寄っている。夕焼けの紅い色が見えなかったのは、午後から出始めた分厚い雲が、太陽の光を遮ってしまったからのようだ。  壁際にある柱時計が鳴り、時刻が午後の六時であることを知らせる。その音に驚いたのか、筆を走らせる橘の肩がぴくりと震えたのが、気配で感じ取れた。 「ああ……すっかり暗くなってしまいましたね。申し訳ありません、つい夢中になって」  持っていた絵筆をパレットに置き、橘はキャンバス越しに頭を下げた。 「イメージもすっかり固まって、後はモデル無しでも想像で補うことができると思います。ポーズをとっていただくのは、ここまでで大丈夫ですよ。篠宮さん、今日は本当にありがとうございました」  傍らから新聞紙の束を取り出し、橘が絵の具の付いた筆を拭き始める。本当に終わったのだと思うと、不思議な感慨が篠宮の胸をよぎっていった。昼食が終わってからほぼ六時間。長いようでもあり、短かったようにも感じられる。 「そうですか。素人なので至らない点もあったと思いますが、少しでもお役に立てたのなら何よりです」  ようやく義務を果たしたという安堵感と共に、篠宮は深々と息をついた。橘との関係も、これでひとまず区切りがつく。少なくとも結城に内緒でこの屋敷に来ることは、今後は絶対に有り得ないだろう。 「役に立つどころか……多分この絵は、私の描く中で最高の傑作になりますよ。やはりモデルが良いんでしょうね。完成まではまだ間がありますが、間違いなく名画にできる自信があります。芸術の女神様もきっと、この絵を見たら一目惚れしてしまいますよ」  得意そうに胸を張り、橘が描きかけの絵を見るよう眼で促す。好奇心に駆られ、篠宮は席を立ってキャンバスの表側まで歩を進めた。 「これは……」  その絵を見た瞬間、篠宮はモデルが自分だということも忘れて感嘆の声を洩らした。アンティークの美しい椅子に腰掛け、静かに読書をする男の姿がそこにある。白く滑らかな肌に愁いを帯びた眼差し、固く閉じられたくちびる。手許の本だけを見つめるその姿は非常に禁欲的で、それでいてどこか煽情的でもあった。きっちりと整えられた襟元を乱してみたい……そんな誘惑を感じさせる、見る者を虜にするような魅力がある。 「私はこんなに美男子ではありませんよ」 「そんなことはありません。この絵ではまだ、あなたの魅力の半分も表現できていませんよ。これから筆を加えて、少しでも完成度を増していきたいと思います。どうです篠宮さん。まだ描き始めたばかりなのに、今からすでに名画の香りが漂ってくるようじゃありませんか?」  自慢げな橘の呟きを聞き、篠宮はどう答えてよいか分からず口をつぐんだ。絵の中に自らの面影を感じられるならともかく、こんな白皙の美青年が自分だとは到底思えない。  篠宮が黙り込んでいると、橘はそれを疲労のせいだと思ったのか、心配そうに身をかがめて顔色を確認した。 「済みません篠宮さん、お疲れになったでしょう。こんな時間までお引止めしてしまって……本当に申し訳ありません」 「いえ、構いません。新幹線の最終までには、まだまだ余裕がありますから」  努力して笑みの表情を作りながら、篠宮は思いきり背筋を伸ばした。正直なところずっと同じ姿勢で座っていたので、身体のあちこちが痛い。このあと新幹線の車内でまた座っていなければならないのかと思うと、少しばかりうんざりした。 「疲れていらっしゃるのに、無理に帰ることもないでしょう。よろしければ泊まっていきませんか」  何気なく口にされた提案を聞き、篠宮は一瞬肩を震わせた。自分に好意を寄せている男の家に泊まる。その夜なにが起こったとしても、文句は言えない。男女の関係に置き換えて考えてみれば、すぐに分かることだ。 「とんでもない。あんなに素晴らしい昼食をご馳走いただいたのに、この上そこまでお世話にはなれません。第一、泊まる用意もしていませんし」 「大丈夫ですよ。歯ブラシやタオルは、来客用に常に準備してあります。明日の朝帰るだけなのですから、それで充分だと思いますが」 「それはまあ……そうですね」  篠宮は曖昧に返事をした。季節のせいか、時刻は十八時を過ぎたばかりなのに、外はすでに真っ暗だ。ろくに街灯もない中、車に乗って駅まで戻らなければならないと思うと、たしかにかなり気が滅入る。  このまま泊まっていっても良いのではないだろうか。そんな甘い考えが、篠宮の胸にふと芽生えた。別に、同じベッドで寝ようと言われているわけではない。これだけの屋敷なのだから、空いている部屋はいくらでもあるだろう。下着を替えられないのが難点だが、それも明日の朝までだと思えば、なんとか我慢できないこともなかった。 「空いている部屋がたくさんあるんですよ。よろしければ、二階の奥の部屋をお使いください。この家にある客室の中で、一番いい部屋ですよ。シャワーも付いていますから、ご自由に使っていただいて構いません」  シャワーという一言に、篠宮は抗いがたい魅力を感じた。