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終わらないリフレイン

 橘がアトリエに使っているという大広間は、食堂からさらに廊下を奥へ突き進み、暖炉のある応接間を越えた先にあった。 「ここです」  橘が扉を開けた瞬間、まばゆいほどの光が廊下にこぼれ落ちる。反射的に手をかざし、篠宮は指の隙間から室内の様子をうかがった。  絵の具を乾かす途中らしい、あちこちに立て掛けられた麻布のキャンバスがまず眼に入る。手前には、使いかけの絵の具や揮発油の瓶が雑多に置かれていた。部屋の広さに余裕があるためだろうか。油絵と聞いて想像するような、鼻をつく独特の匂いはあまり感じない。  ようやくのことで明るさに慣れ、篠宮は顔を上げて部屋全体を見渡した。個人の家とは到底思えないほどの大きな部屋だ。家具はほとんどなく殺風景だが、テーブルを入れて饗膳と花を並べれば、百人程度のパーティーなら余裕で開けるだろう。  高い天井からは、鈴蘭の花をつなげたような、洒落たデザインのシャンデリアが下がっている。奥の壁はほぼ全面が窓になっていて、そこから秋の陽射しが斜めに射し込んでいた。  窓から少し離れた床の上には、黒く艶やかなグランドピアノが置いてある。かつては大勢の着飾った人々がこの広間に集まり、奏でられるピアノの音に耳を傾けたのだろうか。そう考えると篠宮はどこか郷愁にも似た、不思議に懐かしい思いが胸をよぎるのを感じた。 「では。早速ですが、そちらの椅子にお掛けください」 「はい」  微かな緊張と共に、篠宮は指示された椅子に腰かけた。優美な曲線を描く猫足の椅子は、本物のアンティークなのか、布張りの部分にやや傷みが出ている。とはいえ試しに背もたれに寄りかかってみると、意外に堅牢な作りで座り心地は悪くなかった。 「実際にキャンバスに描く前に、何枚かスケッチをさせてください。いくつかポーズをお願いするかもしれません。二十分に一回、休憩を取ります。その他にも、何か不都合があればいつでも仰ってください」 「分かりました」 「もう少し深く腰かけて、右の肘を後ろに引いてください。そう……そのままで」  タイマーをセットして傍らに置き、橘はスケッチブックを手に取った。  紙に鉛筆を走らせる音が、微かに耳に響いてくる。二十分などあっという間だと思っていたが、何もせずただ座っているだけの二十分は、やはり相当に長く感じた。合間に挟まれた休憩と、時おり下されるポーズ変更の指示だけが希望の光だ。  じっとしていると、心は知らず知らずにのうちに恋人の元に飛んでいった。  結城はもうホテルに帰って入浴を終え、今頃はテレビを見てくつろいでいる頃だろうか。たとえどんなに忙しくても、今日一日の間に、少しは自分のことを思い出してくれただろうか。  考えるのをやめようとしても、恋人への想いは次から次へと溢れ出し、尽きることがない。いったい自分はいつの間に、こんなにまで結城のことを好きになっていたのだろう。 「……黙って座っているのも退屈とは思いますが、ご辛抱くださいね」 「えっ、ええ」  急にかけられた労りの言葉に、篠宮は驚いて身じろぎした。結城のことを想い、隠しきれない恋心が表情に出ていたのかもしれない。そう思って羞恥を感じたが、橘はあくまでも真剣な顔で、全体の構図を確認しているだけだった。心を読まれたような気がしたのは、単に篠宮の考えすぎだったらしい。 「次はこの本を、両手で開いて持ってください。そうそう……読書している感じで」  スケッチブックをめくり、橘が次の指示を出す。  渡された革張りの本を言われるままに開きながら、篠宮は自らの指を見つめた。左手の薬指には、結城のくれたプラチナの指輪が光っている。食欲のない日が続いたせいか、今までぴったりだった指輪は心なしか緩くなり、模様の部分は安定せず見るたびに位置を変えていた。  篠宮と結城が着けているペアリングは、二つの模様を合わせると小さなハートを形づくるようにデザインされている。離れていても、心はいつも一緒。以前に結城がそう言っていたことを、篠宮は今になって思い出した。  彼からこの指輪を受け取った時。自分は知り始めたばかりの恋に酔っていて、その後に来るかもしれない別れのことなど想像もしていなかった。  