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第3話

神に愛された子。 俺が歌えば人々は皆口を揃えてそういった。 歌うのは好きだったし、歌を歌って褒められると、さらに歌うのが楽しくなった。 そして何より、幼馴染みが、俺が歌うところをキラキラとした目で見つめてくれるのが嬉しくて、堪らなかった。 だから、失いたくなかった。この声だけは。神様が俺に与えてくれた、ボーイソプラノだけは、失いたくなかった。 「俺、聖歌隊辞めた」 中学二年の冬。宿題を終えて部屋でくつろぐ真に、俺は静かにそう告げた。真は一瞬だけ目を見開いたが、「なんで」「どうして」とは訊かないで、静かに「そうか」と言って笑ってくれた。彼なりに、俺が幼少期から所属していた聖歌隊を去る理由を察してくれたのだろう。彼は、優しく微笑みながら、俺の喉に指先で触れた。 触れた箇所から電流が流れる。だが、それは決して心地の悪い物ではなかった。 「声、調子どうだ」 「やっと落ち着いてきた……変じゃないか」 「ううん。全然。最初は違和感あったけど、今の拓兎の声も好きだ」 「声だけか?」 わざと困らせるようなことを言ってみる。だが、真は屈託のない笑顔のまま首を振った。 「声以外も好きだよ。知ってるだろ?」 その言葉に俺は一瞬、胸が痛むのを感じながら、それを隠すように笑うと真の柔らかい黒髪に指を絡ませた。彼はまるで子犬のように俺の手に頭をすり寄せると嬉しそうに口を緩めた。俺はそのまま彼の頭を雑に撫でる。 この髪をいきなり強引に掴んで、頭を引き寄せ、開かれた口に舌をねじ込んだら、彼はどんな顔をするだろうか。そんなことを思いながら。 高藤真は俺の幼馴染みだ。いつから一緒にいたなんてもう覚えていない。事実、初めて顔を合わせたのは俺より三日遅く産まれた真が退院してすぐだったらしい。そんなの覚えていなくて当然だ。そんな産まれてすぐに出会った俺たちは、いつも一緒にいるのが当たり前になってしまっていた。しかも、互いに両親が共働きで、二人で一緒に留守番をすることも多く――人に話せば何故か憐れまれるのだが――正直両親といる時間よりも真と一緒にいる時間の方が多かった。 ともに過ごす時間が増えれば増えるほど、俺は真に対して友達以上の感情を抱くようになっていた。最初は、ずっと一緒にいたい。ずっと触れていたい。その程度だった感情が、中学に上がった頃からだろうか。彼のことを愛したい。淡い桜色の唇にキスをして、その肌に優しく触れながら抱きたいと明確に思うようになった。なってしまった。 何度も夢に真が現われ、無抵抗な彼を無理矢理に犯し続ける夜が続いた。荒い息とともに目覚める度に、その腕に本物の真の姿を求め、暴走する感情はどんどん大きく膨れ上がっていった。 その醜く汚らわしい感情が、神の怒りを買ったのだろう。俺は変声期を迎えてしまった。日に日に出せる音階が少なくなっていく。それが恐ろしく感じると同時に、これが神様から与えられた罰なのだと、納得せざるを得なかった。 どんどん声が低くなる。歌が歌えなくなっていく。前のように歌うことが出来なくなってしまったら、真は、どんな顔をするのだろう。少なくとも、あの日の太陽のような眩しい瞳を向けられることはないはずだ。もしかしたら、俺から離れていってしまうのではないか。 たった一つ、才能を失っただけで、俺を支えていた自信がボロボロに崩され、跡形もなく消え去ってしまった。毎日が恐ろしく、はっきり言って、死んでしまいたくて堪らない夜が何度も巡った。 そんな毎日の中でも、何故か真はずっと側にいてくれて、今もこうやって触れられる距離にいてくれている。どうして、あの頃の声を失った俺にはなんの価値も魅力も無いだろうに、どうしてお前は隣にいてくれるんだ。