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   ――半分こ――

 地上はひどく冷え込んでいた。天気はそこそこ良くて、やわらかい日の光が地上に降り注いでいる。雑多な人たちが行き交う街は、今日も穏やかで平和に満ちていた。  温かい地下空間を出た俺は、凍結した路面に足を取られないよう注意しながら歩を進める。もうすっかり歩き慣れた道、見慣れた景色。すれ違う人の顔はいつも異なる。けれど多分、お互いに気がついていないだけで何度もすれ違っているのだ。みんな、向かっている場所は毎朝、同じはずだから。  五分ほど行くと、制服を着た若者たちの姿が目立つようになってきた。俺も着ている制服だ。ただし、厚ぼったい上着のせいでブレザーについている校章までは確認できない。この付近に高校は一つしかないから、全員、同じ学校の生徒と見るのが妥当だろう。  だからって話しかける相手も特にいない。  話す必要もない。この通学路を歩くようになって、もうすぐ二年。その間、誰かと言葉を交わした回数はほんのわずか。ましてや、誰かと一緒に登校したことなんて一度もない。周りの生徒たちは大体、二・三人の団子になって楽しそうに会話をしながら歩いている。俺みたいに一人で黙々と登校している者の方が、圧倒的に少ない。  でも別に淋しいと感じたことはない。  そういうものだって、それでいいんだって思うから。適当に選んだ高校へ通い始めてから、何度も出した結論。間違いはないと、信じていた。  いや、信じ込もうとしていただけなのかも。  だって今、ちょっとだけ淋しいと感じている自分がいるから。気がついてしまった瞬間、唇を噛みしめてうつむく。込み上げてきた感情にいともたやすく押し潰されそうになる自分の心の弱さが、情けない。  視界を狭めると、薄汚れた雪の白色とたまに映り込む冬靴の黒色、それだけしか目に映らなくなる。白と黒だけの、他には無しか存在しない景色。  こんな時、あいつがいてくれたら。  時々、迷惑に思えるくらいの明るさを持っていて、どんな相手にでも分け隔てなく接する友好的な男。ここにいる全員と友達になれ、というミッションが下されても彼なら喜んで挑戦するだろう。その様を、俺はきっと少し離れた位置から眺めながら、やっぱり今抱いているのと似たような気持ちになって。  淋しい、とは少し違うかもしれない。  どちらかと言えば、逢いたい想いの方が強くて。  声が聞きたい。もっと欲を出せば、顔が見たい。でも俺以外の人と話しているところを見るのは気が進まない。こういうのを、嫉妬とか、独占欲とか言うんだろうか。  そうか。俺にもそんなものがあったんだ。知らない間に、こんな、いらないものまで手に入れてしまっていたんだな。  人間らしくていいじゃんって、あいつなら笑って言うんだろうか。  ……逢いたいな。口の中で呟くと、恋しさはすぐに白い吐息へ変わった。消えていくそれをぼんやり眺めていたら、左肩の辺りにずっしりとした重みを感じた。    なんだろう。まるで、誰かが隣りに立って、肩に腕をまわしているような。  「また、そんな浮かない顔してる」  間近で聞こえた声に、俺は驚いて首をすくませた。  ついさっき、聞きたいと願ったばかりだ。こんなにも早く叶うだなんて、神様の気まぐれでも働いたのか。  確認する必要はないのに確かめてしまう。慎重な性分は、生まれ持ったものだ。  そろそろと見上げた先には、やっぱりさっきまで心の中で思い浮かべていた通りの顔があった。特別、ハンサムというほどではないけれど、この地球上で俺が最も愛着を感じている顔。  黄緑色をしたイヤホンコードが垂れ下がり、ゆらゆらと揺れている。  「……してないよ、別に」  普通なら嬉しくて満面の笑みを見せるところだろうけど、緩みそうになる頬筋を引き締めて敢えてぶっきらぼうに返す。  わざとだと気づいたのか、髪をわしゃわしゃ撫でられた。こんな人目のある場所で、小動物にするような扱いをしないでくれ。恥ずかしい。  「おはよ、伊織」  「……お、おはよう。江森」  「まーさーひーと」  「今はお互いに名字で呼び合うべきだろ。それと腕! くっつきすぎだから」  「寒いから、なおさらくっつきたくなるんだよな。こうして寄り添ってると、あったかいじゃん」  「十秒以内に離れろ。でないとお前と一生、口きかないから」  十、九。カウントダウンを始めて間もなく、肩の重みが消えた。同時になくなった温もりを惜しいと思ってしまうこの気持ちこそ、それだけ江森を恋しく想っていたという証なのだろう。  白黒だった世界が、今は彩りを取り戻して輝いて見える。  好きな人が傍にいるだけで、見える景色がこんなにも変わるのか。俺と同じ歩幅で隣りを歩いている男は、実は魔法が使えるのかもしれない。  なんて、馬鹿げた想像をしている自分に苦笑が込み上げてくる。  「そうそう。伊織、ちょっとこれ聴いて」  江森は両耳に入れていたイヤホンの片方を外して、こちらに差し出してきた。先端の丸い部分には〝L〟と書かれていたけれど、コードの長さにはあまり余裕がなくて俺の左耳まで届きそうもない。仕方なく右耳にイヤホンをすると、江森が何やらスマホを操作する気配がした。  ピアノの音が聞こえる。音楽だ。周りの雑音のせいで分かりにくいが、低いベース音もする。鍵盤と弦が奏でるメロディーに聞き覚えがあった。  「この曲って……」  「やっぱり聴いたことある? これ、伊織がバイトしてる店でかかってた曲だよな」  「うん。