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第2話

俺と拓兎が恋人同士になったのは、俺が体も心も壊して仕事を辞め、拓人の提案で彼の部屋で一緒に暮らすようになってからだ。 この事は決して嘘も偽りもない事実なのだが、昔から俺達のことを知っている――特に高校時代の友人達は、そう丁度今のように、皆口を揃えてこう言う。 「お前達は、高校時代から付き合っていただろう」と。 その指摘をされる度に、俺は「どう説明をしようか」と悩み、同時に当時俺の我儘に付き合ってくれた拓兎に痛烈な申し訳なさを感じるのだ。 これから俺は、様々な人を惑わせ、戸惑わせてしまっている高校時代のことを――俺が妄信していた「かみさま」という名の、自分が世間の謳う「常識」から逸脱することを、そして自分の犯した過ちを許せない自分自身を恐れ、拓兎と恋人同士になれなかった弱く愚かな自分のことを告白する。 そう、これは、身勝手なあまり人を傷つけ、自分を傷つけ続けた罪に対する、ある種の懺悔である――。 * 高校二年の秋。時は午後五時。校舎は茜色に染まり、辺りに香る金木犀の香りがもの悲しさを増殖させていく。体育館へ繋がる通路の側にある物置小屋へ向かいながら、俺は憂鬱な思いで押しつぶされそうになっていた。 制服のズボンに手を突っ込むと、指先に冷たい長方形が手に触れる。電源を入れる為のボタンに録音ボタンと再生ボタン。それと、イヤフォンの端子を差し込むための小さな穴。それをなぞり、俺は昨夜の「過ち」を思い出して勝手に死んでしまいたくなっていた。 運動靴が砂利を踏み目的地へ向かう。所々赤さびが目立つプレハブ小屋が見えてくると、小屋の中から漏れるギターの音量が次第に上がっていった。腹に響くようなドラムの音に鼓膜を突き上げるベースの音。それに混ざって聞こえた歌声が狙ったかのように的確に俺の脳みそを震わせる。だんだんと頭に上ってきた血の熱さを感じ、今すぐここを離れたくなった。 こんな顔、あいつに見られたくない。そうはっきりと頭が言っているのに、足は何故か小屋の前へ向かい、止った。 薄い扉。そこから漏れ出す爆音が、急に止ったかと思うと目の前の扉が急に開き、頭上に急に影ができた。 「あれ、真ちゃんやん」 八重歯とほわほわと柔らかい関西弁が特徴的な紅髪の男は俺の目線に合わせるためか大きな体躯を無理矢理にかがませ、どないしたん、と首を傾けた。確か、名前は「茜屋翔」だったはずだ。そう彼の名前を思い出していたら小屋の奥からどんどん人が集まってくる。いつも黒いマスクをつけている中性的な顔立ちをしているのが「牧野麻」。茶髪で耳にピアスをつけているのが一つ下の後輩「古坂鉄雄」だ。そして、一番奥から来たのが―― 「如何した真。帰るにはまだ早い時間だろ」 「た、拓兎」 俺の幼馴染みの「浅木拓兎」。俺が今一番会いたくて、一番会いたくなかった男だ。俺は、彼にこのポケットの中にあるモノを返しに来た。本来、今俺が持っているはずではないモノを、拓兎に返しに。 彼が軽音部で演奏を録音するために使っているボイスレコーダー。これは、拓兎の部屋にあったモノだ。拓兎の部屋にあったはずのモノが、家に帰って制服を脱いだときにズボンのポケットから滑り落ちた。何かの拍子にポケットに入ったのだろう。直ぐに返せば良かったものを、俺はあろうことか――。思い出したら本当に消えてしまいたくなってきた。 そんな俺の疚しさなど知らない拓兎はただじっと俺を見つめてきた。見慣れているはずの彼の顔。それなのに、彼の顔を――何かを見透かすようにじっとこちらを見つめてくる黒々とした瞳を見るのが怖くなってしまって俺は思わず目を逸らしてしまった。何かが、具体的には拓兎の周りに漂っていた空気が軋むような音が響いた気がした。 「何、拓兎。高藤になんかしたの」 「してない! はずだ」 「心当たりあるって顔しとるやないかい」 「うるっせぇな、アカネ! 真、俺が何かしたなら謝ってやるから、な?」 「なんで、上から目線なんですか。ほら、真ちゃん先輩泣かないで」 「真に近づくな! 俺のだぞ!」 そう言って拓兎は俺の方に近づくと、急に腕を広げそのまま俺を抱きしめた。男性物の香水の匂い。拓兎の部屋にふんわりと漂っている甘くて、何処か辛い匂いだ。