3 / 10

第1.5話

冷たい空気が満ちたマンションの一室。闇とカーテン越しの月の明かりに包まれた室内を満たすのは静寂――だけではなかった。 リビングの奥。 寝室へ繋がる扉の向こうから聞こえるのは、ほどよい低音と心地よい高音を織り交ぜた男性の歌声。それと、メロディーと全く噛み合っていない男声の嬌声だった。耳を澄ませば澄ますほどに、声の隙間から聞こえる何かを掻き回すような粘着質な水の音と、肉と肉とがぶつかり合う音が濃く響いてくる。 荒い息とともに奏でられていた曲は、何かを耐えるような呻き声によって終止符が打たれた。急に呼吸音以外の音が空間から消え去る。一糸纏わぬ姿で一曲歌い終えた男は肩で息をし、汗でぐちゃぐちゃになった長い前髪を掻き上げながら、真っ赤な舌で舌舐めずりをした。 「どうだ、真。お前が聞きたがっていた俺の新曲は――て、もうまともに聞こえてないか」 男は乾いた声で笑いながら自分の下で途切れ途切れの甘い声を漏らし、息をしているもう一人の男に笑いかけた。だが、返事は一向に返ってこない。 数分前までは切なげに上に跨がる男のことだけを見つめていた瞳は、今は焦点の合わない虚ろな目で何処か空虚を眺めている。 首筋を撫でるだけで甘く鳴き声を上げ、痙攣するほどに敏感になった真の身体。それを思い切り抱きしめると、彼の中に沈めていた物がさらに深く、奥底へと入り込んでいく。一際鋭く、高い声。血色の滲んだ肌が震えたかと思えば、真は再びベッドに身体を深く沈め込ませる。彼の腹元にはいつ吐き出されたかも今になっては皆目見当がつかないドロドロとした白濁の粘液が散り、這っている。それを、男はやはり楽しそうに笑いながら見下ろした。 「好感触だな……そんなに良かったのか?」 その声に、真はやっと宙を漂っていた意識を自分の中へと引き戻した。また直ぐに絶頂するほどでは無いとは言えど、いつ爆発するかわからない熱が腹の奥で燻っている。それを確かに感じながら、真は甘い空気を吸い込みすぎて乾ききった喉からやっと喘ぎ声以外の声を絞り出した。 「た、くとの……」 「俺の? なんだ、言ってみろ」 この男はいつもそうだ。自分が意欲的に行おうとしていることに対しても直ぐ先回りをする。そして、さも自分が相手の行動の権限を握っているかの如く命令を下すのだ。 素面であれば癪に障るやもしれない拓兎の言葉も、今の真にとってはただの媚薬であり、心を犯される新たな刺激にしかならない。ドクドクと鳴る心臓とクラクラする頭に可笑しくなってしまいそうになりながら、真は少しだけ口元を上げてなんとか言葉を紡いだ。 「たくとの、声……きもちいい……」 真の言葉に、拓兎は一瞬呆けたように目を丸くし、直ぐに堪えられなくなったのか、遂に声を上げて笑い始めた。何か可笑しなことを言っただろうか。自分は素直に自分の気持ちを言葉にしただけなのに。訳がわからなくなってしまっている真の耳元に拓兎はゆっくりと唇を寄せた。 「なら、声だけでイかせてやろうか?」 その甘美な声に思わず声を上げると、拓兎は笑い声を必死に堪えて起き上がった。そしてそのまま体制を整えると、容赦なく真の中に埋めていた男根を引き抜く。真の唇から溢れた切なげな鳴き声に、拓兎は心底心を痛めているようで、眉を下げると優しく真の頬を撫でた。その手を真は必死になって掴むとじっと拓兎の目を見つめた。 「声だけじゃ、たりねぇよ」 「なんだと。俺はこれでも常々ネットで「耳が孕む」とコメントをもらう歌声の持ち主だぞ。お前も声だけで孕めよ」 「無茶言うなよ」 「じゃあ、孕めまでは言わないから、囁くだけでイけるようになれ」 「それも無理だって……お、い……」 「大丈夫。最初はこっちも弄ってイかせてやるから。徐々に、徐々に、な?」 拓兎の細い指先が真の下腹部へと伸びる。その手を、この後されるのであろう言葉の愛撫を欲して止まない自分がいる一方で、それ以上に身体の倦怠感と圧倒的な眠気から逃れられなくなってしまっていることに真は気がつく。そして、そのままゆっくりと瞼を閉じた。 視界が闇に染まる。途端に意識が、先ほど快楽に浸っていたときとは違うトビ方をしそうになって、真は小さく声を上げた。 「真?」 「……ごめん、めっちゃ眠い」 「しまった。また無理をさせすぎたか。お前の可愛い顔を見ているとどうも抑えられなくなってしまうな」 拓兎はそう言って今はかけていないのに、眼鏡をあげるような仕草をした後、真の頭を優しく撫でた。その指先にさえも胸が苦しくなってしまうのだから、自分はよっぽど重症であることが、微睡みの中へ転落しかけている真の頭でもはっきりとわかった。 「拓兎」 「なんだ?」 「なんか歌って」 「いいのか。お前俺の声に欲情するんだろ」 「お前、言い方……ちが、ちがくて、お前の声聞いてると、えっちとか抜きで気持ちよくて、安心できるから……」 「そう、なのか。そうだったのか……まさか、お前、小学校とか中学とかで俺が泊まりに行ったときに、俺が喋ってるのにいっつも一人で先に寝てたのそう言うことか!」 「た、たしかに……そうか、も……」 「それとは別で、お前が俺のバンドのデモ音源聴きながら一人でしてたことあったよな」 「人がしてるところ覗くとか……悪趣味……」 真の唇からぽつりぽつりとこぼれ落ちる音は、徐々に小さくなり、掠れていく。それに拓兎は諦めではなく恍惚の色に染まった吐息を漏らした。 甘くぬるい空気を肺に吸い込んで、ゆっくりと、先ほど暴力的に歌い上げた歌と同じ歌を、先ほどとは違い優しい、唯々優しい声で奏でる。緩く、柔く、空気が揺れる。官能的な甘さとはまた違った甘さが寝室にとくり、とくりと注がれていった。 規則的に繰り返される呼吸音と、心臓の音をメトロノームにして。穏やかな顔で、寝息を立てる真に、拓兎は子守歌のようにラブソングを浴びせ続けた。

ともだちにシェアしよう!