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第1話
朝が来る。
そのことが、怖くて堪らなかったことがある。
カーテン越しの朝日を浴びるのが。意識がどんどん覚醒していくのが。瞼を開くのが。身体を起こすのが。すべてが怖くて、苦しくて、辛かったことがある。
しかもそれは、遠い昔の話なんかではなくて、ほんの一年と少し前の話で、まだ頭の中から削ぎ落としきれていない記憶が、急に牙をむいて襲いかかってくることがある。
そう、丁度、今日のように。
目を開けて、一番に感じたのは倦怠感だった。頭は妙に軽いのに、身体が重たくて、熱っぽい。そんな感覚。
あまりのだるさにゆっくりと目を閉じると、真っ暗な世界で、懐かしい音が聞こえるような気がした。激しい怒号が、鳴り止まない電話の音が、ずっと耳元で鳴り響いている。そんな幻聴が聞こえてきて、俺は耐えきれずに目を開けた。
白い天井。それが、あの日見た天井とは全く別物であることだけが、今の救いだ。俺はなんとか身体を起こすと、ベッドから這いずるように出て、重たい足取りでリビングまでたどり着いた。
リビングの戸を開けて最初に俺を出迎えてくれたのは甘い、卵が焼ける匂い。それに次いでキッチンで四角いフライパンを片手に料理をしているエプロン姿の同居人の声が俺を迎えた。
「おはよう、真。今日はバイト昼の日だったか」
「……おはよう、拓兎。別に、そうじゃないけど、目が覚めちゃって」
「その割には体調が良いようには見えない。自然に目が覚めたというより、無理矢理起こされたようなそんな顔をして……」
そこまで言い終わると拓兎はハッとしたような顔をして、菜箸で俺のことを指した。お行儀が非常によろしくない。だが、拓兎はそんなことは気にしていない様子で菜箸を指揮棒のように振ると口元をニヤッと上に上げて笑った。
「今の言葉、良い感じに言い換えて歌詞に使えそうじゃないか?」
「俺にはどうかわからないけど、拓兎がそう思うんならそうなんじゃないか?」
苦笑いを一つ浮かべると、拓兎は自信満々に「だよな!」と返し、鼻歌交じりに箸でフライパンをつつき始めた。初めて聞いたフレーズだ。きっと先ほど言っていた言葉を早速歌詞にしてメロディーに落とし込んでいるのだろう。
「新曲?」
「新曲だ。それも今できた、できたてほやほやだぞ。俺の新曲を誰よりも早く、しかも生歌で聞けることを光栄に思えよ」
「よっ」と勢いよく卵焼きを巻く拓兎を眺めていると、つけっぱなしにしているテレビから、女子達の黄色い悲鳴が聞こえてきた。驚いてテレビを見ると、液晶の向こう側に、今キッチンで絶賛卵焼きを作り中の男と同じ男が、何処かのCDショップでインストアライブをしている映像が映し出されていた。
響き渡る澄んだ歌声。歌っている曲がバラードだからだろうか。浮かべている表情は、酷く切なげで、それでいて力強く、思わず釘付けになってしまった。
『昨日、都内のCDショップで、タクトさんのインストアライブが行われました。今回は昨日発売のニューシングルのお披露目ライブと言うことで、ライブ後にタクトさんを直撃インタビュー! 新曲に込めた思いを聞きました』
美人ということでバイト先でも話題になっているアナウンサーが興奮気味にそう紹介すると、画面は何処かの個室での場面に切り替わる。拓兎とアナウンサー二人きりの場面で、アナウンサーは頬を赤く染めながら、今をときめくアーティスト「タクト」へインタビューを始めた。
『タクトさん、今回の新曲も素敵でしたね!』
『ありがとうございます』
『今回は、いつもの雰囲気とは一風変わってしっとりとしたラブバラードですが、どんなイメージで曲を作られたんですか?』
『この曲は――』
