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男の独り暮らし
有名なレストランの味には及ばないかもしれないが、隣にいる結城の笑顔が何よりのスパイスになる。あれから交通事故だのなんだのと多忙な日が続いたせいで、ついに生のポルチーニは買いに行けずじまいだったが、篠宮としては充分に満足だった。
「おや、あまりお好みではありませんでしたか。それでしたら、今からメニューを変更することもできますが」
篠宮の呟きを聞きつけたシェフが、心配そうに客の顔色を覗きこんだ。
「とんでもない。ポルチーニは大好物なんですよ」
「そうですか、それは良かった。最高級のポルチーニが手に入りましたので、ぜひご賞味ください。あんな素晴らしいポルチーニには、長年料理人をしている私でも滅多にお目にかかれませんよ。自信をもってお勧めいたします」
「そう伺うと期待が高まりますね。楽しみです」
「必ずやご期待に添ってみせますよ。では私はいったん失礼して、厨房のほうに入らせていただきます」
愛想の良い笑みを浮かべ、シェフは隣室に姿を消した。
唐突に橘と二人きりにされ、篠宮は手持ち無沙汰のまま周りを見渡した。ずっと昔、重役だった父の息子として、親子共々こういった席に何度か呼ばれたことがある。明かり取りを兼ねた大仰な薔薇窓や、重そうな縁飾りのついたカーテンを見ても気後れしないのは、そんな子供の頃の記憶がまだ残っているせいかもしれなかった。
「あちらの窓の向こうに、綺麗な紫色の花が咲き揃っていますね。見たことのない花ですが、何という種類の花なんでしょうか」
特に深い考えもなく、篠宮は橘に向かって問いかけた。窓の外の花壇には、房状になった紫色の花が鮮やかに咲き誇っている。色だけ見れば菫 や竜胆 によく似ていたが、花の形は遠目でも判るほどに違っていた。
「ああ、あれはトリカブトですよ」
「とっ、トリカブト……ですか」
思いもかけない植物の名前を聞いて、篠宮は僅かに声を震わせた。トリカブトといえば、毒草で有名だ。
「ははは、そんなに驚かないでください。ああやっておとなしく咲いているぶんには、害はありませんよ」
篠宮の反応をある程度予想していたのか、橘は愉快そうに声を上げて笑った。
「特に手入れしているわけではないのですが、ここの土が合っているらしくて、勝手に増えてしまうんです。トリカブトは観賞用の花としても有名なんですよ。花の色も紫だけでなく、ピンクや白……ちょっと変わったところでは、黄色なんてのもあります。どれも、とても綺麗ですよ」
「たしかに、観賞用としては非常に魅力的な花だと思いますが……そんな毒草が園芸店で普通に売っていると思うと、ちょっと恐ろしいですね」
「まあ悪用しようと思えば、鈴蘭でも福寿草でも、充分殺人の道具にはなり得ますからね。聞いた話ですが、トリカブトは花も葉も苦くて、間違って食べてしまう心配はないそうです。とはいえ、いまだに山菜と間違えて食べてしまう事件が後を絶ちませんから、実際のところは不明ですけれど」
微かに眉を寄せ、橘がからかうような笑みを見せる。それなりに和気藹々とした雰囲気の中、話が一区切りしたところで、前菜とスープが運ばれてきた。
「お待たせいたしました」
芸術品のように繊細に盛り付けられたアンティパストの皿を、篠宮は感嘆の思いと共に見つめた。
赤玉ねぎとケッパーを使ったサーモンのマリネ。オリーブオイルと黒胡椒のかかったチーズ、トマトとルッコラのドレッシング和え。彩りも豊かなそれらの料理が、大きな白い皿の上で、大事な宝物のように美しく並んでいる。
「篠宮さん、ワインはいかがですか? 何本か用意してありますから、白でも赤でも、お好きなのを召し上がってください」
「いえ……せっかくですが、アルコールは遠慮しておきます。赤い顔でモデルを務めるわけにはいきませんので」
「篠宮さんは本当に真面目なかたですね。そんなかたを酔わせたらどうなるのだろうと、ちょっと興味が湧いてしまいます」
言葉だけは穏やかに、橘は篠宮の口許に視線を向けた。眼鏡の向こうの瞳に、ほんの少し情欲の色が混じったのが見て取れる。
橘はまだ、自分のことを諦めていない。そのことを感じ、篠宮は心の奥で警戒を強めた。
とはいえ、橘に非があるわけではない。彼は曖昧な言いかたはせず、この身体に性的な欲望を感じているということを、はっきりと言葉にして伝えている。つまり悪いのは、その事実を知りながら、相手の家を訪れた自分のほうなのだ。
深く息をつき、篠宮はなんとか気持ちを整理しようと試みた。モデルの話を衝動的に引き受けてしまったのは、悪夢を見て心が乱れ、結城以外の何かに縋りたいと思ったからだ。
もちろんそんな細かい事情など、橘の関与するところではない。篠宮のほうにも話す気はなかった。すべてを打ち明けるとなれば、まず自分がどれだけ結城を愛しているかというところから始めなければいけない。たとえどれほど悩んでも、あまりにも深く愛するがゆえに起こる、恋人同士の複雑な機微を他人に話したくはなかった。
