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プロローグ

 どこまで歩いて来たのだろう。  気づくと知らない風景が広がっていた。ビルの隙間から少しだけ見えていた太陽はいつの間にか山の向こうへ沈んでおり、その名残だけが稜線を橙に染めていた。  ぽつりと額に当たる水滴に、思わず空を仰ぐ。――霧雨が、少しずつ体を濡らしていく。  ああ、もう足が動かない。もう疲れた。  このまま死んでもいいかもしれない。多分、誰も困らない。  水沢透瑠(みずさわとおる)がそう思ったとき、ふと、ひとつの灯りが目に飛び込んできた。  ――喫茶リュミエール。  一枚板にくっきりと書かれたその文字を、アンティークなランプの灯りがそっと照らしている。  ふらふらとその灯りに近づいて行くと、そのランプの横にある古ぼけた木のドアが動き、上部に取りつけられたベルが揺れた。  顎に白い髭をたっぷりたくわえた男がゆるやかな動作で出てきて、そして透瑠に気づいた。 「――おや」  すでに霧雨は透瑠の頭をぐっしょりと濡らしていた。髪の先から、滴となって地面に落ちていく。 「こんばんは」  男は透瑠を見て、にっこり微笑んだ。 「……こんばんは」 「降って来たね」  空を見上げ、男が言った。 「……そうですね」  天気雨だね、と男は言ってから、ああもう沈んでしまったか、と西の空を見やった。 「ここから見る夕陽はけっこう見ものなんだよ。昔はビルがなかったからもっと綺麗に見えたんだが。――そうそう、君、今お腹空いてないかい?」  そういえば今日は朝から何も食べていない。 「今、新作メニューを試作したんだが。君さえよければ、味見してくれないか?」  それがマスターとの出会いだった。

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