拓兎が質問に答えようとした瞬間。テレビが急に真っ暗になった。思わず声を漏らして当たりを見渡すと――キッチンにテレビのリモコンを持ち込んでいたらしい――拓兎がテレビに向かってリモコンを構えていた。
「な、なんで消すんだよ」
「あぁ、悪い。見ていたのか」
「見てたよ。見ればわかるだろ」
「気がつかなかったな。それよりほら、卵焼きできたから持って行け。あと、箸とコップも頼む。これに白飯と、あとはインスタントの味噌汁で良いな」
「いい、けど……十分だけど……」
そうじゃなくて、とは言えなかった。完全に俺がテレビに釘付けになっていることに気がついてテレビを消しただろう。あのアナウンサーと何を話した。今回の曲は誰を思って書いたんだ。どうして、そんなに不機嫌そうなんだ。訊きたいことはあるのに、言い出す口がない。
喉まで出ているはずなのに、頭で言いたい言葉も文章もできあがっているはずなのに、声に、音にできないのは何故なのだろうか。いつも、俺はそうやって、言いたい言葉を殺してきた。
「真」
「あ……ごめん、卵焼き持って行くんだったな」
「そうじゃない。お前、かなり体調悪そうだぞ。今日はバイト休め」
「そういうわけにはいかない。今日は人手足りてないんだ。俺が休む訳にはいかない」
それに、今日のシフトは夕方からだ。それまでにもう少し寝て回復すれば良い。
そう。俺が行かないといけない。俺がしないといけない。
俺が――
「お前、今の顔、鏡で見てみろ」
「は……?」
「一年前と同じ顔をしている」
急に真正面から鳩尾を殴られたような感覚。拓兎の言葉を聞いて「自覚」したのだろうか。急にめまいとともに吐き気がした。倒れそうになった瞬間、こちらに駆け寄る足音とともに、身体が力強く抱きしめられた。
温かい。拓兎の温度を感じるより先にだるさで身体が動かなくなる。
「ほら、やっぱり体調が悪いじゃないか」
「……」
「昨日無理させすぎたか。流石に三ラウンドはきつ、」
「うっせぇ」
頬をひっぱたいてやろうとも思ったがもう腕すら上がらない。力なく、拓兎の身体に体重を預けることしかできなくなってしまっていた。
そんな俺が彼の目には面白く映ったようだ。拓兎はくっくっくと声を漏らし、肩をふるわせた。腹は立つがどうしようもない。
「あの日も言ったけどな、職場にはお前の代わりに仕事してくれる奴が何人もいるかもしれないが、俺にはお前しかいないんだ。無理はしてくれるな」
別に無理なんてしていない。俺は人として当然のことをしているだけだ。
そう。当然のこと。
「こんなこと、社会人なら当然だぞ」
突然聞こえた声に、級に胃酸が込み上げてきた。頬を膨らませて苦しい声を上げると、拓兎はとっさに俺から離れて立ち上がった。そのまま足早に彼は何処かへと行ってしまう。
行かないで。そう言おうとしたが今口を開けばどうなるかなど、朦朧とした意識の中でもはっきりとわかる。それに、拓兎が離れた理由が俺に吐瀉物をかけられるのが嫌だからではないこともわかっている。
俺はうなだれて、なんとか口を押さえながら拓兎が戻ってくるのを待った。すぐに、拓兎は何やら袋を片手に俺に駆け寄ってくる。その顔が、いつになく必死で、こんな状況なのにもかかわらず、俺は少し笑ってしまいそうになった。
「ほら、ここに吐け。うまく吐けなかったら手伝ってやるから」
拓兎が優しく背中をさする。確か、一年前にもこんな感じで介抱されたことがあった気がする。そんな気がするのだけれど、忘れたい記憶だったからだろうか。うまく思い出せない。
全くあの時のことを思い出せないままに、俺は必死に込み上げた物を袋に吐き出そうと惨めで汚い声を上げ続けた。粘ついた唾液だけが袋の底に落ちる。吐き出したくて仕方ないのに、依然異物は喉元に留まり続けた。
そんな俺を見かねたのだろうか。拓兎が俺の口に指を突っ込むと、喉の奥を指で刺激し始めた。いつもはマイクや楽器を握っているはずの拓兎の指が、俺の口の中に、しかも、嘔吐させるために入り込んでいるのだと考えると、申し訳なさで苦しくなる。だけれど、そんな贅沢なことは言えずに、俺は拓兎に促されるままに胃酸を袋に吐き出した。
