5 / 10

第2.5話

閉め切ったカーテン。外から聞こえる「夕焼け小焼け」の音。 そしてそれに混ざって聞こえる真の息遣い。 脳の芯を溶かすその声に導かれ、何度も何度も言葉を彼の耳の奥へ注ぎ込んだ。彼の背中の上に覆い被さり、口を耳に寄せて吐息で耳珠を撫でる度、鼓膜へ音を響かせる度、真の肩が震え、彼の口を覆う手に湿った息が触れる。 何故だろう。俺は、彼に愛を囁き、傷つき壊れた彼の心を消毒して縫合しているだけのはずなのに、酷く背徳的な行為をしているような気分になる。そんな白々しいことを考えながら彼の胸元に触れると、今日一番の可愛らしい声が真の口から漏れて、俺は思わず笑い声を漏らした。 治療と呼ぶにはあまりにも刺激が強すぎるし、洗脳と言うほど悪意がある訳ではない。言葉をかけ、肌を撫でる度に真が見せる反応は、消毒液が傷に染みたときのそれと同じで、それならばやはり「治療」と呼ぶのが正しいような気がするし、でも俺がかける言葉に浸る度にぼんやりと蕩けていく真の目を見るとやはり洗脳のような気がする。 「いけないこと」という言葉が一番合うような気がするけれど、真のトラウマを――頭の中にいるというあの邪魔な女と得体の知れない神様面をした何者かを追い出して、真に気兼ねなく、思う存分、俺を愛させる為には――真を楽にしてあげるためにはこれが「いいこと」なのではないか、という気もする。 でも、これはどこからどう見ても、圧倒的にあの日、真が望んでいた「唯の幼馴染」ではない。どうしてこうなったのかと、身に覚えしかないのにもかかわらずとぼけたフリをしていると、真が熱っぽく俺の名前を呼ぶのが聞こえて、そこでいつの間にか自分の口が止っていたことに気がついた。 とっさに真の口から手を放すと、彼は身体をねじりながら仰向けに態勢を変えると、口から大きく息を吸い込み、何度も深呼吸を繰り返す。アメトリンのような不思議な色をした美しい瞳は涙に濡れ、不安げに俺を見つめていた。 「悪い。少し、考え事をしていた」 「……誰のことを考えてたんだ?」 「何を」ではなく「誰のことを」など、可笑しなことを訊く。まさか、俺が真と一緒にいながら、別の人間のことを考えるとでも思ったのだろうか。そんなことなどあり得るはずがないのに。 本当に真は心配性だ。この心配も不安も、空っぽのその心に俺が愛情をいっぱいに満たしてあげれば消えるのだろうが、注ぐ器が欠けて、ひび割れているせいか、どれだけ愛情を送っても、それは無情にも溢れて消えていってしまう。やはり何よりも先に優先すべきは、心の修復のようである。 でも、具体的にトラウマの克服とはどのようにするのだろう。 その方法は? 俺がしていることは果たして正しいのか? そんなことを頭で永遠と考えながら、俺は僅かに微笑んだ。 「お前のことを考えていたんだよ、真」 嘘偽りのない回答を、まっすぐに伝え額に口付けをすると、真が肩を震わせながら大きく息を吐いた。笑い声のような音を孕んだ甘い息。顔を確認すると口元が僅かに緩んでいて、思わず息を呑んだ。衝動的に彼の身体を抱きしめる。すると、ぎこちない手つきではあるが、ゆっくりと、真の腕が身体に絡みついてきた。 「俺が、お前のことを考えてるってわかって安心した?」 「……うん」 「嬉しかった?」 「……うん」 「ほら、ちゃんと「嬉しかった」って言って」 「そんなこと、俺なんかに言われても、気持ち、悪いだけだろ、」 「そんなことはない。嬉しいよ。凄く嬉しい」 こうやって、真の中の「気持ち悪い」だの「おかしい」だのという感情を、思考を俺の言葉で塗りつぶし、殺していく。僅かばかり残っていた疑念や迷いを消すように頭を撫で、じっと瞳を見つめると、真は小さく唇を動かした。 声こそ出ていないが、確かに彼が「嬉しかった」と言ったのがわかった俺は、それだけで心が満たされたような心地がして、ぞわぞわと耳や脊髄を撫でる心地の良さに酔う。嬉しくて、堪らなくて、それを体現するように優しくキスをして、パッと頭に浮かんだ以前聴いたラブソングを口ずさむと、真は顔を赤くして、むず痒そうに口を動かした。 歌声を響かせながら、彼の身体を優しく愛撫する。