この匂いを嗅ぐと、いつも頭がクラクラする。なんと表現をすれば良いのだろうか。兎に角、危険な匂いなのだ。 そんな匂いに物理的に包まれている。そんな状況で心臓が持つわけがない。それに加えて、昨日の記憶がフラッシュバックして俺は思わず生唾を飲んだ。 どうしよう。このまま動かない訳にもいかない。そんなことを考えていると、俺の背中を抱きしめていた拓兎の手がゆっくりと、下へと伸びていくのを感じた。拓兎越しに見える彼のバンドメンバーが露骨に目を見開いているのが見える。声を上げて拓兎を静止しようとすると、拓兎の指は捜し物を見つけたかのようにとあるところで止った。 「これを返しに来たんだろう?」 「……な、んで」 拓兎はボイスレコーダーをポケットから引き抜くと俺からゆっくりと離れた。心臓がうるさい。熱と混乱で思考がままならない。静かに笑い俺を見下ろす拓兎の目と、彼の言葉で、俺はすべてを察した。 「良い曲だっただろう?」 彼だ。彼が俺のズボンにそれを忍ばせたのだ。わざと。 しかし、なんのために。曲を聴いて欲しかったから。本当にそんな理由なのか。理由が、目的だけが深淵に落とされたように見当たらない。 訳がわからず、言葉を失っている俺に、茜屋が無邪気に笑いながら声をかけてきた。 「もしかして、昨日撮った曲聴いた? ちょっと前に流行ったドラマの主題歌のやつ。昨日、なんやみんな調子よかって、めっちゃよぉ撮れたんよ。ギター俺やねん。わかった?」 「いや、誰がどの楽器弾いてるかは……」 「はぁああぁん? 自分、ほんま拓兎以外に興味ないんやな」 「はぁ!?」 思わず声を荒げてしまったが、茜屋はそんなこと気にもしていないらしい。直ぐにいつも通りのふにゃんとした顔をして「俺、ギター担当。ちゃんと覚えとってなぁ」と言って笑った。吐き出し損ねた言葉が腹に溜まる。俺はどうしようもなくなって「おう」とだけ返事を返した。 「さて、と。じゃあ、真が迎えに来たところだし、俺は帰るな」 「ほいほい、おつ~」 「お疲れ様」 「おつおつでーす。真ちゃん先輩、今度は練習中に来てよ! いいよぉ、拓兎先輩の生声」 「考えとく」 そうは答えたが、録音の音声であんな風になってしまったのだ。きっと、俺が拓兎の生の歌声を聞くことなど、きっと、もうできないのだろう。 プレハブ小屋を出ると、赤い日の光に包まれる。その光を浴びていると、幼い頃の記憶が急に引っ張り出された。 淡い、ステンドグラスの光が落ちる教会。白い服を纏って歌う拓兎の歌声を純粋な気持ちで聞いていたあの頃が懐かしくて、苦しくて、仕方がなくなった。 黄色に染まりかけた銀杏並木を歩く。いつもはくだらない話を交わし合うはずなのに、何故か今日は会話が碌に続かなかった。拓兎が何かを話しかけ、俺がそれに一言答えて終了。そんな会話とも言えない会話が、遂に途切れ、俺たちはお互いの家の前にたどり着いた。隣り合った二軒の家。どちらにも灯りはともっておらず、もの悲しさだけが家からあふれ出ていた。 「今日も、親が帰るのは遅いのか」 「あぁ。お前も?」 「まあな……っていつものことだから、確認する必要もないんだがな」 「そう、だな」 「……」 「……」 「真」 「なんだ」 「今日も来いよ。俺の家」 「また、何か忍ばせる気か」 「今日は特に何もないんだ。残念だったな」 「別に、残念じゃ……というか、なんであんなことしたんだ」 「お前にあの歌聴いて欲しくて」 嘘偽りのない言葉だった。その言葉のせいで、自分の醜さがさらに浮き彫りになる。恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだ。胸が苦しい。 とても良い曲だった。原曲も良いのだけれど、拓兎の声で、あの繊細な歌詞が紡がれることで優しさと、切なさがより鮮明に表されていて、聴いているだけで胸が切なくて締め付けられた。それだけで、よかったのだ。そこで、感情の向上に歯止めがかけられていたら良かったのに。 イヤフォンで聴いたせいだろうか。耳元で、囁かれている錯覚でも起こしたのだろうか。拓兎が歌うところを想像したのだろうか。それとも、それとも。 ループ再生にしていた曲が一巡して、また始まったとき。俺は肩で息をしながら、呆然と、自分から吐き出された白く濁った粘液のついた右手を眺めていた。自分が一体何をしたのか。