喉が焼けるように痛い。気分は少し楽になったが、やはり倦怠感は未だつきまとってきた。惨めな喘ぎ声が口から溢れ続けた。
「……お前の言うとおり、休む」
「そうしろ。電話かけるのが無理そうなら俺が電話してやる」
「いや、店長にメッセージ送るよ」
スウェットのズボンに入れていたスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを立ち上げると「店長」を選択して、今日は体調が悪いためバイトを休む旨のメッセージを送信する。
直ぐに返事が返ってくる訳がないため、俺はそのままゆっくり立ち上がり、袋を片付けようとした。だが、案の定というべきだろうか拓兎にそれを止められた。
「無理はするなと言っただろ」
「別に……これは無理でも何でもねぇよ」
「それでもダメだ。病人は休んでろ。あ……ゲロ吐いた後で悪いが、朝飯如何する。ヨーグルトとかなら食えそうか」
「用意してくれた飯で大丈夫だって」
「そうだ、今日の練習キャンセルしないとな。お前の側にいてやりたいし」
「大丈夫。一人で寝てるから」
俺の返答が癪だったらしい。拓兎は眉間に皺を寄せると、大きな溜息を吐いた。
あぁ、懐かしい。あの日もこんな顔をされたんだった。
「大丈夫じゃないくせに、大丈夫だなんて言うな」
あの日と同じ言葉。正確には全く同じ言葉ではないけれど、同じような内容の言葉が拓兎の口から紡がれた。苦しくなったのは胸か、それともあの時と同じで胃か。よくわからない。ただ、俺にできることは、拓兎と同じようにあの日と同じ言葉を吐くことだけだった。
「ごめん」
「……お前……お前な……たく」
拓兎は諦めというよりは呆れきった顔でまた溜息を溢す。そして、俺の吐き出した物を処理するために、そのままリビングを出て行ってしまった。
ぼんやりと、拓兎が去って行った方を眺め、立ち尽くす。あ、やってしまったな。それだけがわかる。拓兎を怒らせてしまった。怒らせる、とはまた違うのだろうが、拓兎を嫌な気分にしてしまったのは間違いなかった。
「お前は、いつも人を嫌な気分にさせるな」
昔聞いた声。拓兎ではない、自分たちより十数歳年上の大人の声。
上司の声だ。今のバイト先のではない。一年前まで勤めていた会社の上司だ。
よく怒鳴る人だった。褒められた試しは一度もなく、けなされた試しは五万とあった。
日々浴びせられる罵詈雑言に、周りのドラマでも見るような好奇の目に、慣れてきたのか、心が腐り始めたのか、わからなくなった頃。俺は、一人暮らしをするワンルームのど真ん中で這いつくばって意識不明になっているところを、不法侵入よろしく勝手に俺の母親から借りた鍵で部屋に入ってきた拓兎によって発見された。
そのときに何があったのかは全く知らない。目を開けたら白い天井。腕には点滴。カラカラに渇いた喉で声とは言えないノイズのような音を出すと、急に右手を力強く握られた。
「真」
俺を呼ぶ拓兎の声は、珍しく涙混じりで掠れていて、俺は思わず笑ってしまったのを覚えている。そして「ごめん」と、こんな状況なのに「俺は大丈夫だから」など意味のわからないことを言ってしまったのだ。そんな俺をこれまた珍しく拓兎は怒鳴りつけた。
「これのどこが大丈夫なんだ! ストレスで、胃腸悪くして、食えなくなって、栄養失調でぶっ倒れて、点滴腕にぶっ刺してる、この状況のどこが、大丈夫なんだ!」
ぐうの音も出ないほどの正論だった。本当に、何が大丈夫なのだろう。今冷静に、客観的に考えればあの時の俺はボロボロでとても人の形を保っているとは言える状況ではなかった。それなのに、当時の俺は身体だけではなく、頭も心も壊されてしまっていたらしく、本当に、心の底から、拓兎が何故怒っているのか、訳がわからなかった。