そう尋ねると彼は柔く目を細めてこう囁いた。 「拓兎が好きだから」 その声はあまりに無垢で、純粋で。俺が欲しい「好き」の意味と、その言葉はあまりにかけ離れていたけれど、それでも俺にとっては真のその一言が大きな救いになってくれた。 天使の歌声なんていらない。真がいてくれるなら、それでいい。そう思えた俺は、昨日やっと、長年お世話になっていたシスターに聖歌隊を辞めることを告げたのだった。 声変わりをしても、歌は歌えるのだからと、シスターは俺の事を一度は引き留めた。だが、正直にこの場所で歌っていると「ボーイソプラノの」「天使の歌声の」浅木拓兎の存在が邪魔をすると告げると、彼女は無言で微笑み「この場所から離れても、歌を歌うことを忘れないでくださいね」と優しく背中を押してくれた。 そのおかげか、尾を引くだろうと思った悲しみは、想像より遥かに早く簡単に解けてしまい、今は開放感でいっぱいだ。大声で歌いたいくらいに。 「よかった」 「なにが」 「だって、やっとちゃんと笑ってくれたから。そうだ。お祝いしようぜ。引退祝い。今日も親帰るの九時回るし……拓兎もそうだろ? ぱーっとパーティーしよう。何が食べたい? 俺、今日はお前が好きなもの何でも作ってやるよ」 俺は思わずその質問に「真」と答えそうになったのをぐっと押さえ込んで、絞り出すように「ハンバーグ」。続けて「ロールキャベツでも可」と口に出した。真は口元をほころばせると、俺の手から離れ、学校の鞄の中を漁る。そしてその中から財布を取り出し、立ち上がった。 「メニューも決まったし、買い出し行くぞ。あ、コーラも買おうぜ。あと、ケーキ」 「豪華だな。そこまで祝わなくても」 「だって、嬉しいんだ。拓兎が久しぶりに笑ってくれて……駄目か?」 「いや……嬉しい。ありがとう」 急に恥ずかしくなって顔が熱くなる。それが珍しかったらしく、何度も俺の顔を覗きたがる真をよけながら、俺も鞄から財布を取り出し、彼を置いていく勢いで部屋を飛び出した。 それを追う足音も、その後スーパーで買い物するとき心の底から楽しかったのも、二人で歪な形のハンバーグを作ったことも、その夜の飯が今まで食べたどんな料理よりも美味しく感じたのも、鮮明に覚えている。 あの時の真の楽しそうな表情も。色鮮やかに覚えている。この笑顔をずっと見ていたい。ゆらゆらとそんなことを願った。 けれど、その願いは、その日からたった二日後に砕かれてしまった。 真は当時、美術部に所属していて、俺が声変わりに悩み苦しんでいるその間、俺に寄り添いながら、近々、近所の公民館で開かれる展示会に出展するための作品制作に励んでいた。 真は写実的な絵を描くのが得意で、小学校の頃から何度も賞を取り続けていた。中学に入ってから本格的にデッサンを学び始め、油絵を始め、以前にも増して生き生きと絵を描くようになった。 デッサンモデルになってくれ、と家でクロッキー帳を片手に俺に迫り、黙々と俺を描く真の表情は穏やかで、真剣で。そんな目で見られると、時が過ぎていくのがあっという間に感じられた。何より、その時間だけは、真が俺だけのことを考えてくれていると、ひしと感じることが出来て、俺はこの時間が大好きだった。 だから、展示会の絵を描き始めて、今日は描き疲れたからと、家で俺の絵を描く時間が減ったことに、少しだけ不満を感じていた俺は、その日、今日絵が完成する予定なんだ、と真が満面の笑顔で部室に向かった後ろ姿を見て、少しだけ小躍りしそうな気持ちになっていた。 二人の時間が戻ってくる。その喜びを胸いっぱいに詰めて、俺はステップを踏みながら、その日練習をするための空き教室を探した。 声変わりを迎えてから、俺は放課後に空き教室を使って一人で歌の自主練習をするようになった。