9 / 10

   ――甘さ控えめ――

 そろそろ、だろうか。  所々の窓に明かりがついている校舎をちらりと振り返る。丁度、校庭を突っ切って帰ろうとしている三人組の生徒と目が合いそうになった。横を通り過ぎる瞬間、不思議そうな視線をこちらに送ってきたので、身を縮こまらせながら彼らが行くのとは真逆の方向へ顔ごとそらす。  彼らは同じスポーツバッグを肩から下げていた。もうすっかり見慣れた黒色、見慣れたデザイン。重そうだなと見かける度に思う。  校舎から出てくる人影はそれきり途絶えた。  誰かを待つ。ただそれだけのことで、こんなにも落ち着かない気持ちになるなんて。スマホを取り出してはしまったり、靴先で雪面に文字や絵を書いてみたりと、自分の起こす行動は先ほどから安定していない。  口元まで引き上げたマフラーが吐息で湿ってきた。今日の気温は氷点下。湿った箇所が冷たくなってきたら厄介だ。紫色の布地をぐいっと手で下に引っ張る。  途端に、目の前が煙った。息を吐いたせいだ。すぐに消えた吐息の向こう、どんよりと曇った冬の夜空が見えた。  空から白いものがたくさん降っている。天使の羽、ではなく、粉雪。  量はそこまで多くないし吹いているのは微風だ。校門の前に黙って立っているだけなのに、身体は冷えてくる。外に出てから十分は経つだろうか。待ち人はまだ、俺の前に姿を現わさない。  が、もう間もなく来るはずだ。根拠もなく予感する。  「……なんて言って渡せばいいんだろう」  通学カバンの中へ視線を落とし、呟く。ありふれた教材道具に混じって――いや正確にはそれらの道具の上へ置かれるようにして、中くらいの赤い包みがある。  持ち物検査が行われたら、間違いなく没収されただろう。が、この学校でそんな物々しい行事が行われたことはないらしく、当然、今日も何事もなく授業は終わった。この学校を選んでよかったと心の底から思ったのは、これで二度目だ。  最初に感じた時から、もう数か月になる。  誰よりも輝いていて心を奪われる、あいつに想いが届いてからのことで――。  少し遠くから話し声がした。耳がその微かな音を拾った瞬間、勝手に回想を始めようとしていた思考が現実へと引き戻される。  声は昇降口の方からする。  校門の壁を背に様子を窺う。いくつか人影が見えた。どれも明かりを背中に受けているせいで、顔までは確認できない。  が、耳までわずかに届いた笑い声で確信する。やっとお出ましのようだ。  なにか誘いを断るような文言が聞こえた後、「じゃあ、また明日な」という別れのあいさつが交わされた。話し声と足音が近づいてくる。多分、二人組。彼らには用がない俺は、上着のポケットからスマホを取り出して画面を眺めるふりをした。間もなくしてやはりスポーツバッグを持った生徒が脇を通り過ぎた。また目が合うのは嫌で、なんとなくスマホをいじるふりをしていたのだが、今度は気がつかれることなくやり過ごした。二つの影は会話を繰り返しながら遠ざかっていく。  ……あいつは、どうしたんだろう。  「よ。待った?」  「うわっ……!」  目当ての人物が来ないことを不思議に思っていた時、すぐ背後から肩を叩かれた。  勢いよく振り返ったせいで体勢が崩れる。綺麗に除雪された路面、新しく降り積もった雪のせいでそうとは見えなかったが、俺が立っている足元は凍っていたらしい。  ズルッという不吉な音がした直後、身体が、後ろに傾いていく。  スマホを握る感触が消えた。自分の両手が空中を無意味に掻いている。その行動に対する恥ずかしさが込み上げてきたのは、強い力で両肩をつかまれてからだった。  「わっ、と。あぶねぇな……、大丈夫?」  「う、うん……。なんとか」  転ぶ寸前に身体を支えてもらい、足を踏ん張ることで転倒は免れた。  遅れてやってきた羞恥心で、顔中が熱くなる。