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きらめく樹々

 新幹線を降りると、篠宮は真っ直ぐにタクシー乗り場に向かった。  ここへ来るにあたって、事前に聞いていた情報を篠宮は思い出した。この付近は有名な観光地ではあるものの、タクシーの数に関しては需要と供給が一致しておらず、混み合う時期には台数が足りなくなることもあるという。混雑の状況によっては橘が迎えに来てくれることになっていたが、幸いにもそのような事態にはならず、折りよくやってきたタクシーに乗ることができた。 「ここに書いてある住所までお願いしたいのですが」  ポケットからメモを取り出し、篠宮は運転手に手渡した。行き先について、土地勘のない自分でもスムーズに指示が出せるようにと、あらかじめ用意してあった紙片だ。 「ああ、橘さんのお宅ですね」  メモを受け取った途端、運転手がさらりとその名を口にする。何故それを知ったのか、篠宮は疑問に思った。渡したメモ用紙には、住所しか書いていなかったはずだ。 「ご存知なんですか」 「橘さんの家なら、この辺りで知らない人は居ませんよ。お客さん、行くのは初めてですか? まあ、行ってみれば分かりますよ」  朗らかな笑い声と共に、車がゆっくりと発進する。駅前は大通りや店も多く拓けた印象だったが、車が走り出すとほんの数分のうちに、色鮮やかな樹々が辺りを包み始めた。  行ってみれば分かるとは、どういう意味なのか。運転手の言葉が微妙に引っ掛かりはしたものの、穏やかな木漏れ日の中を走るうちに、その思いはどこかに押し流されていった。  昔から避暑地として愛され、今では観光の地としても名高いこの場所。葉ずれの音もさわやかな(けやき)の木立が、日頃の仕事の憂さをほんの少し忘れさせてくれる。 「どのくらいで着くのでしょうか」  あらかじめ橘から聞いてはいたが、篠宮は確認のために、改めて運転手に問いかけた。 「このペースだと、駅から十分くらいで着きますよ。ああ、見えてきました。あの白い建物です……どうです、綺麗でしょう」  運転手の言葉を聞き、篠宮はフロントガラスの向こうに眼を向けた。光を受けてきらめく樹々の間から、フランス風の、美しい白亜の建物が見え隠れしている。 「あの……あれが橘さんのお宅なんでしょうか」 「ええ、そうですよ」  運転手が事もなげに答える。橘の話しぶりからなんとなく予想はしていたものの、その建物の豪奢な外観は、篠宮の想像を遥かに上回っていた。優美な貴婦人を思わせる、見るからに歴史のある洋館……家というより、お屋敷だ。  篠宮は自分の住む2LDKのマンションを思い出した。毎日あくせく働いている、二十六歳の会社員の生活とは雲泥の差だ。 「ここを通りかかると、お客さまからよく『あの建物は見学できないんですか』と訊かれるんですよ、ははは」 「たしかに個人の家というよりは、重要文化財と言われたほうがしっくりきますね」  話好きらしい運転手の声につられ、篠宮は真面目な口調で答えを返した。 「そうなんですよ。ああ、実は私、小学一年生の息子がいるんですがね。その息子と二人で、こんな大きな家で、友達みんなと隠れんぼして遊んだら楽しいだろうねって話したんです。それなのにうちの女房ときたら『あそこ絶対エアコン無いわよ。冬は寒いし夏は暑いし、そんな所で隠れんぼなんかしてらんないわよ』なんて言うんですよ。どうして女って奴は、こう夢がないんですかねえ……ああ、ここでお停めしてもよろしいでしょうか」  由緒ある別荘地で働いているためだろうか。運転手は他家を訪問する際のマナーを心得ているようで、玄関先に車を横付けするようなことはせず、少し手前で停車してくれた。 「ええ、ここで結構です。ありがとうございました」  車が目的地に着いたのを知り、篠宮は丁寧に礼を述べた。  心付けとして少し多めに代金を渡し、タクシーを降りる。腕時計が見えるように袖を上げ、篠宮は時刻を確認した。時計の針は十時四十三分を指している。十一時の約束には充分に間に合う時間だ。  玄関まであと数メートルというところになって、篠宮はふと足を止めた。ビジネスなら五分前に着くのが当然だが、他家を訪問するときは、逆に五分ほど遅れていくのがマナーだ。  絵のモデルを頼まれて、知り合いの家に行く……当然ながらどんなマナーの本を見たところで、そんな特殊な状況については言及されていない。  五分前と五分後。とりあえず真ん中を取っておけばいいだろうという、ある意味安易な考えのもとに、篠宮は十一時きっかりに呼び鈴を押した。 「篠宮さん! わざわざ遠いところをありがとうございます。本当にいらしてくれたんですね………夢のようですよ」  扉の近くで待ち構えていたのだろう。すぐに鍵を外す音が響き、両開きの、篠宮のような庶民はまず見かけることのない重々しい玄関が開く。柄にもなくはしゃいだ様子の橘が、満面に笑みを浮かべて篠宮を出迎えた。  不躾にならない程度に、篠宮は注意深く辺りを見回した。玄関を入ってすぐの所にある吹き抜けのホールといい、足許に敷かれたペルシャ風の絨毯といい、外観に(たが)わず華やかな内装だ。 