初めは以前のような声を出せるようにと焦燥感とともに行っていた練習も次第に、自分の新たな可能性を見つけるための時間へと変わっていった。こっそり持って来たボイスレコーダーに歌声を録音して、それを聞き、また同じ曲を歌い、を繰り返す。 そこから、どの音なら綺麗に出せるか。それを探していくのが、いつの間にか楽しくなっていた。歌う曲のジャンルも聖歌や合唱曲意外にもかなり増え、自然と触れる曲の数も増えていった。 その日も、父親の部屋から勝手に持ち出した有名なロックバンドの歌詞カードを片手に、適当な教室に潜り込むと、窓際の席を借りて練習に勤しんだ。基本的な声出しを忘れずに。喉が温まったら頭の中にメロディーを流して。時々、耳に入る吹奏楽部の音楽に流されて、そのままそのメロディーを口ずさんだりしながら時間は流れ、気がつけば時計の針は五時四十分を指していた。 そろそろ、真の部活が終わる。ボイスレコーダーの録音を止め荷物を片付けると、スクールバックを肩に背負って、足早に美術室へ向かった。 夕陽が廊下を真っ赤に染める。普段はそんなこと微塵も感じないはずなのに、何故かその日は赤い廊下を、血に染められたみたいだ、と直感的にそう感じたのをよく覚えている。美術室に近づくにつれ、油絵の具の臭いが濃くなっていく。その臭いが鼻裏に張り付いて、思わず咳き込むと、美術室の扉が開き一人の女子生徒が廊下へ出てきた。 黒い長髪の女だった。 確か、真と同じ美術部に所属していて、いつもやたら真に近づいて彼の絵を見ている同級生だ。真に近寄る女というその一点だけで、俺は彼女のことがあまり好きではなかった。率直に言うと嫌いだった。 何をしているのだろう。眉を顰めてそんなことを思っていると、彼女は夕陽を浴びながら、機械のようにぎこちなく、ゆっくりとこちらを見たその女は、表情を一切動かさず、俺にこう尋ねてくる。 「高藤くん見てない?」 無感情な声だった。静かで凛とした声と言えば聞こえが良いが、非常に無機質で無愛想だ。耳障りも良くない。俺は彼女に対して抱いている強大な嫌悪感を態度で表す様に、眉間に皺を寄せて彼女を睨みつけた。 「真が如何した」 「見てないのね」 俺の質問に碌に答えもせず、女は踵を返すと、そのまま足音一つ立てずに廊下の奥へと消えて行ってしまった。心の中がざわめく。急に偏頭痛がして思わず頭を抑えた。 真は美術室にはいない。そうわかっているのにもかかわらず、何か良くない物に誘われるように足は動き、自分の意思に反して腕が部屋の戸へ伸びた。 重たい戸が軋みながら開かれる。 無人の美術室。様々な画材が混ざり合った臭いが鼻だけでなく目にも刺さった。 いつもは感じないはずの胸焼け。思わず口を押さえながら、俺はイーゼルに掛けられた一枚の絵に近づいた。 そこに描かれていたのは何処かの教室だった。茜色の光りが開け放たれた窓から降り注ぐ。柔らかい風を巻き付けながらカーテンが舞い上がる。窓の側には詰め襟を着た少年が立っており、大きく舞ったカーテンがまるで花嫁が被るベールのように彼の頭の上を覆っていた。歌を歌っているのだろう。少年は胸に手を当て、肩を大きく開いていた。 絵の中から歌声が聞こえてきそうだ。そう思わせられるほど、リアルで、それでいて非現実的な雰囲気が漂うその絵には、上から赤い絵の具で大きく罰印が描かれていた。それだけじゃなく、少年の顔の上からも赤い絵の具が塗りつけられている。 手で少年の上の赤色を拭う。表面だけが乾いた油絵の具は、ぬるりとした気持ちの悪い感覚とともに絵から俺の掌へ移る。けれど、その下から覗いた少年の顔も、絵の具と同じ赤色のままだった。 もはや輪郭さえもはっきりしない。けれど、俺はそこに描かれている少年が誰で、この絵を描いたのが誰なのか。それがまるで手に取るように、明確に、はっきりとわかってしまった。 めまいがする。