一瞬自分でもわからなかった。けれど、溢れる息とともに吐き出された名前を聞いて、顔が真っ赤になって、そのまま後悔に押しつぶされながら、久しぶりに声を上げて泣いた。 俺は、幼馴染みの歌声に欲情したのだ。 側にいてくれるだけ良かったのに。触れずとも、言葉を交わしてくれるだけで良かったのに。彼を、俺は、性的対象として見ていたのだ。 それが信じられなくて、でもどうしようもなくて。叶いもしない恋心に気がついてしまって、持ってはいけない感情に――ちゃんと昔、封じ込めたはずの感情に罪悪感を抱き、苦しいまま、昨日は碌に寝ることも許されなかった。いや、許されるはずがないのだ。 「真?」 どのくらい黙ってしまっていたのだろう。拓兎の声に我に返る。よかったよ、と曲の感想を告げると、拓兎は笑顔のままで俺の頬を思い切り引っ張った。思わず声を上げると拓兎は何故か得意げに笑った。その笑顔が愛おしくて仕方なくて、また胸が痛んだ。 「曲は、すげぇよかったよ」 「そうか。まぁ、当然だな」 「……また、新しい曲が撮れたら聴かせてくれよ。今度は、こっそり俺のポケットにボイスレコーダー忍ばせるなんてことしないでさ」 俺は、まだ心の何処かで昨日のアレは嘘だったと信じたくて堪らなかったらしい。そんな戯れ言を口にすると、案の定、視線は拓兎の顔から風に吹かれた木の葉が転がるアスファルトへと移っていった。露骨な反応をしてしまったからだろう。拓兎は無言で、自分の家へと帰ろうとする俺の腕を無理矢理掴んで自分の家の玄関へ足を進める。俺はその手を振りほどくことさえ出来ずに、大人しく拓兎についていった。 玄関の扉が開かれる。浅木家はその日も静かで、冷たい空気が広がっていた。 拓兎の両親は共働きで、しかも、二人とも海外出張が多い。現在も二人ともアメリカの方に出張中だ。俺の家も共働きだが、両方ともが出張に行くことはなく、夜になれば二人とも家に帰ってくるため、拓兎の両親が海外へ出張に行っている間、拓兎が俺の家に泊まりに来ることがよくあった。 だが、泊まりもいつの間にか減り、高校に入ると拓兎が俺の部屋に寝泊まりすることはなくなった。 それでも、学校が終わった後、一緒に帰り、拓兎の部屋で宿題をして、一緒に過ごして、親が帰ってくるのが遅くなったら一緒に飯を食って、親が帰ってきたら俺が家に帰ってという毎日は変わらずそこにあって。それが、拓兎が家に来ない分の心のさみしさを少しだけ埋めてくれていた。 けれど、今は違う。昨日までとは、何もかも。 家に上がっても拓兎は手を放してはくれず、俺は導かれるままに階段を上り、拓兎の部屋に入る。白と黒の家具で統一されたその部屋は、見慣れているはずなのに、今日はまるで全く知らない場所かのように感じた。居心地が悪い。いつもは安心するはずの、拓兎の香りに満ちた部屋。そのはずなのに、どうして、こんなにも苦しくなるのだろう。 腕の掴んでいた拓兎の手が離れた。それを反射的に握ると、拓兎は一瞬だけ驚いた顔をして、直ぐに口の端を歪めた。 「どうした。逃げたがっていたくせに」 「わかってたのかよ」 「わかるさ。どうした。何かあったのか」 「……別に、何も」 「嘘つきめ」 急に耳元でそう囁かれ、俺は拓兎の手を放した。限界だ。このままでは。 身体を翻す。そのままドアノブに手をかけようとした瞬間、待て、という声とともに身体を後ろに引っ張られた。思わず、あっ、と声が漏れる。想像以上に身体が揺らぎ、足がもつれる。一瞬、目を見開く拓兎の顔が瞳に映り、直後白い天井が目に映った。 倒れた。だが背中に痛みは一切感じず、痛覚の代わりに嗅覚が過剰に反応していた。甘い匂い。花の匂いだ。ラベンダーの香り。拓兎がつけている、香水からする物と、同じ匂い。 その匂いとともに感じた暖かさと、身体に絡む柔らかさに息を呑む。自分の腕が今絡んでいる、手がしがんでいるものが何なのかに気がつくと同時に顔が一気に熱くなった。濡羽色の髪が目の端で揺れる。 「たく、と」 名前を呼ぶと、俺の身体の上に乗っていた拓兎の身体が少しだけ離れた。離れてできた隙間をかすめる空気が冷たい。体勢を直すように、拓兎の腕は俺の身体から離れてしまった。彼は俺の顔の横に手を置くとゆっくりと身体を起こして、俺を見下ろす。 赤く染まった顔。苦しそうに、悔しそうに顔を歪め、拓兎は俺を見つめた。