結城はいつまで経っても営業見習いで、飽きもせず公開プロポーズを繰り返し、会社のみんなに呆れられている。自分は永遠に結城の教育係で、仕事中に手を出そうとする彼を、どうにかうまく指導できないものかと頭を悩ませている。終わらないリフレイン。自動巻きのオルゴール。決して進級することのない学園コメディ。そんな他愛ない日常がいつまでも続くと、ただ漠然と信じていた。  彼との本当の別れが来た時、自分は正気を保てるだろうか。涙に暮れつつも、心を強く持って葬儀に参列することができるだろうか。あの世とこの世に引き離されても、心は一緒だと思えるだろうか。そのすべてに自信をもって頷くことは、今の篠宮には到底不可能のように思えた。 「篠宮さん。その後、彼氏さんとは上手くいっていますか」  橘が唐突に口を開く。動揺のあまり、篠宮は思わず肩を揺らして橘の顔を見つめた。 「えっ……」 「答えたくないのだったら、そのまま沈黙を守ってくださって構いませんよ」  ポーズを崩したことを咎めもせず、橘は微笑を浮かべて篠宮の顔を見返した。 「モデルの話を引き受けてくださったあの夜……篠宮さんは、雨の中に一人で佇んでいましたよね。他に雨宿りできる場所がいくらでもあるのに、あんな軒先に突っ立っているなんて普通じゃありません。あの時はあえて訊きませんでしたが……たぶん、恋人と喧嘩でもなさったんだろうと思いました」  喧嘩ではない。自分が一方的に悩んで、自暴自棄になっただけだ。すぐにそう反論しようと思ったが、橘を相手に自らの心の弱さをさらけ出す気にもなれない。口をつぐんだまま、篠宮はそっと眼をそらして答えを拒んだ。 「恋人と仲違いした直後に、偶然私に会って、勢いでモデルの話を引き受けた……大方そんなところでしょう。理由はともあれ、引き受けてくださったことには本当に感謝しています」  篠宮が言葉に詰まる中、橘は独り言のように話し続けた。 「今の恋人から、あなたを無理やり奪おうとは思っていません。こんな事を言っても白々しいとお感じになるでしょうが、私はあなたの幸せを一番に願っています。たとえ私を選んでくれなくても、あなたが幸福ならそれでいい。でも、もし迷っているのなら……私を、次期候補の一人に加えていただけませんか」  次期候補の一人。その言葉を、篠宮は心の奥で反芻した。  思えば今まで自分は、結城ひとりに眼を向けすぎていたのかもしれない。たまたま初恋の相手が結城だっただけで、性格的な相性や経済面を総合して考えた場合、彼よりも生涯の伴侶に相応しい人は他に居るかもしれないのだ。現に世間一般の人は、ごく当たり前のように、自分にとってより良い相手を求めて取捨選択を続けている。  結城以外にも恋の相手はいる。そう思うことができれば、少しは気分が楽になる。あんな不吉な夢を繰り返し見ることもなくなるだろう。以前はあれほど誇りに思っていた、結城に対する自分の一途な恋心を、篠宮は打って変わって重く煩わしいものに感じた。今どき、ただ一人の相手を想って、死ぬの生きるのと主人公が思い悩む話など流行らない。 「構図が決まりました。そのままじっとなさっていてください。篠宮さん……あなたは、そうして静かに読書している姿がとても似合いますね。絵になりますよ」  それきり口を閉ざし、橘は何事もなかったかのように、傍の箱から絵筆を取り出した。  心の内を押し隠し、篠宮は渡された本に眼を落とした。  黒革の表紙が重々しい、だいぶ古い本のようだ。所どころ縁が欠けた活字の書体も、時代を感じさせる。  この書物の名は何というのか。わざわざ表紙を見なくても、仕事で海外のホテルに何度も泊まっている篠宮には容易に見当がついた。欧米のホテルでは机の引き出しやベッドの枕元に、ほぼ例外なくこの本が備品として用意されている。  日に焼けて褐色の星が出たページに、篠宮は黙って眼を走らせた。  横文字の文章に混じって、(ラブ)という単語が視界に入る。そこには、どこかで聞いたような言葉が記されていた。結婚式でよく読み上げられる聖句だ。 『愛に偽りがあってはなりません』  ページを押さえる指が微かに震える。我知らず眉を寄せ、篠宮は休憩を告げる音が響くまで、その皮肉な一文を穴のあくほどに見つめていた。

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