この感覚は、あの日、朝起きてうまく声が出せなかったときと同じ感覚だ。 足下がふわふわして、血の気がサッと引いて、何処かに墜ちていくような感覚。 絶望感。それに近い。でも、何かが違う。何処かが違う。 最低だ。俺はきっと、そのとき絶望以上に高揚感を覚えていた。 俺は大きく頭を振ると真っ赤に染まった掌をハンカチで雑に拭くと、それを床に投げ捨て、教室を飛び出した。 最終下校時刻二十分前を告げる放送が鳴る。階段を駆け下りて、目を左右にせわしなく動かしながら真の姿を探した。こういうとき、真はどこに行くのだろう。幼馴染みならわかりそうなことが皆目見当もつかなかった。校舎の裏か。何処かの棟のトイレか。それとももう帰ってしまったか。いや、美術室に荷物がまだあったから帰ってはいないはずだ。 どこだ。いったいどこに行ったんだ。冷たい風が喉を刺激する。血のような味が口に滲み、身体がどんどん熱せられて行く。校舎をほぼ一周し、疲れて足を止めたところで、虎落笛に混ざって誰かの声が聞こえた。校舎裏にある物置小屋の側。真と、あの女の声だ。 「どうして、あんなことしたの」 「だから、言っただろう。いざ完成してみたら、出来が悪く思って。あんなの、展示会に出すべきじゃないとおもって」 「出来が悪い。何を言っているのかしら。私、美術部員としてあなたと一緒に絵を描いて二年目になるけれど、あの絵はあなたが今まで描いた絵の中で一番綺麗で、繊細で――何より思いがこもった作品だったわ。それに、出来が悪かったからって、あんなことをする必要はないじゃない」 「……」 「一体、何があったのかしら。あなたが、大切な人の顔を塗りつぶさなければならなかった理由は、一体、」 「ちょっと待て」 耐えきれずに、俺は物置の方へと飛び出した。そこにはやはり、真とあの無愛想な女が、驚いたように口を開けて立っていた。真の目は少し赤く――強く擦ったのだろう――腫れている。思わず、真を抱きしめたくなる衝動をなんとか抑えて、俺はやっとの思いで口から声を出した。 「あの絵、お前が――自分で自分の絵をあんな風に塗りつぶしたのか?」 俺の問いに真は顔を歪めて口元を覆った。ふらふらと足をもつれさせながら後退ると、案の定そのまま身体が揺らぎ、その場に尻餅をついた。顔は見る見るうちに土色に変わり、目の縁からは涙が溢れた。 女が真に駆け寄ろうとしたのをはねのけて、俺は真の傍に寄りしゃがみ込んだ。涙を拭おうと伸ばした手は無情にもはねのけられる。今までに見たことがないような暗く澱んだ目をした真は、俺をぼーっと見つめながら乾燥でひび割れた唇を小さく動かす。 「あの絵、見たのか?」 「あぁ、見た。俺を、俺のことを、描いてくれたんだろう?」 「そう。そう、だ。お前を描いたんだ。放課後、たまたま、歌の練習をしているところを見て。綺麗だって、思った。あの時みたいに、胸が、ドキドキして。その瞬間を、忘れたくなくて。あの時には出来なかったけど、今の俺には、絵を描いて残すっていう方法があったから――展示会の作品制作もあったし、それで」 真は大きく息を吸って肩を震わせる。苦しそうに胸を押さえ、猫背になりながら真はさらに続けた。 「ホヅミの言うとおりだよ。あの絵、良く描けてたんだ。今までで一番、思いを込めて描いたから。ここ数ヶ月は寝ても覚めてもお前のことを考えてたんだぜ。笑えるだろう。でも、本当に、その位、お前のこと思って描いたんだ。展示が終わって、絵が返ってきたら、お前にあげるつもりで」 それならなんで、と俺が尋ねる。真は黙り続け、ぼんやりとした目のままで自分の制服のズボンを見つめた。ポケットを漁ると、何やら封筒を取り出す。桃色の封筒。それを真は俺に静かに差し出してきた。 