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1章 ②

 そう言ってマスターは下手くそなウインクを寄越した。  時々、マスターの家に呼んでもらって、奥さんと三人で夕食をご馳走になることもある。  幸福――透瑠はその言葉の意味が初めて解った気がした。  怜は、透瑠が店のカウンターに立った初日から現れた。  最初は、どこかの芸能人が来たのかと思った。まともに正面から見るには眩しすぎた。そのくらい整った顔だった。  アーモンド型の二重の目。それを縁取る長い睫毛。顔の真ん中をまっすぐ貫く高い鼻梁。薄い、形の整った紅い唇。どれをとっても、丁寧に作り込んだ豪奢な人形のようだった。  ところが口を開いた途端、すべてぶち壊しになった。  落差が激しすぎて、透瑠は怜の顔に戸惑ってしまった自分がイヤになったくらいだ。  そして開口一番、失礼な台詞とともに、無遠慮な視線をぶちかまされて、透瑠は怜に対して不信感でいっぱいになった。 『ああ、怜くん。水沢透瑠くんだよ。今日からうちで働くことになったんだ』 『へええ、よろしく。萩原怜です。ここには週六くらい来てるかな?』 『透瑠くん、怜くんは私よりこの店に詳しいかもしれないよ』  ホッホッホ、と独特の笑い声を発してマスターが洗い終わったカップを渡してくる。  それを壁に作りつけにしてある棚に並べながら、透瑠は憤然としていた。  なんだこいつ。  第一印象は最悪だった。  できればなるべく顔を合わせたくないと思っていたのだが……あの言葉に嘘はなかった。週六、つまりは定休日の水曜日以外は毎日来ていることになる。  時々来ないと思ったらマスターにわざわざ連絡しているのか、『今日は出張だそうだよ』とか言われたりする。  お昼に一人で現れて、いつものナポリタンとコーヒーを頼むのが常だが、たまにノートパソコンを抱えてきて、指定席のカウンターの一番窓際で何時間も唸っているときもある。  そういうときはマスターがそっとコーヒーのおかわりを置いてあげたりしている。  えこひいきだ、と思ったりしたが、マスター曰く『怜くんは息子みたいなものだからね』と、また下手くそなウインク。 『私は息子がもう一人増えたことになるな』  ホッホッホと笑ってマスターは透瑠の肩を叩いた。  怜と同等の扱いには腹が立つが、息子と言ってくれて素直に嬉しかった。  透瑠は幼い頃に両親と死別した。親の愛というものは正直知らなかった。  物心ついたときから施設が透瑠の家だった。親というものがどういうものか知りたかったな、といつも思う。  考えても仕方のないことなのだが。

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