みっともない瞬間を見られてしまったこと、そして軽く抱きしめられているような格好に鼓動が早くなる。今さら恥ずかしがることでもないと分かってはいても、つい身体が反応してしまうのだ。  「ほい、スマホ。雪で濡れたけど……、うん大丈夫、壊れたりしてない」  ネイビー色をした端末は、彼の上着の袖でゴシゴシ拭われてから返された。短く礼を言い、赤い顔を見られないようにうつむき加減になりながら素早くスマホをしまう。降り積もったばかりのやわらかい雪の上に落ちたのは幸いだった。これが硬く凍りついた路面だったら、画面が割れていたかもしれない。  「えっと。練習、お疲れさま」  「おう。恋人が待っててくれてるって思ったら、いつもよりはかどったぜ」  「そ、そう。それはよかった……、のか?」  「自分で言っといてなんで疑問形?」  屈託のない笑い声。火照りは冷めたのに何故か顔を上げることができなくて、マフラーに口元をうずめていたら「帰ろっか」と穏やかな口調で促された。  歩き出してからしばらくは、相手の話へ耳を傾けることに徹した。  内容は主に、彼が所属している野球部の練習のこと。今日はどのトレーニングが一番きつかった……とか、仲間たちと交わした他愛無いやり取りの様子などが楽しげに語られる。野球に詳しくない俺へ用語の解説をする気遣いも忘れない。漠然と想像しながら聞いていると、実際の練習風景なんて見たこともないのになんだかこちらまで楽しくなってくるから不思議だ。  「そういえば、ずっと外で待ってたの? 寒くなかった?」  二分くらい歩いた辺りで、彼は思い出したようにたずねてきた。  「授業が終わってから、しばらくは図書室にいたよ。昼休みに小木さんに許可を取っておいたから注意される心配もなかったし。外にいたのは、十分くらいかな」  「そうなんだ。でも、十分でも寒かっただろ」  隣りを歩く彼が足を止める。  どうしたのかと相手を見上げて視線でたずねようとしたら、不意に耳元に温かくてやわらかい感触。両方の耳を大きな手の平に包み込まれている。状況は理解できた、つもりだが、頭の中が疑問符でいっぱいになる。  俺は何故、耳を触られているんだろう。  「赤くなってる。痛くない?」  穴をふさがれているせいで、声がくぐもって聞こえた。  「痛くはない……けど、冷えた」  「俺の手は? 冷たくないよな」  「うん。江森の手は、あったかい」  温もりに目を細め、耳にあてがわれている江森の手に自分の手を重ねる。俺は一般の人よりも手先が冷たいらしい。俗に言う〝末端冷え性〟というものだ。手を握られて、彼の口から「冷たいな」という感想がこぼれることも多い。  好きな人から手を握られた後は、指先まで体温が戻る。だから両耳も、彼の体温を分けてもらってすぐに温まった。  「あと、頭の上に雪積もってる」  「え、ほんと?」  髪をわしゃわしゃ撫でられると、雪の塊がいくつも落ちてきた。  「ありがとう。たった十分でも、頭に雪が積もるもんだな」  「風邪、ひかないでね。俺のせいでまた伊織が熱出した、なんてことになったら死んでも死にきれないからさ」  「大げさだな。俺たち、まだ高校生だろ。死ぬまで大分時間があると思うけど」  「たとえばの話」  笑い合い、再び歩き出す。  積もった雪が街灯の灯りを反射しているせいで、行く先がまぶしく見える。雪の白色のおかげで、冬場に夜道を歩く時は夏場よりも明るく感じられるくらいだ。滑ることを除けば、夜に外を出歩く者にとって、雪景色は反射材の代わりにも目の保養にもなる。  駅までの道のりは、そう長くはない。俺が校門の前に立っていたのと変わらない時間で着いてしまう。  あと三分も行けば人通りの多い道にぶつかる。    「あ、あのさ」  住宅街を抜けない内にと、咄嗟に発したのは躊躇いに満ちた声だった。  ほんの少しだけ前を歩いていた背中が立ち止まる。