その顔が、昨日、頭の中に現われた彼によく似ていて、俺は目を逸らすどころか彼の顔に釘付けになってしまった。 息が上がる。どうしようもない衝動に駆られ、彼の背中に回している手に力を入れた。苦しい。息がうまく出来ない。 「やめろ」 絞り出すように拓兎が声を漏らす。 「そんな、顔をするな」 今、俺はいったいどんな顔をしているのだろう。相当惨めな表情に違いない。俺は拓兎にこれ以上酷い顔を見せまいと、やっと首を動かして拓兎から目を逸らす。すると今度は右耳に柔らかいと息が触れた。声が出そうになり、必死に歯を食いしばる。だが、俺の苦悩を弄ぶように吐息は耳をくすぐり続けた。 「離れないんだ。昨日のお前の顔が」 「きのう、って……何のこと、」 「可愛かったよ。お前がイくところ」 急に内臓が冷やされたような感覚が身体を襲った。額にじっとりと汗が滲む。俺は目を動かして、彼の部屋の窓を見た。窓の向こう側。丁度、拓兎の部屋と隣り合う形に、俺の部屋は位置しているのだ。そういえば、昨日の夜、俺はカーテンを閉めるのを忘れていた。そのことを思い出すと、腕に鳥肌が立ったのを感じた。 見られていた。拓兎に。あろうことか、彼の歌を聴きながら自分を慰めている姿を。 それが恥ずかしくて仕方ないはずなのに、拓兎がそんな俺の惨めな姿を見て興奮している事実が嬉しくて、胸が痛くなった。 拓兎の唇が首筋に触れる。唇を噛んでも身体に走る電流のような快楽から逃れることが出来ない。どんどん頭がぼんやりしてきて、視界が冷たい涙で滲んだ。 「真」 今まで聞いたことがないような熱っぽい拓兎の声。 「悪い。抑えられない。もう、我慢できない」 獣のような目。ギラついたその瞳が、拓兎のことが好きだといっていたクラスの女子でも、バンドのファンの女の子でもなく、他でもない、俺に向いている。俺は確かに自分の口元が歪むのを感じた。 吐きそうになる。罪悪感と絶望感で脳が揺れる。でも、それ以上に身体が疼き、喉が、心が渇くのを感じる。 欲しい。欲しい。 「拓兎」 あぁ、神様。 「いいよ」 愚かで浅ましい俺を許してください。 そんな願いが神様なんかに届くはずもなく、頷きを返したのは目を細める――どこか、何故か、勝ち誇ったような顔をする――拓兎だけだった。 いつも柔らかそうだなと思っていた拓兎のベッドは想像以上に柔らかくて、身体を沈ませ、僅かに動かせばふんわりとラベンダーのような辛くて甘い香りが舞い上がった。今までにないくらいに拓兎の纏う香りに包まれる。それだけで身体が熱くなり、息が上がった。 思考はままならず、拓兎の声すらも碌に聞こえない。落とされる質問にはすべて「うん」で答え続けた。答える毎に、服の上着を脱がされ、カッターシャツのボタンを外され、ズボンのベルトを外される。 拓兎の指で静かにズボンを下げられる。露出した足を冷たい空気が撫でた。思わず息を呑むと拓兎は赤い舌を口から覗かせて笑った。 悪魔のようだ。だが、堕とされるなら本望だとそう思ってしまう。求めるように腕を伸ばせば、角の生えていない悪魔はゆっくりと躰を重ねてきた。 水の音。 荒い息。 笑う声。 混ざる音。 耳元で拓兎に何かを言われる度に意識が曖昧になり、自分がどんな声を出しているのかさえわからなくなる。初めは楽器でも扱うかのように優しく躰をなぞっていた彼の指は、今は、熱くなった俺の中心と自分のものとを一緒に包み込むようにして激しく扱き続けていた。一度目に吐き出した液体でドロドロになった指。彼の指を汚してしまったことに後悔や背徳感以上に興奮を覚えてしまっている自分に嫌気がさした。 「気持ちいいか?」 「う、ん」 「なら良かった。昨日に比べたら幾分苦しそうに見えたから」 昨日。彼は一体いつから俺を見ていたんだろう。曲を聴き始めた時か。それとも、一人で慰め始めた時か。今となっては全く見当がつかないし、わかりたいとも思わない。もう、そんなことどうでもいい。 「気持ち良い」の言葉だけが頭の中を支配する。俺と同じ言葉で頭をいっぱいにし、飢えた狼のように俺の躰を求め、自分の快楽を満たすために指を動かし続ける拓兎の姿を俺は嬌声を吐き出しながら見上げた。戸惑うような、罪悪感で押しつぶされそうな、それでいて嬉しくて堪らなそうな、乱れた拓兎の顔。それが、可愛らしくて仕方が無い。