理由はどうあれ、狙った獲物が恋敵の手を離れてわざわざ自分の元にやってくるなんて、橘から見れば千載一遇のチャンスだろう。だが、一方的に彼が有利というわけでもない。たとえどんなに魅力的な誘いを受けようとも、自分が毅然とした態度を崩さなければ良いだけの話だ。
「お待たせいたしました。牡蠣とポルチーニのスパゲッティでございます」
料理を載せたワゴンと共に、隣室のドアから再びシェフが姿を現した。
香り高い湯気が鼻先をくすぐる。軽く視線を向けて感謝の意を伝えると、篠宮はさっそくフォークを手に取った。
見事な大粒の牡蠣がいくつも上に載っている。炒めて煮込んだ玉ねぎが、きのこの香りと絶妙に相まって、篠宮は久々に食欲をかき立てられる思いがした。仕上げに掛けられたイタリアンパセリのお陰で、彩りも悪くない。
指先でくるくるとフォークを回し、篠宮はパスタを口に運んだ。すでにひとくち食べていた橘が、篠宮に先駆けて感想を述べる。
「たしかにシェフがお勧めするだけのことはありますね。いかがですか、篠宮さん? きのこの王様と言われるポルチーニの中でも、こんなに香り高くて歯ざわりも良い物は滅多にありませんよ」
「そうですね。素晴らしい味です。こんなに美味しいポルチーニは、今まで食べたことがありませんよ」
橘の話に同意しつつも、篠宮は胸の奥に微かな失望が広がるのを感じた。牡蠣の火の通しかたは申し分ないし、使われている生クリームも白ワインも、すべてが極上の物だ。
隠し味に使われた醤油が、バターと玉ねぎの風味を上手くまとめ、重くなりがちなクリームソースの味を引き締めている。接待など仕事上の付き合いで、篠宮も名店と言われる店にはそれなりに足を運んでいるつもりだ。少なくとも自分が考える得るかぎり、これ以上のパスタを出す店は他にない。
文句なしに美味しいはずなのに、どうしてそれを素直に認められないのか。自分で自分の心を持て余しながら、篠宮は食べ応えのありそうな大きな牡蠣にフォークを突き刺した。
そういえば、牡蠣は結城の大好物だ。結城の好きな牡蠣と、自分の好きなポルチーニ。恋人に内緒で他の男の家へ行き、二人の好物を併せた料理を食べるなんて、皮肉以外の何物でもない。
「本当に美味しいですね。こんな最高の逸品をいちど味わったら、これから他のお店では満足できなくなってしまいそうです」
自らの気持ちを引き立てるため、篠宮は口早に感想を呟いた。結城が作ってくれたポルチーニのパスタが恋しい。いや、料理の問題ではない。結城の明るい声、あの人懐っこい子犬のような瞳がたまらなく恋しかった。
「そう言っていただけると何よりです。よろしければ他にもいろいろな美味しい料理を、毎日でもご馳走して差し上げますよ」
篠宮の心を知ってか知らずか、橘は表面上は快活に微笑んで言葉を継いだ。
「ただ、それにはひとつ条件があります。篠宮さんが私の専属モデルになってくだされば……のお話ですが」
「専属モデル……?」
篠宮は鸚鵡返しに尋ねた。一般的に専属モデルといえば、特定のブランドや雑誌とだけ契約を結んでいるモデルのことを指す。美術モデルで専属というのは、あまり聞いたことがなかった。
「ここに住み込みで、私の絵のモデルを務めていただくんです。三食付きで家賃も光熱費もただ、給料は応相談ということでいかがですか? お望みとあらば、言い値でお支払いしますよ。悪い条件ではないと思いますけど」
橘の瞳に、注意深く相手の反応を探るような光が宿る。そういう事かと篠宮はようやく得心した。専属モデルなどとは言っているが、要は愛人だ。
「……そうですね。そんな良い条件でしたら、ぜひお願いしたいというかたも、中にはいらっしゃるのではないでしょうか」
橘の誘いを、篠宮は冗談めかして軽くかわした。
自分になびかない相手を振り向かせるために、鼻先で金をちらつかせる。橘らしからぬ振る舞いに篠宮は驚いたが、すぐに気を取り直して考えを改めた。豊富な財力は、橘の持つ大きな魅力のひとつだ。狙った相手を口説くのに、武器に出来るものはすべて利用しようと思ったところで、別に責められるべきことではない。
「毎日毎日、こんな豪華な昼食を召し上がっているのですか」
食事についての話はそのままに、篠宮は少し会話の矛先を変えた。こんなに贅を凝らした料理を毎日食べていたら、あっという間にメタボリックシンドロームになりそうなものだが、橘の体型は肥満とは程遠い。
「とんでもない。普段なんて朝はシリアル、昼はサンドイッチにコーヒーがほとんどですよ。夜もコンビニで買ってくるか、せいぜい出前ですね。なんたって、男の独り暮らしですから」
「男の独り暮らし……ですか」
こんな壮麗な屋敷でも、独身の男が一人住まいをしていたら、それはやはり『男の独り暮らし』ということになるのだろうか。そう考えると篠宮はどこか可笑しいような、逆に笑ってはいけないような、複雑な気分になった。
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