怪訝そうな唸りと共に向けられた顔を、俺はやっぱり真正面から見上げることができなかった。  「ごめん。ちょっと待って」  「うん……?」    カバンを開け、物を取り出す。たったそれだけの動作なのに緊張のせいでもたついてしまう。心臓が激しく脈打ち、指にまで振動が伝わり先端が震えている。目当てのものを一度つかみ損ね、俺はなおさら焦りかけた。  「……これ、江森にあげる」  一日中、カバンの中に忍ばせておいた赤い包み。やっとコレの出番がきた。  差し出されたものを、江森はすぐに受け取ろうとはしなかった。瞬きを繰り返しながら「俺に、くれるの?」なんて質問してきた。  だからそうだってば。早く受け取ってよ、こんなとこ誰かに見られたらものすごく恥ずかしいんだからさ。  照れ隠しに語気を強めて言ってやりたいのをぐっとこらえ、黙ってうなずく。  手から包みが離れて、無事に江森の手に渡った。安堵する余裕はない。それどころか、脈拍はさらに早くなっていく。  とりあえず渡すことはできた。次は……、どうしたらいいんだ。  数秒間、謎の沈黙が続いた。  さっきまでの饒舌さは何処へ行ってしまったのか、江森は手渡された包みをじっと見下ろして黙り込んでいる。珍しく真剣な顔をしてなにか考えているみたいだけど、いくら恋人同士であっても彼の考えを見通すなんてこと俺にはできない。何十年も連れ添った夫婦なら、そう難しくはないことなのかもしれないけれど、つき合いだしてまだ三か月のカップルにしてみれば難問だ。  とにかく、なにか言わなきゃ。いつまでもここに突っ立っている訳にはいかない。  「ええっと……、なんて言ったらいいのかな。お前にはいつも世話になってるし、これはその……お礼っていうか」  「……あっ。もしかして、今日が二月十四日だから?」  言い当てられてしまい、ぐうの音も出ない。  「いや、まあ……そう、だけど。でも! 別にバレンタインデーとかいう海外の行事は関係なくて、ただの気まぐれ、というか」  「開けてみてもいい?」  江森の問いはしっかりと的を射ていたのに、認めたくない気持ちばかり先行し口が勝手に言い訳を述べ始める。が、江森はそんな俺の様子にも構わず問いを重ねてきた。たまには空気を読んで欲しいものだ。  喉元まで出かかった文句を飲み込み、俺はまたうなずく。  早く渡したくて一日中そわそわしていたのに。その時がおとずれた途端、物陰へ隠れたい気持ちでいっぱいになるのは、どうしてなんだろう。  ガサガサと、包みを開封する音がする。  視線を送る勇気さえ出なくて、音が止むまでの間を自分が履いている安物の冬靴を眺めてやり過ごした。  「入浴剤……?」    「そういうのを風呂に入れた方が身体があったまるって、何処かで聞いたから……」  なにをあげたらいいのか分からなくて、店内をうろうろしている内、何気なく目に留まったから。という本当の理由は言わないでおこう。これでも真剣に悩んで決めたんだ。もっと身近な消耗品、例えば靴下とかにした方がよかったんじゃないか……。なんて、買ってから少し後悔したことも黙っておこう。  いまいち自信がないプレゼントだったけれど、もらった本人は嬉しそうに目を輝かせている。おもちゃを買ってもらえた時の子供みたいな反応だ。  「へー、すげぇ実用的だな。これ入れた風呂に入ったら、今年の冬は風邪ひかない気がする」  「まあ……なにもないよりは予防になる、かも」  「ありがとな! 今晩からさっそく使わせてもらうよ」  無邪気な笑顔に、つられて笑いながらうなずく。  「ん……、まだなにか入ってる」  袋の中を探る動き。もうすぐ返ってくる反応を目の当たりにするのが怖くて、俺はそれとなく道端に積み上げられた雪へ視線をそらした。街灯が近いせいか白色がまぶしく感じられて目を細める。  