彼が俺と身体を重ねて、性を擦りつけ合わせて快楽に染められていることに確かな恍惚を感じ溺れる。 拓兎、と彼の名前を呼ぶ。すると彼の顔が近づいてきて、嬉しくて、堪らなくなって口を開いた。それに拓兎は一瞬驚きながらも嬉しそうに応えてくれる。たどたどしい口づけとともに下腹部に絶え間なく与えられる快楽に声にならない悲鳴が上がる。俺の躰が震えるとほぼ同時に、拓兎も小さく唸り声を上げた。 唇を離すと、急に寂しさが襲ってきて、俺は拓兎の背中にしがみついた。倒れ込んだ彼の身体を抱きかかえながら荒い息を二人で交わし合う。ぼんやりと互いの顔を眺め合っていると、次第に顔が熱くなっていった。今更、急に恥ずかしくなってくる。ぎこちない笑顔を浮かべ合うと、拓兎がゆっくりと口を動かした。 「好きだ」 「たくと、」 「順番が可笑しくなってしまったな。好きだ、真。お前を愛してる。ずっと、ずっと前から、昨日なんかより遙か前から恋い焦がれていた。お前はどうだ。まあ、言わなくてもわかるが」 その言葉に思わず声を上げて泣いてしまう。頭の中がぐちゃぐちゃだ。嬉しくて、それ以上に恐怖や後ろめたさが襲ってきて、それでも幸せで訳がわからない。ほとんどパニック状態になっている俺の頭を拓兎はまるで赤子をあやすような優しい手つきで撫でた。そして、直ぐにハッとする。 「すまん、何も考えずに普通に弄った方の手で撫でた。うわ、ベトベト、」 離れそうになった拓兎の手を掴み、白濁した体液にまみれる拓兎の右手に頬をすり寄せた。お世辞にも良い匂いがするとは言えないし、ベタベタして気持ちが悪い。それでも、離れたくない。離したくないと強欲な俺は、そう思ってしまった。 「拓兎、俺……俺も、拓兎のこと、」 そう声を出した瞬間、急に冷たい空気に頭を引っ張られるような感覚が襲ってきた。それと同時に喉がヒュッと音を鳴らす。胃の中を管か何かで掻き回されるような苦しさに助けを求めるように拓兎の手を強く握ると、拓兎はいつもと変わらない強気で、それでいて優しい笑顔を浮かべた。 あぁ、止めてくれ。 邪魔しないでくれ。 頭の中でどんなに怒鳴ってもセーラー服姿の女子生徒の姿と「気持ち悪い」と蔑む声が頭に響く。中学の校舎裏。湿った土の臭いが肺に絡みつく。その後に美術室で嗅いだ油絵の具の臭いが喉を刺す。胃酸がぎゅっと込み上げて来た。 頭の中で誰かの声が俺のことをずっと、ずっと責め続ける。「いけない」と。その感情は「間違っている」と。 「ごめん、なさい」 先ほどとは違う涙が溢れ続ける。視界が滲んでぼやけても、それでも拓兎の顔は綺麗で、それが何故か悲しくてさらに涙が溢れた。 「どうして謝る――あぁ、なるほど、わかった。あいつが邪魔するのか」 拓兎は悔しそうに顔を歪めると、祈るような穏やかな顔で俺の眉間に口づけをする。そしてそのまま優しく俺の頭を撫でた。温かい。呼吸が少しずつ落ち着いて、頭のモヤも少しだけ薄くなっていった。 「大丈夫。お前のことをいじめる奴はここにはいない。お前が持っている感情も、俺たちが愛し合うことも何も気持ち悪いことじゃないよ」 催眠術でもかけられているように緩やかに、深く心が落ち着いていく。 好きだ。好きで堪らない。拓兎のこと。 ずっと抱きしめ合っていたい。息が出来なくなるまでキスをして、互いの身体の境界がなくなるほどに溶け合いたい。 なのに。だけど。 「でも、俺は――どうしても、許せない。許されてない」 「何を言って、」 「俺はお前に愛される資格なんてないんだ」 拓兎の頬を撫でる。顔を両手で撫で回す。熱く火照った頬に触れれば触れるほど、彼の熱を感じれば感じるほど、あの日の記憶が鮮明に蘇ってきた。 頭の中を埋め尽くすバーミリオン。もう少しで完成だった、彼へ込めた俺の大切な気持ちを塗りつぶして、消し去って、汚した絵の具の赤色。他でもない、俺自身が、自分の意思で塗りつぶした、大好きな、大切な拓兎の顔。 俺が犯した、大きな罪。 「俺みたいな――自分の気持ちを否定したいがためだけに、大切な人の顔を塗りつぶすなんて悪行を、罪を犯した人間は、許されるべきじゃない。愛されるべきじゃないんだよ」 「俺はあの時のこともう気にはしていない」 「でも、」 「一体、誰がそんなにお前のことを責めるんだ」 「……「かみさま」」 俺の一言に拓兎は何かを言おうとして何度も言葉の頭文字をかみ砕き続けた。