大好きな俺の歌声を聞いているからだろうか。幾分か感度が増したようで、真は身体をびくつかせながら気持ちよさそうに顔を歪めた。 口の端から唾液が流れ落ちていることさえ気にならない様子で喘ぐ。嬉しそうで、苦しそうなその顔さえも愛おしくて堪らなくなった。 「……愛してるよ、真」 先ほど散々浴びせた言葉なのに、真はまるで初めてそれを耳にしたかのような表情を見せ、俯いた。苦しげであるが確かに悦の混ざった喜びを示す表情。先ほど以上に身体が火照ってきたのか口から熱い息を漏らし、先ほどよりも強く俺の身体を抱きしめてくる。 「すき……たくと、すき……すき、だ……」 今日あげた分を返すように、丁寧に真は呟き続ける。その言葉が甘いサイダーとなって、パチパチと身体の中へ、心の中に染みこんでくる。それが気持ちよくて、真を抱きしめる腕に力を込めると、僅かに真の身体が震え、絡みついていた腕がゆっくりと布団へ落ちていった。 急に夢から覚めたように頭の中がはっきりと澄んでしまって、俺は真の名前を呼ぶ。すると、真は口を噤み、静かに涙を流し始めた。そして、今度は口から謝罪の言葉が溢れ始める。 「ごめん。ごめん……今言ったことは忘れて欲しい」 「何を言っているんだ。謝るようなことじゃないし、それに、俺はお前に「好き」と言ってもらえて嬉しい。心の底から、とてつもなく。だから、いいんだよ。もっと言っても。というか、もっと言ってくれ」 「でも、」 「大丈夫。ここには「あいつ」はいないし、ここは学校でも、あの美術室でもない。ここにはお前を傷つけるものは何もないよ。だから、少しぐらい、自分の気持ちに正直になってもいいんじゃないか?」 大丈夫と、怖くないと、何度も繰り返しそう言う。 洗脳するように。催眠術でもかけるように。真の頭の中にいる邪魔者を消すように。真の頭が何も考えられなくなるように。俺の事しか考えられなくなるように。 すると、だんだん真の瞳がぼんやりと、とろりと微睡んでいって、何故か溢れる涙の量が増えていった。無意識のうちに眉間に皺が寄る。 「真、どうした、」 「どうして、」 掠れた声。震えていて、棘が張り巡らされた声が、苦しそうに真の口から溢れた。 「どうして、俺なの?」 「――は?」 「他にも、お前のことを好きな人は、お前のことを愛してくれる人はたくさんいるのに。俺だけじゃないのに。どうして、お前に選ばれたのは、俺なんだ」 「それは、俺がお前のことを、」 「嫌い」 ナイフのように鋭い言葉。だが、そのナイフが残した傷は、深い刺し傷でなければ、切り傷とも呼べない、弱く、浅い傷だった。 この言葉は、俺へ向けられた言葉ではない。俺が負ったこの傷は、ほんの、流れ弾が――ナイフと表現した手前、流れ弾とは可笑しな話ではあるが――かすった程度のもので、本当に傷を負ったのは、真が本当に刺したのは――それに気がつき声を上げる前に、真はナイフの切っ先を自分に向けて、突き刺した。 「こんな俺の事が好きな、拓兎のことが嫌い」 そう言って、真は声を上げて泣き始めた。子供のように。保育園時代に、転んですりむいたときでさえ、こんなに激しく泣くことはなかったのに。苦痛に身を捩り、泣き叫びながら、「好き」という感情の中に僅かながらに、でも確かに持っていた、強く、深く根を張っていたその感情を、呪いのように何度も口から吐く。それでも真の腕はベッドの上から、再び俺の背中の方へと帰ってきた。 「嫌い」と言葉では言っているが、俺の耳にはそれが「助けて」と言っているようにさえ聞こえる。真自身もよくわかっていないのだろう。どうして、自分がここまで――また罪の数を増やしかねないことをするくらいに――自分のことを嫌っているのか。これ以上、傷つきたくないと、この傷を早く治して俺の言葉に溺れたいと、深く思っているはずなのにもかかわらず、他でもなく自分が、自分の心に傷を付けているのか。 「真、ほら、一回落ち着こう。起きて」 俺は身を起こしてから、真の腕を引き身体を起き上がらせる。真は完全にされるがままの状態で、力なく一度ベッドの上に座ったが俺がそのまま腕を引けば、何の抵抗もなく俺の胸へと倒れ込んできた。 真は黙り込むと、先ほど泣き叫んで喉が痛むのか喉の下、鎖骨と鎖骨の間の窪みを押すようにさする。