「チョコレート……! バレンタインデーチョコ!! やった」  「ちょっ、静かに! 近所中にお前の歓声が響き渡ってるからっ!」  「ええっ。バレンタインデーに恋人からチョコもらって、歓声上げないやつなんているのかよ」  充分に、いると思う。冷静な自分が心の中で呟く。  冷静なのはほんの一部分だけ。江森の喜ぶ姿があまりにも意外で、彼の大声を注意をしながら内心では驚いていた。  「でも江森って、チョコレートとか甘いお菓子は苦手なんじゃないの? ほら、確か初詣に行った時、話してただろ」  「え? ああ、そういえばそんな話したっけ」  「……それを聞いたから、なるべく甘さ控えめなのを選んだんだけど」  恋人が甘いものを好まないと知った時、既にバレンタインデーの贈り物のことを考え始めていた俺は戸惑った。この国のバレンタインデーといえば、好きな人にチョコレートを渡すのが一般的で、俺の中でもそのイメージがすっかり定着していたのだ。  本来はそういう習わしではないことを数日後に知るのだが、当時の俺は心から落胆していた。せっかく恋人と呼べる相手がいるのだから、バレンタインデーを楽しんでみたい。……なんて、今考えたらちょっと恥ずかしくなるようなことを本気で思っていたのだ。  いくら渡す相手がいようとも、バレンタインデーの特設コーナーにはろくに近づく勇気がなく、楽しそうに商品を眺める女の人たちを遠目から眺めるくらいしかできなかった。  一時間だけでもいいから女の子になりたいと、あの日以上に考えた日はない。  「俺これ食べたことある。酸味と苦みの方が強いけどほんのり甘みもあって、美味いんだよな。食べやすいから、今まで食べたチョコレートの中で一番気に入ってるんだ」  「そう、なんだ。……ならよかった」  偶然にも江森が口にしたことのあるチョコレートを選んだ自分の直感を褒めたい。そして誰かに誇りたい。  好きな人の笑顔を見て、俺はやっと喜びの感情に浸り始めた。  「正直に言うと、伊織からチョコレートもらえるなんて思ってなかった。なんていうか、伊織ってそういうイベントの類には興味なさそうに見えたから。去年のクリスマスの時みたいにさ」  「お前の期待をいい意味で裏切れて、光栄だよ」  「うーん、まったく期待してなかったかといえば、そうでもないけどな。もしかしたらって、一縷の望みみたいなのはずっと持ってた。だから今、それが叶ってすごく嬉しい」  「……今までどの女の子からもらったチョコレートよりも、嬉しい?」  あまりに素直に喜ぶから、いじわるをしたくなった。  なんてひどい問いだろう。こんな、試すようなことをして、なにになるっていうんだ。江森からの返答によってはただ自分が傷つくだけなのに。  ふいに、強いまぶしさを感じた。  今度の原因は雪ではなく、車のヘッドライトだ。低い音を立てながら人通りの少ない雪道を進み、こちらに近づいてくる。道の端へ寄らなければと、反射的に身を引く。隣りで同じ行動を取る気配がする。  車が真横を通り過ぎるごくわずかの瞬間、だった。  強く、けれど決して強引ではない力に引き寄せられた。背中のあたりにある感触。腕をまわされている。気がつくより先に、顔を上に向かせられて。唇になにか熱いものが触れて。  ブレーキランプの赤色を肩越しに見た。  「決まってるじゃん」  わずかに屈んだ体勢を戻しながら江森が笑う。  その一言で、充分だった。あとはもう、なにもいらない。と思った矢先、身体が自然と背伸びをする。閉じたまぶたの向こうに微かな光、唇にはさっきと同じやわらかさと微熱を感じた。欲張りな自分に心の中で苦笑しつつ、徐々に相手の熱を欲するその行為に夢中になっていく。  短くも幸せなこの時間がずっと続けばいいのに……なんて、本気で願っていたことは、やっぱり江森には秘密にしておこう。

ともだちにシェアしよう!