もう精液で汚れるのを気にする頭は毛頭無いようで、彼は髪の毛を激しく掻き乱しそのままの勢いで乱暴に俺唇に噛みつくようにキスをした。入り込む熱を拒絶するように押し返すが直ぐに口腔内を蹂躙される。激しいはずなのに、そこに暴力的という言葉は一切感じず、寧ろ端々に感じる愛情に、苦しくて涙が溢れてきた。 「ごめん、拓兎。俺、拓兎のことは好きだけど、好きになるのは可笑しくて、間違ってて。だからあんなことしてまで自分の気持ちを抑え込んだのに、そのせいで、拓兎のことを傷付けちゃって。あんなことをしちゃった俺が、みんなに愛されて、みんなに求められてる拓兎のことを独り占めしちゃうなんて、そんなことしちゃいけないし。でも、拓兎に好きって言われるのもキスされるのも嬉しくて、苦しくて、気持ちよくて、でも、あの時みたいに、俺が「気持ち悪い」せいで、拓兎までそう思われるのが嫌で、怖くて。だから、でも、」 「……大丈夫だ。ほら、ゆっくり深呼吸しろ。俺の目を見て。そう、良い子だ。大丈夫……」 「だい、じょうぶ……?」 「そう、大丈夫……俺を好きなことでお前が罪の意識で苛まれるなら、周りからの「そういう眼」で苦しむなら、無理をして俺と付き合う必要は無い。事実、俺は、お前が俺と同じ気持ちだって事がわかっただけで、わかり合えただけで今は十分だからな。お前が望むなら、俺はお前と、幼馴染のままで構わない。だが――」 拓兎の身体がのしかかってくる。不思議と、重たいとも苦しいとも感じなかった。 「このままじゃ、お前はまたあの時のように自分の気持ちを殺すことになるんじゃないか。自分の気持ちだけじゃない。俺がもうお前に、言葉を贈ってしまった以上、気持ちを捧げてしまった以上、今お前が自分の気持ちを否定すれば、俺のことも否定して、俺のこともまた殺すことになる。また、お前の言う「罪」を重ねることになるぞ」 「でも、じゃあ、それなら、どうすれば」 「その罪とやらを償えば良い。お前の罪が否定をしたことなら、その償いは肯定することだろう。だから、俺を好きだというその気持ちを素直に認めて、大切にすれば良い」 拓兎が低く優しい声でそう呟く。目を閉じながらその声を聞いていると、生暖かい浴槽に浸かっているようだった。ずっとここにいてはいけないはずなのに、永遠にその中で微睡んでいたくなるような心地よさ。怖いくらいに優しい世界。 「でも、」 「わかってる。それが今のお前には難しいんだよな。贖罪どうこう以前に、それも出来ないくらいに心に深い傷を負っているから……大丈夫。俺もお前が自分の気持ちに素直になれるように手伝うよ。まずはその頭に張り付いてお前の傷が癒えるのを阻害する邪魔者を――お前の固まり切った自分の気持ちに対しての否定的な考え消さないとな」 「どう、やって?」 「そうだな……」 慈しみながらも、いたぶるような優しい声。 「お前の頭の中にある「気持ち悪い」とか「赦されない」とか「好きになっちゃいけない」とか、そういう負の言葉を俺が全部塗り替えてやるとか……どうだ?」 例えば、こんな風に、と拓兎は俺の耳に唇を寄せた。生暖かい吐息が耳珠を撫でて背筋が粟立つ。ハッと息を呑むと拓兎の唇がゆっくりと動いた。 「お前は悪くない」 突然与えられた言葉に体が震え、視界がぱっと明るくなる。 「そう、お前は何も悪くないんだよ、真。急に否定され、混乱し、衝動的な行動に出てしまうなんて、誰にだってあることだ」 拓兎の右手が優しく脇腹を撫でてくる。肌の上で羽が滑ったようなくすぐったくじれったい疼きに声が出そうになったのを必死に抑えた。ずくずくと胸が痛む。 「俺はあの日のこと、恨んでいない。確かに、ショックを受けてないというと嘘になるが、でも、お前を責めたりはしない」 「た、くと」 「俺はお前のことを赦すよ」 ゾッとするような美しい声に、俺は唯々「嬉しい」と「怖い」を頭の中で叫び続ける。じわじわと何かが溶けていくような心地。 早く、早く汚い赤色が漏れ続けるこの心の傷を塞いで欲しい。いっその事、ボロボロに砕いて拓兎の手で作り直して欲しい。そんな赦されたいという思いと、そうあるべきではないという自責の念が錯綜する。 「刺激が強すぎたか。よしよし。これからゆっくり慣らして、少しずつ傷を治していこうな」 鼻先に軽くキスされる。思わず声を上げれば、拓兎は心底嬉しそうに目を細めた。なんだろう。