「なんだ、これ」 「ラブレター」 「誰から」 「一年生の子」 「誰に」 「拓兎」 「どうしてお前が持っている」 「渡して欲しいって、頼まれた」 真は僅かに口の端を上げる。目が、全く笑っていなかった。人に比べて白目の多い――三白眼が、初めて怖いと思った。 「この子と帰ってあげろよ、拓兎。吹奏楽部の子だって。今ならまだ、校舎内にいる」 「何言ってるんだ、お前。俺はお前と帰るんだよ」 「駄目だよ」 「何で、」 「だって――」 真は再び口を覆ってうずくまった。慌てて背中をさすろうとしたとき、小さな唸り声が聞こえる。 「気持ち悪い」 その言葉が、真が自分自身の体調を言い表しているものではないと察するのにそう時間はかからなかった。きっと、これは真が言われた言葉だ。この、人に媚びるような可愛らしい桃色の便せんを渡してきた相手から、そのような旨の言葉を投げかけられたのだろう。俺は、確認するように、ホヅミと言うらしい女の方へ向き返った。 「部員ではない後輩の女子が美術室に来て真の絵を見る機会はあったか?」 「えぇ。それこそ今日よ。丁度、高藤くんが絵を完成させた後だったわね。あの子が来たのは。そう、あの子、あなたにそんなことを言ったのね。誰が誰のことを思って絵を描こうが、その人の勝手――といいたいところだけど、きっと自分の思い人のことを、自分以上の思いを持って描いている高藤くんを見て情緒不安定にでもなったんでしょう。だめよ、高藤くん、そんな言葉気にしちゃ……まぁ、もうどうしようも出来ないほどに、傷ついてしまっているみたいだけれど」 ホヅミは長々とそう言い終えると、くるりと向きを変えて校舎の方へ去って行く。一度だけ止ると、彼女は「高藤くんの絵を片付けて、荷物を持ってきてあげるわ。私が来るまでに、高藤くんが自力で帰れるようになるくらいにまで回復させておいて頂戴」と、これまた長ったらしく俺に命令をした。言われずともそのつもりである。 ゆっくりと真の背中を撫で、俺はそのまま真の身体を、覆い被さるようにして抱きしめた。真が大きく呼吸をしているのを感じる。 跳ね飛ばされるのではないか。そんなことを考えていたが、真の息は次第に落ち着いていった。ゆっくりと身体が起き上がるのを感じて彼から身体を離す。彼の顔は依然、暗いままだ。虚ろな目はどこを見ているのかわからない。よほど、酷い言葉を掛けられたのだろう。だが、その言葉以上に、自分がした行動に対して罪悪感を覚えている。何かに祈るように指を組んで震えている真の姿を見て、なんとなく俺はそんなことを考えていた。 「真」 名前を呼ぶ。しかし、彼に対して言う言葉が頭の中に全くもって浮かんでこなかった。 なんと声を掛ければ良い。 彼女を作る気は毛頭無い。 何を言われようが気にするな。 お前があそこまで取り乱すなんて、相当傷ついたんだな。 俺はその女を許せない。 それに、なにより、お前が俺のことを描いてくれて嬉しかった。 駄目だ。どの言葉を言っても、きっと真は傷ついてしまう。いつもは動くはずの口が塗り固められたように動いてくれない。 最終下校時刻を告げる鐘が鳴った。チャイムの音が耳に刺さる。俺は顔をしかめながらやっとの思いで真の手を包み込んだ。冷たい手だ。 「たくと」 沈黙に耐えきれなくなったのか、真が俺の名前を呟いた。その声さえも宙に浮いているようで、名前を呼ばれているとは一切感じなかった。真の独り言は続く。 「ごめん。お前の顔、あんな風にするつもりはなかったんだ。ただ、あの子に手紙を渡された後、目の前が真っ赤になって、気がついたら絵筆を握ってた。お前の顔を、真っ赤に塗りつぶしてた。どうしてあんなことをしたのか、自分でもわからないんだ。わからない。わからないよ、たくと。俺、どうしちゃったんだろう。頭が痛くて、割れそうだ」 「真」 「なあ、拓兎。お前は、俺の大切な幼馴染み。そうだよな?」 刺されるような感覚とはこのことを言うのか。