「夢のようだなんて……大袈裟すぎますよ」  謙遜ではなく、篠宮は心からそう思って苦笑した。取り立てて容姿が優れているとも思えない、しがない勤め人の自分より、この壮麗な屋敷のほうがよっぽど夢のように思える。 「お邪魔します」  軽く頭を下げ、篠宮はそのままホールに足を踏み入れた。玄関に靴脱ぎはなく、完全に欧米スタイルのようだ。 「来ていただいて嬉しいです。少し早いですが、先にお昼ご飯を召し上がってください。お口に合うかどうか分かりませんが、食堂のほうにご用意してあります。アトリエにご案内するのは、その後にいたしますね」  親しみのこもった口調で話しかけ、橘はホールの奥へ篠宮を導いた。言われてみれば、奥の扉のほうから微かに料理の香りが漂ってくるような気がする。トマトやオリーブオイル、そして様々な香草の入り混じった、食欲をそそる香りだ。 「昼食までご用意いただくなんて……恐縮です。私のほうは、手土産もお持ちしていないのに」 「いえいえ。いいんですよ、そんな事。モデルの件を無理にお願いしたのはこちらのほうなんですから」  突き当たりの扉を開け、橘がその先の廊下へと篠宮を(いざな)う。案内されるまま、いくつか並んだ扉のひとつを抜けると、細長いテーブルのある部屋に出た。 「篠宮様ですね。お待ちしておりました。本日の料理を担当させていただきます、片山と申します」  部屋に入った途端、白い服をきっちりと着こんだ年配の男性が、篠宮に向かって頭を下げた。  細かくプリーツの入った丈の高い帽子が、彼の職業が料理人であることを示している。この屋敷には専属のコックがいるのだろうか。橘の財力を考えれば、それも不自然なことではない。 「初めまして。篠宮と申します。本日はお世話になります」  別世界のような光景にやや面食らいながらも、篠宮は軽く会釈を返した。庶民の考える『ダイニングルーム』からは大きくかけ離れているが、どうやらここが食事をする場所らしい。  真っ白いテーブルクロスの上には、薔薇やダリアといった大ぶりの花が、美しい花瓶に活けられて置いてある。飾り皿の上には綺麗に畳まれたナプキンが置いてあり、その隣には銀色に輝くカトラリーが整然と並んでいた。中世から近代を舞台とした映画に登場する、貴族の屋敷そのものだ。 「それでは、どうぞお席に」  先に立って歩を進めたかと思うと、橘は自ら椅子を引いて篠宮を腰掛けさせた。 「ランチ向けに、軽めのコースにしていただくようお願いしておきました。ここのお店のイタリアンは本当に美味しいんですよ。ぜひ、篠宮さんにも召し上がっていただきたいと思って」  相変わらずの柔和な笑みを浮かべながら、橘が向かいの席に腰を下ろす。その話の中にひとつの疑問を感じ、篠宮は彼に向かって問いかけた。 「お店……? では片山さんはこのお屋敷の、専属の料理人というわけではないのですか」 「まさか。あんなに美味しい料理を独り占めしたら、他のお客さんたちに怒られてしまいますよ。今日は篠宮さんをおもてなしするために、特別にシェフに来ていただいたんです」 「そんな……私ごときに勿体ない話です。いくらなんでもお気遣いが過ぎますよ」 「そんなに謙遜なさらないでください。遠いところをわざわざ来ていただいたんですから、このくらい当然ですよ」  橘がにこやかに微笑んでそう言うと、近くに立っていたシェフも横から口添えをした。 「橘様からのご好意ですので、どうぞ遠慮なくお受け取りください。篠宮様にお断りされると、私も商売上がったりになってしまいます」  わざとおどけたような口調で話すその様子に、辺りの雰囲気が一気に和らぐ。ついに諦めて、篠宮はこの手厚すぎるもてなしを受けることにした。食事はもう用意されてしまっているのだ。今から嫌だと言ってみたところで始まらない。 「本日のメニューはこちらです、ご確認ください。アレルギーや苦手な食材は無いと伺っておりますが、お間違いありませんか」 「はい」  返事をしつつ、篠宮はメニューに眼を走らせた。温かみのある厚手の洋紙には、二か国語で料理の名前が印刷されている。上から何段目かに記された『牡蠣とポルチーニのスパゲッティ』という言葉が、とりわけ篠宮の気を引いた。 「ポルチーニ……」  篠宮は静かに呟いた。あれはたしか、一か月ほど前の話だっただろうか。恋人の好物を知った結城が、近所の輸入食品の店で、乾燥したポルチーニを買ってきた。通常ならレストランで食べるようなメニューを、家でも用意してあげたいという、料理の得意な結城らしい心遣いである。  とりあえず練習で作ってみたというスパゲッティは、篠宮の想像を遥かに超えるものだった。茹でたてのパスタに、鮭とほうれん草のクリームソース。乾燥を戻した物とはいえ、もちろん肝心のポルチーニは惜しげもなくたっぷり使われている。篠宮の好みを熟知している結城は、当然のごとく、仕上げとして多めに胡椒を効かせてくれていた。

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