嬉しい悲しいというより恥ずかしくてむずむずしてきた。 それを紛らわせるように拓兎の頬に頬ずりをすると、返事をするように拓兎は俺の頬に軽く唇を押しつけた。頭の角度を変えて、吐息を漏らせば、今度は唇同士が重なる。 早く赦されたい。この苦痛から、救われたい。 そんな自分勝手極まりない事を頭の中で叫び、ぎゅっと目を閉じる。甘ったるい性の匂いと拓兎の纏う花の匂いが混ざり合う暗い闇に堕ちて沈んでいく。もっと深く沈んでずっと溺れていたい。そんなことを思いながら、ばれないように拓兎の背中に爪を立てた。 * 「……つまり、二人は両思い、スキ同士やけど、真ちゃんのトラウマやらなんやらのせいで長いこと恋人になれんくって、数年。同棲初めてやっと、正式にお付き合いし始めましたちゅうことか」 俺が一通り話し終ると、それを聞いていた茜屋が長い溜息を吐く。納得したような、しかしいまいち消化しきれていないような複雑な顔だ。 「一年前、拓兎に「真と付き合い始めた」っていわれたときは、こいつ何言っとんねん。お前ずっと真ちゃんと付き合っとったやん。頭湧いたんかって思ったけど、そういうことかいな。真ちゃんも色々大変やったんやな――ん? ちょい待ち、そういえば、それなら拓兎のデビュー当時からしとった恋人いる宣言なんやねん」 「事務所の社長からデビュー前に「恋人や婚約者はいるか」って話になったんだよ。主にスキャンダル対策的な意味で必要な情報だろうなって思ってこの事説明したら「面倒くさいから、もうそれ恋人いるってことで良いじゃん」ってなってな」 「あの人懐広いんか面倒くさがり屋なんかようわからへんな……そいや、話に出てきた「塗り替える」ってあれなんやねん。なんか怖いんやけど」 「……聞きたいか?」 「絶対エッチなやつや。絶対エッチなやつや!」 「トラウマを打ち壊すには、快楽と言葉による刷り込みが一番有効とみたんだ。こう、丁寧に、繰り返し、な?」 「洗脳やん……マインドのコントロールやん! 大丈夫か、真ちゃん! 俺が正気に戻してやるからな! いやでも、それだとまた真ちゃんが傷ついてしまう……俺、どないしたらええねん」 「何もするなよ。というかそろそろ帰れよ」 茜屋に肩を揺さぶられていた俺を彼から引き剥がした拓兎は溜息を吐きながら猫を追い払うように手を振った。 茜屋がうちに来たのは数時間前。近くに寄ったということで、茜屋がギターを背負って、近くの揚げたこ屋のたこ焼きが五パック入ったビニール袋を片手に、俺たちの部屋にやってきた。夜の九時。夕食から少し時間が空き、小腹が空いていた俺たちは、突然の茜屋の訪問を快く受け入れ、彼の手土産にむさぼりついた。思ったより腹が減っていたらしく、追加で俺がバイト先で学んだ簡単おつまみを振る舞うと、つまみを食うなら酒を飲まねば、という謎の考えに至った拓兎が缶ビールを開け、気がついたら完全に自宅飲み会が開催されてしまっていた。 一缶目ではまだ素面だったが、飲む本数が増えるにつれ酔いが回って思考を碌にしていない言葉での会話が繰り返されるようになる。そして、茜屋の口から先ほどの暴露話に繋がるトリガーとなる質問が飛びだした。 「そいや、結局お前等、いつから恋人なん? 俺、てっきり高二の……なんや、二人のラブラブ度合いが偉い増した頃から付き合っとるんやとおもっとったんやけど」 そして今に至る。 すべてを聞いた茜屋は呆れきった顔で新しい酒を開けた。プシュリと気持ちいい音を立てて飲み口が開くと、茜屋は勢いよくそれを呷る。喉を鳴らして天井を仰ぐその姿は見ているだけで爽快な気分にさせてくれた。 そんな彼を見ていると、ゆっくりと脇腹に細い腕が絡みついてきた。生ぬるい腕が蛇のように身体に絡みつき、締め付けてくる。 「アカネに見惚れているのか?」 酒が入っているせいか頬が染まり、潤んだ目をしている拓兎はアルコールの匂いがする息を絡ませながらそう囁く。口元から見えるのは不安でなければ嫉妬でもなく、あからさまな自信だった。こういう文言で尋ねられる彼の質問は、いつでも必ず質問ではなく反語だ。語られていない空白に入る文字は「いや、そんなことはない」。一言一句同じでなくとも、そういうことを彼は言いたいのだ。 「別に、見惚れては、」 「当然だ。お前は俺にベタ惚れだからな。