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1章 ①

 ドアのベルがカラン、と鳴った。 「――いらっしゃいませ」    今日何度目かの台詞を口にする。  喫茶リュミエールはバス通りから一本入った裏通りに面しているが、会社の事務所がたくさん入っている雑居ビルも近くにあるため、やはり平日の昼間はそれなりに混む。 「マスター、ハンバーグランチふたつ。どっちもデミソース」 「ほいほい」  返事は軽いが、今日はマスターもお疲れ気味のようだ。コーヒーポットを上げる腕がいつもより高さがない。    また、ベルが鳴る。 「いらっしゃい……あんたか」 「うわ、何その扱い。客を差別すんの?」 「おや、(さとし)くん。今日は遅かったね」 「うーん、会議が長引いて。もう疲れた~。あ、透瑠くん、いつものね」 「……マスター、ナポリタンにアフターでコーヒーホット」  ほいほい、とまたマスターが奥に引っ込みながら手を挙げる。 「お、やっと覚えてくれた? 俺の好み」 「……そりゃ、毎日のようにくればいい加減覚えるだろ」 「んふふ~、それもそうか」  なぜかふんふんと嬉しそうに鼻歌まで歌うこの男は、近くのビルに勤める会社員だ。  ――萩原怜(はぎわらさとし)。27歳。この喫茶店がオープンした当初からの常連。  そこまでは、初めて会ったとき自己紹介されて知っている。それ以上のことは知らない。   『マスター、何? 新しいコ雇ったの?』  こっちが初めての接客で緊張しまくっているのに、挨拶もなくいきなりジロジロ見られてからのこの台詞。  カチンときても仕方ないと思う。  透瑠は児童養護施設で育った。高校は勉強についていけず中退してしまったが、就職もなんとか決まり、一人暮らしを始めたばかりだった。  ――ある日、職場で小さな事件が起きた。  同僚の財布がなくなったのだ。なぜかその男はこう言った。『その時間、水沢しかその場にいなかった』――と。  もちろん透瑠には身に覚えのないことだった。何度も弁明した。だが取り合ってもらえなかった。  透瑠は辞表を出した。たとえ誤解が解けてその職場に残れたとしても……居心地の悪さはぬぐえそうになかったからだ。  そのうち僅かな貯金も底をつき、家賃を滞納していたらとうとうアパートを追い出された。  施設を頼ろうかとも思ったが、親身に世話をしてくれていた職員は、すでに別の施設へと異動していた。  あてもなくふらふらとさ迷っているうちに――この喫茶店にたどり着いたのだ。 「ほい、ハンバーグあがったよ」 「あ、はい」  あの、霧雨の降る夜。  マスターはびしょ濡れの透瑠に何も聞かず、タオルを差し出してくれた。そして、 『お口に合うといいんだが』  と、スパイスの香り立つカレー皿を透瑠の目の前に置いた。    マスターが保証人になってくれて、アパートもまた借りることができた。喫茶店で働かないか、とも声をかけてくれた。  どうしてここまで親切にしてくれるんだろう。  透瑠は今まで、他人からこんなに施しを受けたことがなかった。 『私ら夫婦には子供がいないからね。誰かの世話を焼いてみたかったのさ』

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