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理想の人

 狭苦しいアパート暮らしなら、嫌でも近所の人の声が耳に飛び込んでくる。窓を開ければ他人と眼が合う。それは煩わしいことには違いないが、裏を返せば、人の存在を常に感じていられるということだ。だがここにはそれが無い。そのことを思うと、金があり過ぎるのも考えものだという気がしてならなかった。  結婚したいと思っていても、相手と見定めた女性はいつも金目当てで、心から信頼することができない。家族も恋人も友人もなく、この広い屋敷で朝から晩まで、たった一人で過ごす。それは想像を絶する寂しさに違いない。  上品で穏やかな物腰からは推し量れないが、橘だって人並みに性的な欲望を感じることくらいあるだろう。若いモデルを寝床へ引っ張り込んで、ひとときの慰めを得ようと思ったところで、責めることはできないのではないか。微かな憐憫の情と共に、そんな不道徳な考えがふと胸をよぎった。 「お待たせいたしました。鯛のグリル、レモンソース添えでございます」  パスタを食べ終わった頃を見計らって、丁度よく次の料理が運ばれてくる。色よく焼けた真鯛の美しい皮目に視線を向けながら、篠宮は話を続けた。 「こんな素晴らしいお屋敷で悠々自適の生活なんて、羨ましい限りですね」 「そうでもありませんよ。この辺りはコンビニですら店じまいの時間が早くて、本当に不便なんです。建物も古いですし、掃除を頼んだり庭師を入れたりと、この状態を維持するだけでもけっこう大変なんですよ」  わざとらしく眉をしかめ、橘が半分笑いながら愚痴をこぼす。その様子を見たシェフが横から口を挟んだ。 「いいかげんご結婚でもなされば、お屋敷の管理も少しは楽になると思うんですけどねえ。私の知るだけでも両手の指に余るくらいの女性たちが、なんとか坊っちゃんの歓心を得ようとひしめいているのに、なかなか覚悟を決めてくださらないんですよ。よっぽど理想がお高いのでしょうね」  坊っちゃん。現代ではあまり使用しないその呼称を聞いて、なんとなく百年前にタイムスリップした気分になる。俗世から切り離されたような、この穏やかな空間が、さらにその思いを助長した。 「片山さん、坊っちゃんはやめてください……私も、もういい歳なんですから」 「もういいお歳のはずなのに、いつまでも独り身でいて、私や河野たちを焦れったい気持ちにさせるのはどなたですか。私は、始(はじめ)様がオムツをしていた頃から存じ上げているんですよ。私から見れば、始様はいつまで経っても『お坊っちゃん』です」  困ったような表情の橘とは対照的に、シェフがさらに誇らしげな顔で胸を張る。話ぶりから察するに、この片山という男性は元々、この屋敷の使用人だったようだ。  未婚であることを持ち出されて、きまり悪い思いを感じたのだろうか。橘は上目遣いで肩をすくめた。 「理想が高い……そうなのかもしれませんね。実は最近になってようやく、この人ならと思える理想のかたに出会ったんです。でも残念ながら、そのかたの心はすでに他の男性のものでした。駄目で元々と思いながら告白してみましたが、案の定、見事に振られてしまいましたよ」  ちらりと視線を向けられ、篠宮は耐えきれずに眼をそらした。橘が言っている『理想の人』というのが、自分であることは間違いない。自分のどこにそんな魅力があるのかは理解できないが、蓼食う虫も好き好きという言葉もある。とにかく今の橘の眼には、この自分の姿が、誰よりも魅力的な理想の相手として映っているのだろう。 「それはそれは。橘の御曹司である坊っちゃんを振るなんて、なかなかに操の固い人ですね。いくら他に恋人がいるからといっても、橘の財産がどれだけあるか知ったら、多少は心が揺れ動くものだと思いますが」 「ひどいですよ片山さん。その言いかただと、私の魅力は財産しかないみたいじゃありませんか」 「そんなことはありませんよ。坊っちゃんは器量も良いし、お優しくて礼儀正しくて、どこに出しても恥ずかしくありません。私が保証します」  小さな孫を見つめるような眼で、シェフが優しく微笑を浮かべて返事をする。  室内にある華やかな調度類を、篠宮はそっと見渡した。たしかに、こんな風に思いがけず財産家と懇意になったら、大抵の人間はうまく立ち回って金銭的な援助を受けようと思うのが当然だ。  篠宮は先ほどの会話を思い出した。橘のような男から愛人契約を持ちかけられたら、普通なら同性だろうが他に恋人がいようが、誰でもまずは一考してみるに違いない。しかし育ってきた環境のせいか、それとも生まれつきの気質なのか、篠宮は恋愛をそう簡単に割り切って考えることはできない種類の人間だった。 「失恋の痛手を忘れるには、新しい恋を見つけるのが一番ですよ。いっそ思いきって、世界一周旅行でもなさってみたらいかがですか? 世界中のいろいろな物を見て見聞を広めたほうが、絵を描く上でもプラスになるでしょう」 「それはそうかもしれませんが……」  生まれ育った屋敷に愛着があるのか、橘は周りを見渡しながらためらいがちに語尾を濁した。 「後のことでしたら心配は要りませんよ。思い出のいっぱい詰まったこの屋敷を大切に思うお気持ちは、私にもよく分かります。旅の途中で素敵な奥様を見つけたら、いつでも戻ってきてください。それまでは私や河野が責任をもって、このお屋敷を守ります」  悪戯っぽく眼を輝かせ、シェフが胸に手を当てる。きっと橘は、使用人の皆から愛されていたのだろう。その証拠に、今でもこうして橘を慕い、なんとか力になろうと心を砕いてくれる人たちがいる。幼い頃からそんな恵まれた境遇にいたということは、愛情の希薄な家庭で育った篠宮にとっては、単純に羨ましい話だった。 「片山さんがそう仰ってくださるなら、安心してお任せできますね。世界一周旅行……たしかに、気分を変えるのにはちょうどいいかもしれませんね。スペインやポルトガルの辺りを回ったら、新しい作風に出会えるかもしれません。篠宮さんは、南欧においでになったことはありますか?」  自らの気持ちを奮い立たせるように、橘が明るい声を出す。篠宮は真面目くさった顔で答えた。 「仕事で二、三日滞在しただけですが……やはり名所と呼ばれる建築物の数々は、どれも素晴らしかったと思います。一見の価値はありますよ」 「そうですか。それはぜひ行ってみたいですね。そうそう、建物といえば……」  手入れの行き届いた美しい屋敷で、名店のシェフが腕をふるった料理を味わう。隣に恋人がいない以上、心から楽しいとはいえないが、これもひとつの経験だ。食後のコーヒーが出る頃には、篠宮もようやく緊張を解き、日常とは違うこのひと時を僅かでも楽しもうと思うまでになっていた。

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