だが、今この状況だと、その仕草さえも罪や自己嫌悪から来る一種の自傷行為なのではないかと思えてきてしまった。 自然と心が焦る。何か言わないと。そう思えば思うほど頭の中から言葉が消えていった。あの時と、夕暮れの中で真を抱きしめたあの時と、これでは同じになってしまう。そう思って、俺はやっとの思いで真の名前を呼んだ。 すると、真が眉を下げながらじっとこちらを見てくる。ぽろぽろと溢れる透明な真珠を指で何度も掬ってやると、やっと少し落ち着いたらしい。ゆっくりと口を開いた。 「……ごめん、拓兎、俺、お、お前に、でも、俺は、」 「大丈夫、大丈夫……どうした、今日何か辛いことでもあったのか? 俺がらみで」 「……どうして?」 「お前がここまで強く自分を責めるときは、大抵何かあったときだからな。俺がらみで」 「その「俺がらみで」っていうの、なんか無性に、滅茶苦茶腹が立つんだが」 「違うのか?」 「あってる、けど」 顔を赤くして顔を伏せる真が可愛くて。ふわふわとした黒髪にキスしてやると、彼は嫌がる猫のような声を出して俺の口を両手で覆った。それを舐めてやるとくすぐったかったのか、真が不意に手を放す。その隙を突いて唇にキスをして、俺を突き飛ばそうとする手をつかんだ。 「なぁ、何があったか話してくれよ、真」 「何が、って……ただ、その、俺と、拓兎が付き合ってるって噂が、女子の間で流れてて、」 「まあ、当たらずとも遠からずだな。お付き合いを前提にイチャイチャしてるし」 「で、それを女子達が教室で話してるのきいちゃって、その女子の一人が、「拓兎が男のことを好きなのは、この際どうでもいいとして、どうして高藤なんだろうね」って言っててさ。確かに、どうして俺なんだろうって。拓兎のことが好きな人はいっぱいいて、そこでそんな話をしている女子の中にも、拓兎と恋人になりたいと思ってるこがいるかも知れないのに、どうして俺なんだろうって。 ……俺が思うにさ、拓兎の隣には、綺麗で可愛い女の子や、かっこいい美男子の方が似合うと思うんだ。俺みたいな、こんな、地味で冴えない、取り柄もないし、ぱっとしないような、男、がさ、隣にいるよりも。そうだよ。俺なんかといるより、そっちの方が、きっと、拓兎も幸せになれる。 それに、俺、は、お前を傷つけて、あんな、罪まで犯したのに……。 ……なのに、どうして、お前は俺に「好き」なんて、「愛してる」なんて、言ってくれるんだ? 自分の幸せを殺してまで、こんな、俺が一番嫌いな奴のことを、どうして、どうして」 ぽろぽろと溢れる雫が美しくて、思わず見とれてしまう。ほうっと溜息を吐き、彼を抱きしめてその背をさすりながら、俺は真の質問への返答を考えた。 「そう、だな。「どうして好きなのか」という問いについては非常に返事がしづらい。気がついたときには、俺はもうお前のことが好きだったからな。好きだから好きだとしか、愛おしいから愛しているとか、そんな答えしか思い浮かばない。 「どうして真が好きなのか」ではなく「真のどこが好きなのか」なら、夜が明けるまで、夜が明けても語り続けられる自信があるんだが」 「……例えば」 「聞きたいのか? そうだな、まずお前の目が好きだ。瞳の色。黄昏を溶かして固めたようなその瞳が好きだ。その瞳が俺を捉えた瞬間に、薔薇色に染まるその頬が好きだ。柔らかく、温かい桜色の唇も、少し高めで落ち着いたその声も大好きだ。大好きなお前の大好きなその声で優しく名前を呼ばれると、身体が震える。 ふふ、恥ずかしくて目を伏せるその表情も大好きだよ」 「も……もういいっ、」 「まだ、外見的な部分しか語っていないのだが。まあ、いい。本当はもっと聞きたいくせに、恥ずかしさのせいで天邪鬼になってしまうところも可愛くて好き」 「わかった、わかったから……」 真は耳まで赤くして俺の胸元に顔を埋めた。本当に可愛い。今すぐに押し倒して、彼が酸欠でまともに息が出来なくなってしまうまでキスをしたい。不安も恐れも、憂鬱も感傷さえも忘れて、微塵もそんなことが考えられなくなるくらいに、俺の事で、俺だけのことで頭も心も体もいっぱいにしてしまいたい。 