アカネ如きでお前の心が揺らぐはずがない」 「人をいちゃつくためのネタとして使わんといてもらえます?」 「ごめん、そういうつもりじゃ、」 「ううん。真ちゃんに言うとるんやないんよぉ。そこのアホ男に言うとるんよぉ」 「やめろ、真に寄るな! 俺のだぞ!」 ぎりぎりと俺を締め付ける力が強くなる。それが苦しいとは一切思わず、一切思えず、むしろもっと抱きしめて欲しいくらいだ。 可笑しい。人前で「欲しい」と思うことはあまりないはずなのに。二人に比べれば、そうでもないと思っていたが俺もやはり酔っているようだ。 少し唇を噛みながら俯いている俺に気がついたのか、茜屋は溜息とも笑い声ともとれない空気を口の端から溢し、立ち上がった。ふらつくかと思ったその足は思ったよりしっかりと地に着いている。彼はそのままギターケースを背負ってリビングの扉の方へ歩いて行った。 「これ以上、二人の邪魔したら失礼やろうし、俺もう帰るわ」 「茜屋、もう帰るのか?」 「聞きたいこと、知りたい謎は解決したしな。それに、真ちゃん、そいつ、もう我慢できひんって顔してるで。昔話して色々刺激された上に酔ってしもうたせいで理性働かんのやろ。相手してやってぇな。ほなな、拓兎。次のリハの予定立ったらまた連絡してな」 ひらひらと手を振る茜屋はこちらを一切振り返らず、リビングを出て行ってしまった。爪先を蹴って靴を履く音に続いて玄関の扉の開閉音が聞こえた。それがまだ消えきっていないのに俺の視界は急に揺れ、場面が真っ白な天井に切り替わった。まさか、我慢が出来ないという言葉が本当だったとは。目に入った拓兎の顔は楽しそうなのにもかかわらず、何処か苦しそうに歪んでいた。いつもは自信満々に上がっている眉がハの字を書いている。それが彼には全くもって似合っていなくて、笑い声を上げると直ぐにそれを塞がれた。ビールの苦みが舌に染みる。しかし、拓兎の唾液と交ざったそれは酷く甘く感じた。 「……しあわせ」 「それは良かった」 「ありがとな、拓兎。俺、あのままだったら多分――」 茜屋が洗脳といっていた拓兎の「赦し」という名の治療。毎日のように優しく抱きしめられ、唱えられた呪文。それがあの日の赤色を少しずつ剥がしていってくれた。 「例え、世界中がお前の敵になったとしても俺だけは、お前の味方でいてやる」 まるでJ-POPの歌詞みたいなその言葉が除光液になってさらさらとこびりついた記憶を落とし、新しい記憶と快楽を塗り重ねていく。完全に剥がれ落ちも塗りつぶすこともなかったが、それでも首を絞め、鳩尾を殴られ、心臓を刺されるような恐怖と苦痛は少しずつ和らいでいった。 きっと、返そうと思えばいつでも、拓兎の「恋人になろう」に「はい」と返事をすることができただろう。そのはずなのに、俺は、何も言わなかった。何も、言えなかった。それどころか、大学に入る際に同棲を持ちかけてきた拓兎に俺は首を振った。まあ、そうして彼を遠ざけたのも、俺が一年前に倒れた原因の一つになってしまったのだが。 罪を償うほど、自分の気持ちを認めれば認めるほど、拓兎のことを好きになればなるほど、まるで闇に堕ちていくのが怖くて、拓兎を遠ざけた。でもほんとうに怖いのは拓兎が離れることで、拓兎とともに堕ちる闇の中は存外心地よいことに気がついたのが、恋人になってからだった。 「ごめんな、拓兎」 「なにが?」 「いっぱい、待たせちゃって」 俺の言葉に、拓兎は口の片方だけを上げると俺の髪を優しく掻き乱した。拓兎の指が頭皮に触れる度にぞわぞわとした感覚に包まれていく。 こういったスキンシップも、キスも、えっちなことも、恋人というはっきりとした名前で結ばれてからのものの方がそうなる前――曖昧なことにしていたものとは比べものにならないくらいに気持ちが良い。気持ちいいと、快楽とともに流れ込んでくる多幸感も比べものにならなくて。 何が言いたいかというと、今俺達は、自分たちでも疑ってしまうくらいに、幸せで、仕方が無いのだ。 「拓兎」 愛おしい恋人の名を呼べば、何も言わずとも柔らかい口づけがふってきた。ゆっくりと、互いの温度を確かめるように、互いの味を堪能するように熱が絡まり合う。息継ぎの合間に嬌笑を浮かべ、俺は彼にばれないように服の上から彼の背中に深く爪を立てた。

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