魂が抜けたような顔をしていた俺を、拓兎は歯ぎしりをしながら見下ろし、頭を掻き乱した後、何かを言おうと何度も口を開いて閉じる動作を繰り返した。そして、つい先ほど目を覚ましたばかりの病人の口を無理矢理に塞ぐ。
あの天才ミュージシャンが、自分の感情を言葉で表現することを諦めた。
触れるだけなんて甘い口づけではない。唇の間から舌が無理矢理にねじ込まれ鈍っていたはずの脳と官能が刺激されていく。そんな口づけを、俺は与えられるがままに味わった。
長い口づけを終えて、病室が個室なことに酷く安心したのを覚えている。顔を真っ赤にして、何かを言おうとした俺の言葉を直ぐに拓兎が阻んだ。
「一緒に住もう」
「……え?」
「俺が、お前のこと一生面倒見てやるから一緒に住め。あと、今の仕事は辞めろ」
「でも、」
「お前の上司が、お前の話通りのことを言っているなら、その職場に職場にはお前の代わりに仕事してくれる奴が何人もいるかもしれないし、現にいるんだろう。だがな、俺にはお前しかいないんだ。俺は――お前に死んで欲しくはない。だから、頼む」
そのとき俺は、初めて拓兎に懇願された。
今まで俺に命令しかしてこなかった拓兎が、俺に初めて願ってきたのだ。
それが信じられなくて。それほどまでに思われている事実が信じられなくて。久しぶりに「嬉しい」の三文字が頭に浮かんだときには、俺は無言で拓兎の手を握っていたのだ。
そこからの日々はめまぐるしかった。まず、拓兎が俺の家に入り浸るようになった。俺がまた倒れないか心配だったらしい。俺が会社を辞めてから引っ越しの準備をしようと言って聞かないため、自分でよくよく考えた後に退職願を上司に突きつけた。
それでも規約で一ヶ月は会社にいなくてはいけなかったのだが、例の上司から「あのままくたばっとけばよかった」と言われたその日に拓兎に言われて数日程度撮りためていた上司の罵倒が録音されたボイスレコーダーを社長にたたきつけ、謝罪と「このことは口外しないでくれ」という惨めったらしい願いを蹴り飛ばして、事前に書いていた「願」を「届」に変えた紙を叩きつけて会社を辞めた。
親にそのことを言ったら、会社に殴り込む勢いだったため、それを拓兎と一緒に宥めにも行った。結果、拓兎が母親と結託して会社を潰す計画を、わりと真剣に立て始めて父親と一緒に全力で止めたのも覚えている。
その後も、辞めてもなお電話をかけ続けてきた元上司を着信拒否したり、挙句の果て携帯を解約して新しい携帯を買ったり、その後、家に押しかけてきた元上司を拓兎が追い返して、その拓兎がすごくかっこよかったり……。
そして、色々落ち着いてきた頃、拓人の住む部屋――今の自宅に引っ越した。引っ越したその日、拓兎はいつもと変わらない笑みを浮かべつつ、何かを決心したような真剣な声で俺にこう訊いてきた。
「どうだ。そろそろ、恋人になってみないか」
まったくもっておかしな話だが、きっと俺たち以外の人が聞いたら首をかしげて笑ってしまうと思うのだが、俺たちは当時まだ、「好き合ってはいたが付き合ってはいなかった」。唇だけではなく身体も重ね合っているのに、「怖い」のその言葉だけで、俺の過去のトラウマが原因で手放すことが出来なかった、幼馴染以上恋人未満の関係。
心地の良いぬるま湯。傷が癒えるまで浸かっていようという拓兎に甘えて、傷が癒えてもなお、浴槽から上がることが出来なかった俺は、拓兎のその一言で湯船から引き上げられた。そして、俺の身体を抱きしめる拓兎の腕の中で、幸福という熱に溺れながら、やっと彼に返事を返すことが出来たのだ。
あの言葉を返すのに、一体何年かかっただろう。俺は口を噤むことが多い。怖くて。その言葉が言ってはいけないことだったら、正解ではなかったら、そのせいで相手を傷つけるのが怖くて。今も、昔も。そのせいで逆によく誤解を生むし、それが怖くて口を閉ざしたはずなのに逆に人を傷つけてしまう。今だってもっと自分の言いたいことを言えたなら、拓兎を怒らせることだって――