そんな歪んだことを考えながら、俺はさらに続ける。 「あとな、真。お前は地味ではないし、たくさんのお前しか持っていないものを持っている。それに、俺の幸せを、お前が勝手に決めつけるのは良くない。非常に良くない。俺にとっての幸せはお前と一緒にいることだ。俺は自分の幸せを、一切殺しも、傷つけもしちゃいないさ。むしろ、お前を一緒にいると、俺の心は幸福で満たされる。頭の中が溶けて、お前のことしか考えられない時間が、俺にとっては一番幸せなんだよ、真」 「……本当に?」 「本当だ。例え、お前がお前自身のことを嫌っても、俺はお前のことを愛しているし、お前といる時間が、俺の宝物だよ」 嘘偽りのない言葉を捧げると、やっと真の呼吸が落ち着きを取り戻し始めた。 薬が効き始めたようだ。苦しそうな顔も幾分か和らぎ、安心しきって俺はそのまま、再び真をベッドに押し倒した。 こうやって、真が発作を起こすのはよくあることだった。不安定な関係。しかも、万人の理解と共感、許しを得られる訳ではないこの関係が怖くなってしまうのだろう。 いつもは、ここまで感情を吐出することはないのだが、不安定になって思いを吐露してくれたおかげで、今後の治療の方針をどうするべきか、わかってきたような気がする。 「真、俺が思うに、お前は自己肯定感があまりにも低すぎる」 「な、んだよ……突然、」 「まあ、聞け。聖書にこんな言葉がある。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と」 「……あったな、そんな言葉」 「その言葉を受けた俺のばーちゃんは俺によくこう言っていた。「拓兎、自分を愛しなさい。人は自分を愛することで、初めて他人を愛せるようになる。自分を愛せない人は、他人も自分と同じように愛することが出来なくなってしまう。だから、他人を愛したいのなら、大切な誰かに愛を捧げたいのなら、まず自分を愛するべきよ」と。この言葉を受けて、今の俺はいる。 つまり、だ。お前が先ほど自分で言ったように自分を「自分が一番嫌いな人間」だと思っていたら、自分を酷く嫌っていたら、いつまでも、お前はお前の罪とやらを償うことが出来ない。自分の気持ちを素直に受け止め、認めることが出来ないのではないか。それに今以上に心の傷を拡げてしまうのではないか、と俺は思う」 俺の言葉の意味がいまいちわかっていないようで、真はこてんと首をかしげる。そんな彼の額に自分の額を重ね合わせ、俺は静かに微笑んだ。 「さっき、俺がお前のどこが好きか、具体的に言ったとき、あの時のお前の表情を思い出して思ったんだ。「これだ」ってな」 「どういうことだ?」 「俺に、色んなところ好きって言ってもらえて、嬉しかったか?」 その質問に、真は身体を震わせ、目を見開いた。俺が何を企んでいるのか気がついたのだろう。一瞬、頭を横に振ろうとしていた真を軽く窘めると、真は眼を赤くしながら、でも確かに興奮と期待で胸を膨らませ口を動かした。 「嬉し、かった」 「……だろう? 少しでも、一瞬でも、自分のことが好きになれたんじゃないか? 何も言わなくても大丈夫。その表情を見ればわかるよ。よしよし、なら、今度からはトラウマの塗り替えは勿論、さっきみたいに、お前のどこが好きか、どんなところを愛しているかを言いながらお前を愛でてやろう。そうすれば、お前も俺がいかにお前を愛しているか、具体的にわかるし、過度な自己嫌悪も、少しは緩和できるんじゃないか?」 一石二鳥だ、と俺が笑うと、真は困ったように胸を押さえた。不安なのだろうか。怖いのだろうか。嫌なのだろうか。でも、彼はじっと俺を甘い瞳で見つめるだけで、決して首を横に振ろうとも、否定の言葉を口から出そうともしない。それだけで、彼が何も言わないだけで、何を求め、乞うているのかがわかって、俺は満足しながら、真の耳に口を寄せた。 「さあ、続きをしよう、真。早く良くなるように、俺も頑張るからな」 「……ん、」 「ふふ、素直で可愛い真のことが好きだよ」 俺の言葉で真の鼓膜を震わせる。甘い唸り声を上げた真の心を刺す棘を、ゆっくりと抜き取りながら、俺は静かに彼の身体に手を伸ばしていった。

ともだちにシェアしよう!