座っている時はあまり感じなかったが、こうして立ち上がって動いてみると、やはり相当に疲れが溜まっているのが分かる。ずっと同じ姿勢をとり続けていたためか、身体じゅうの節々が冷えて凝り固まっていた。  今すぐ熱いシャワーを浴びてベッドに寝転んだら、生き返る思いがするだろう。明日は日曜日だ。ここで泊まっていったところで、特に問題はない。 「では……お言葉に甘えて」  ためらいながらも、篠宮ははっきりとそう返事をした。  伏せた瞼の裏に、一瞬だけ結城の顔が浮かぶ。これは浮気ではないと、篠宮は必死で自分の胸に言い聞かせた。単に帰りが遅くなったから、友人の家に泊まっていくだけの話だ。疚しいことは何もない。 「本当ですか! どうぞ遠慮なく、ごゆっくりなさってください」  橘が嬉しそうに顔を輝かせる。その無邪気な笑みを見るかぎり、橘は純粋に客の身を気遣っているだけのように思えた。 「夕食は何を召し上がりますか。今から出かけるのも面倒なので、何か出前を取りましょう。何がよろしいでしょうか」 「そうですね……昼がイタリアンだったので、夜はカロリー控えめの物が良いのですが」 「では、和食の御膳あたりでよろしいでしょうか。すぐに手配しますので、それまでお部屋のほうでくつろいでいてください。この部屋を出てそちらの階段を登ると、廊下の突き当たりに、グリフォンのマークの付いた扉があります。別にどの部屋を使っていただいても構わないんですが、せっかくですから、いちばん調度の揃っているその部屋をお使いください。玄関のホールからも行けますが、ここからだとそちらのほうが近道ですよ」  篠宮がここに一泊すると決まったことが、よほど嬉しかったのだろうか。目に見えてはしゃいだ様子で、橘は滔々と話し続けた。その顔は一見すると無邪気で、まるで修学旅行で浮かれる小学生のようだ。  好きだと告白した相手が、自分の家に泊まることを承諾してくれる。これが男女間の話なら、いろいろ込みで了承してくれたと考えるのが当然だろう。たとえ同性同士であっても、この状況なら脈ありだと思うのがおそらく普通の感覚だ。  果たして、自分はどう思っているのか。篠宮は心を落ち着けて自問自答した。いっそのこと橘と既成事実ができてしまえば、結城と離れる覚悟が決まるのかもしれない。二股をかけて両方に抱かれるようなふしだらな真似は、篠宮にはできなかった。選ぶなら、どちらかだ。 「部屋の鍵は、ライティングデスクの一番上の引き出しに入っています。部屋に入ったら最初にご確認ください」 「……分かりました。一番上の引き出しですね」 「ええそうです。大昔の名残で、この家の部屋にはどこもそれぞれ鍵が付いているんですよ。普段は開け閉めするのが面倒なので開けっ放しなんですけどね」  橘がそう言って微笑む。そんな彼の真意をなんとか読み取れないかと、篠宮は橘の様子を注意深く窺った。  橘がもし悪意を持っているなら、鍵など無いと適当に嘘を吐いて、自分が客室に忍びこめるように経路を確保しておくはずだ。わざわざ鍵を掛けてくださいと言ったのは、妙な下心は無いということを強調したかったのかもしれない。 「部屋までご案内できなくて申し訳ないのですが、二階まで行けば、どの部屋かはすぐに分かりますよ。私は食事の手配をしますので、先に部屋へ行って少しでもお身体を休めていてください。先ほど申し上げましたとおり、シャワーもご自由にお使いいただいて結構ですよ」  どこまでも柔和な態度を崩さない橘は、眼鏡のせいもあって、なかなか表情が読み取れない。結城ぐらい分かりやすければいいのにと、篠宮は胸の奥で不満を洩らした。結城に対しては常日頃からムードがないと文句を言っていたが、実際にこういう状況になってみると、自分には恋の駆け引きなど向いていないのだと切実に感じる。 「ありがとうございます。では失礼して、シャワーをお借りいたします」  しばらく思い悩んだ末、篠宮はなるようになれと捨て鉢な考えに至った。たとえ部屋に鍵を掛けたとしても、橘はこの屋敷の主なのだから、合鍵くらい持っているに違いない。勝手に入ろうと思えば、いくらでも好きなようにできるはずだ。  とはいえ鍵を掛けるという行為には、一応の抑止効果はある。これ以上踏み込まないでくれと、自分の意思を伝える役には立ってくれるだろう。  今夜、橘は自分の部屋へ忍んでくるか、来ないのか。これは……賭けだ。 「十九時半になったら食堂のほうへいらしてください。それまでに、夕食の用意をしておきますので。では、どうぞ。階段はあちらです」  恭しい会釈と共に、橘が広間の扉を開ける。揺れる心を必死に抑えこみ、篠宮は教えられたとおり客室へと向かった。

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