「別に怒ってはいないぞ」
ハッとして顔を上げると、真っ黒な目が眼鏡のレンズ越しに俺をじっと見つめていた。至近距離。拓兎の眼鏡のフレームが俺の鼻に触れるくらいの。吐息が唇にかかるくらいの近さで、拓兎は喋り続ける。
「前よりは自分の気持ちを素直に話せるようになったじゃないか。えらい。えらい。良い傾向だ」
「……口に出てた?」
「出てた」
「ごめ、」
「これ以上謝るならキスして口塞ぐぞ」
「げろった後だぞ」
「関係ないな。ところで、お前が吐くところって妙にえろ、」
「お前は自分の思ったことを直ぐ口に出すの止めろ!」
声を張り上げたところで口に酸っぱい味が広がって思わず咳き込んだ。拓兎が慌ててキッチンへ行き、コップに水道水――ではなく冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぎ、俺のところに持ってきた。礼を一つ言い、コップの水を喉へ流し込む。一瞬だけ、身体の体温が下がって気がした。
「無理して大声を出すんじゃない。ベッドの上では大歓迎だが」
「そういうところだぞお前」
「まあまあ、思ったことをよく言う俺と、言わないお前とで良い塩梅だろう」
拓兎が一人で納得していると、ズボンに突っ込んでいた携帯電話が急に震えた。電話だ。それに気がついて画面を見る。そこには「店長」の二文字が並んでいた。
慌てて食卓にコップを置いて「応答」のボタンを静かに押すと、機械の向こう側から音の割れた男性の大声が聞こえて来た。店長の声だ。
「真ちゃーん! 大丈夫? 大丈夫なの? 生きてる? ちゃんと生きてる?」
「うるっせんだよ、ババア! 真の鼓膜が破れたら如何してくれる!」
「まっ! タクトちゃんったら、相も変わらず口が悪い! それより、真ちゃんは大丈夫なの?」
「て、店長お疲れ様です……俺はさっき吐きました」
「大丈夫じゃないじゃない!」
「んもぉ~」と牛のような声が聞こえた。冷や汗が流れる。次にどんな言葉が来るか。それを以前の経験から推理した俺は直ぐに声を出す。
「やっぱり、出ましょうか、俺……人手足りてないんですよね?」
「何馬鹿なこと言ってるの! 今日はゆっくり休みなさい。それに、真ちゃん一人が欠けて全く店が回らなくなるようなアホなシフト組んでないわよ、こっちだって。真ちゃんがいない分は、他の子達とアタシで補えば良いから。ね。何も気にしないで。彼氏の腕に抱かれながらゆっくり休みなさい」
「店長……」
彼氏の腕に抱かれる云々は置いておくとして、まさか、そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。叱られはしたが、それは俺の体調管理や能力の低さを咎めるような暴言ではない。寧ろいたわって貰っている。あまりの優しい言葉に衝撃的すぎたのだろうか。それとも、安心して気が緩んだのだろうか。突然頬を水が伝った。ぽろぽろと、止めどなく雫が溢れる。
「あ、ありがとう、ございます」
「どうしたの! 真ちゃん! 泣いてるの? 泣かないで! 店長怖くないよ!」
「アンタは十分怖いからな」
「失礼な子! 兎に角、ゆっくり休んで、早く良くなってね。それじゃ。タクトちゃんも、看病お願いね」
「言われなくても」
ぷつり、と電話が切れた。真っ黒になった画面に泣きっ面の自分が映る。鼻をすすって服の袖で涙を拭うと、拓兎がゆっくりと俺を抱きしめた。彼に体重を預け、目を閉じる。温かくて、心臓の辺りが不快ではない苦しさで締め付けられた。
「飯食って、薬飲んで、寝よう。俺も添い寝してやる」
「うん」
俺の返事を聞いて、拓兎は俺を持ち上げる。驚きの声を上げる俺に対して拓兎はいつも以上に楽しそうな声を上げて笑った。