けど、この曲がどうかしたのか?」  「昨日の夜、動画サイトで偶然この曲を見かけたんだ。どっかで聴いたことあるなって思ってたら、伊織の顔が浮かんでさ。そういえば伊織が仕事してるのを眺めながら聴いたかもしれないなーと思って、明日お前に逢ったら確かめよう! と心に誓って、今に至る」  誓う、という大げさな表現に苦笑する。流れて来るピアノとベースのセッションにいつしかドラムも加わって、耳の中が一気に賑やかになった。  「なんていう曲か知ってる?」  「『Waltz For Debby』だろ。バイト先の先輩が音楽に詳しくて、教えてもらった。店長も気に入っている曲なんだって」  「ああ。あの、おっとりした感じの人か。面倒見よさそうだよな、あの人」  「実際いいよ。仕事のやり方は丁寧に教えてくれるし、音楽の筆記テストが控えてる時に分からないことを聞いたら、なんでも答えてくれた。おっとりしてるように見えて、頭いい人なんだと思う。接客も上手いから、多分、常連客の中には密かに彼目当てで通ってる人もいるんじゃないかな」  「最近では美人店員が皿洗いしてるから、さらに客数が増えたんじゃないか?」  「客数? 上がったり下がったりで、一定だと思うけど」  「いや、絶対に女性客が増えてると思う。そして伊織がバイト辞めた途端に減るかも」  「なんで」  バイト先の女性客の変動に俺がどう関わってるというのか。  意味が分からず、隣りを見上げたら「これだから鈍感は」と笑われた。疑問が解消されないまま、曲は佳境を迎える。  気に入っているフレーズを朝から聴けたことが嬉しい。しかも、好きな人の隣りで、一緒のイヤホンで。こんなにも幸せだと、目元と口元が緩むのを隠しきれない。傍目には、歩きながら一人でにやついているおかしな学生としか見えないだろう。他人がどれくらい幸せかなんて、その人の心の中を覗いてみなければ分からない。  江森の心の中を覗いてみたい。こうして二人で一緒にいて、俺が楽しいと思っている時、彼もちゃんと同じように感じてくれているだろうか。  俺は今、すごく幸せなんだけど、お前は? 気軽に問いかけられたらいいのに。  「……それだ。分かったわ、理由」  「理由、ってなんの?」  「この曲聴いた時、俺がどうして伊織を一番に思い浮かべたか」  前方に校門が見えてきた。江森と肩を並べていられる時間も、あとちょっと。  ここでようやく、本物の淋しさが頭を覗かせ始めた。まだ離れたくなくて、この幸福感にずっと浸っていたくて。いっそのこと、二人で授業をサボって街へ遊びに繰り出そうか。俺が素直な気持ちを話したら、江森ならきっとそう提案する。無邪気な少年の笑みを顔に浮かべながら。  簡単に予想をつけられるくらいには江森の性格を把握できている。勉強して知識が増えていくのを実感するより、好きな人のことをなにか一つでも知っておぼえていく瞬間の方が、喜びと達成感が強い。誰に褒められなくても、自慢できなくても、一人の人間のことを深く知ろうとする時間は俺にとっての楽しみであり、かけがえのないものだ。  イヤホンのコードが引っ張られた。江森が立ち止まったのだ。音楽は遠ざかり、聞こえなくなった。耳からこぼれ落ちたイヤホンを反射的に受け止め、ついでにもう片方がある方向へ目をやる。  「この曲さ、好き?」  「え。ああ……うん、気に入ってるよ」  「やっぱりな」  「やっぱりって?」  「喫茶店で皿洗いしながらこの曲聴いてた時の伊織、なんか楽しそうだった。今してたみたいに、微笑んでたんだ」  「微笑むって、俺が?」  「そう。この曲が店内でかかった時だけ、表情が変わるんだ。伊織は多分、無意識にやってるんだろうけど、見ててなんとなく印象に残ったのを思い出した。で、この曲と伊織がすぐに結びついたってわけ」  確かに、店でこの曲を耳にすると気分が明るくなる。けど、まさかそれが表に現れていたなんて。考えていることは顔に出にくい性質だと思って生きてきたのに。  「……俺って、そんなに分かりやすいやつだったのか」  「なんでショック受けてるの? どっちかと言えば、お前ってポーカーフェイスを貫けるタイプだと思うけど。嘘をつく時以外は」  「でも、考えてることを見透かされるくらいには分かりやすい人間ってことだろ。充分ショックだよ」  「……それ、なんか俺の方がショックなんだけど」  「冗談だよ。本当は、」  言いかけた言葉を飲み込む。イヤホンをしまいながら江森が不思議そうに見下ろしてくるけれど、俺は「なんでもない」とだけ言って彼の前を歩き出した。  嬉しかったんだ、本当は。  些細な反応さえ見逃さないでいてくれて、しかもそれをおぼえていてくれた。大したことではなくても、気がついてくれた。たったそれだけで、抱きつきたくなるくらいに嬉しい。  嬉しすぎるからもう、こんな質問までしてしまおう。  「正人」  「ん?」  「今日は、学校サボって街に遊びに行きたい。俺がそんなこと言い出したらお前、どうする?」  振り仰ぎ見た男の背後で、日光が一際強い輝きを放っている。雪も降っていないし、風も弱い。遊びに出かけるには絶好の日和だ。  みるみる内に浮かぶ満面の笑み。  なによりも分かりやすい答えに俺も笑う。それから二人して、生徒たちの群れが進むのとは反対の方へ歩き出したのだった。

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