「一年で重たくなったな、お前」
「た、しかに太ったけど……!」
「良いんだよ。それで。死にそうだったお前の軽さを思い出すとゾッとするぞ。本当に」
そのまま拓兎は俺を食卓の椅子に座らせ、犬にそうするように「待て」のポーズをすると、素早く朝食の準備をし始めた。卵焼きと――拓兎なりに消化の良いものをと思ったのだろう――猫まんまが食卓に並ぶ。いつものように二人で手を合わせて「いただきます」を言うと、くぅっと腹が鳴った。調子が悪くても腹は減る。子供のように猫まんまを口の中に書き込んでいると、拓兎が消していたテレビをつけた。
そういえば、先ほど見た拓兎のインタビュー。あの続きで彼は何を語ったのだろう。どうして、彼はテレビを消したのだろう。
「なあ、拓兎」
「なんだ。食欲ないなら無理に食うなよ」
「そうじゃなくて……あのインタビュー……あの後なんて答えたんだ?」
「……何のことだ」
「しらばっくれるなよ。新曲、あれ、どんなイメージで作ったんだ?」
ぽつぽつとそう尋ねると、拓兎は眉間に皺を寄せながら「それは、」と声を出す。それと同時にテレビからあの曲が流れ始めた。
「あ、」
『緊急インタビュー! 昨日発売されたタクトさんのニューシングル! いつもの曲とは違うしっとりとしたラブバラードの今回の新曲ですが、タクトさんはこの曲にどんな思いを込めたのでしょうか!』
先ほどした内容をまた放送しているようだ。拓兎は苦虫を噛み潰したような顔をしてテレビのリモコンを掴んだ。
「消すぞ」
「ダメだ」
「あ、こら、病人はおとなしく、」
『タクトさん、今回の新曲も素敵でしたね!』
『ありがとうございます』
『今回は、いつもの雰囲気とは一風変わってしっとりとしたラブバラードですが、どんなイメージで曲を作られたんですか?』
『この曲は、恋人のことを思いながら書いたんです。まあ、いつも恋人のこと思いながら曲を書いてるんですけど』
『え、タクトさん恋人がいるんですか?』
『俺、デビュー当時から恋人がいるって公言してるんですよ、実は。同棲してます。ラブラブです。気になったらSNS見てください』
『そう、だったんですかぁ……え、えっと、それで、どんな思いを……』
『実は、恋人、一年前までブラックな会社に勤めてて、ぶっ倒れたことがあったんです。そのとき、本気でこいつ、死んじまうんじゃ無いかって思って……そのときの不安な気持ちとか、恋人へ対する思いとか、いつか曲にして俺なりに表現して伝えてやりたいなって思ったんです。でも、やっぱり苦しい思い出なんで、中々曲が書けなかったんですよ。
でも、今回、マンガ原作のドラマに曲を提供することになって、そのマンガの内容が一年前の俺と重なって、あ、書くならここだなと思って、生まれたのがこの曲なんです』
テレビの中の拓兎は、淡々とそう語る。それを聞きながら俺の目の前にいる拓兎は眼鏡の下に手を滑り込ませながら顔を覆って俯いた。照れている。あの、拓兎が照れている。その様子が、酷く愛おしく思えて思わず笑ってしまった。
「俺のこと、思って書いてくれたのか」
「どの曲もそうだっていってるだろ。昨日、二ラウンド目で歌ってたのもそうだぞ」
「その話止めろよ。というか、セックスしながら自分の曲歌うのを止めろ」
「歌ってる方が、感度が上がる気がするんだ、お前の」
「うるっさい」
実際そうだから何も言えない。俺は俯いたまま甘い卵焼きをむさぼった。そんな俺を拓兎は頬杖をつきながら眺める。不意に伸びた手が俺の頭を撫でた。
「今流れてた曲も飽きるほど聴かせてやるから、早く良くなれよ」
テレビでは絶対に見せない優しく甘い声。
それに俺は、やはり何も言えず、微笑みながら無言で頷くのだった。
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