頭と心臓に同時に与えられた衝撃に思わず地面に倒れ込んでしまいそうになる。 なんと返せば良いのか。そんな、あまりにも答えが明確な問題に頭を悩ませる。数秒の沈黙。俺は、不安そうに眉を下げる真の目をじっと見て、堂々と嘘をついた。 「そうだ。お前は俺の大切な幼馴染みで――家族みたいなもんだよ」 これでいいはずだ。胃がキリキリと痛むのを我慢して精一杯の笑顔を作る。すると、真は依然顔に影を落としながらも、やっといつも通りの、いつもとは明らかに違う笑顔を見せた。よかった、と呟く声とともに、真の震えが止る。 彼をどうしてあげれば良いかわからず、俺は真が望んでいないであろう感情を抱えたまま、彼の身体を抱きしめた。ぎこちなく、真の手が背中に回ってくる。それだけのことなのに、彼の絵を見たときと同じ熱の高ぶりを感じて、俺は真に気がつかれないように、口を歪めた。 「真、その女になんて言われたんだ? 無理しなくて良い。話せる範囲で良いから」 「……手紙を渡された後に、「ところで、高藤先輩は浅木先輩のなんなんですか?」って言われたから、幼馴染みだよって返したら、幼馴染みなだけで、毎日一緒に帰ったり、休憩時間に常に一緒にいたり――あんな絵を描くのは可笑しいって。本当に唯の幼馴染みなんですかって」 真が強く俺にしがみついてきた。強く爪が立てられる。俺は不純にも、服が邪魔だと感じてしまった。 「だから、俺、本当に唯の幼馴染みだって返したんだ、そうしたら、「よかった。もし、それ以上の関係なら――」」 「気持ちが悪いって?」 「言われた。その後、彼女と別れて、そこから記憶が曖昧になって、何かが怖くて、胸が苦しくて、それで、」 「わかった。もうわかったから、何も言うな。大丈夫。俺たちは唯の幼馴染みだよ」 心の底から真を心配するような、同情するようなそぶりをしつつも、俺の心臓は俗に言う「ときめき」と同じテンポでリズムを刻んでいた。 そうだったのか。知らなかった。真は俺のことを――。 「もう、大丈夫かしら」 ホヅミの声が聞こえ、俺は名残惜しさを感じつつ、真から手を放すと直ぐに口元を覆った。ゆっくりと振り返ると、無表情の女が真の鞄を俺の方に突き出して静止していた。何も言わずにそれを受け取ると、彼女の方も何も言わず、そのままその場から立ち去る。 最初から最後までよくわからない女だ。そんなことを思いながら、俺は真に鞄を差し出した。 「帰ろう」 いつもと同じようにそう告げる。すると真は安心しきった顔で、鞄を受け取った。 その日から、真は絵を描かなくなった。描けなくなった、という方が正しいかもしれない。所謂、静物画や風景画は今までと同じように描けるのだが、人物画が一切描けなくなってしまった。 何度も俺をモデルにデッサンをしたが、できあがる絵はどれも「のっぺらぼう」で、顔に白いお面をつけているようだった。試しに俺以外の――ホヅミの顔も描いてみたが、結果は同じだった。 「浅木くんの顔を塗りつぶしてしまったことへの罪悪感が、彼のトラウマになっているのでしょうね。人の顔を描こうとすると、手が震えるの、彼。汗の量も尋常じゃない。描くべきではないのよ。もう彼は、人物画を。 でも、だからといって、絵を描くことを辞めなくても良いのに。静物画や、風景画は今まで通りかけるのだから。 彼の意思だから、私は何も言えないけれど。天才が一人死んでしまうのは、もったいない――以上に悲しいわ」 ホヅミが俺にそういったその日に、真は美術部を辞めた。真は以前のような明るい笑顔を見せなくなり、口数も――元々多い方ではなかったが――少なくなってしまった。愁いを帯びた様子を美しいと取れば良いのだろうが、自信が過度に損なわれたという印象しか抱くことが出来なかった。 たった一つ、才能を失っただけで、自分を支えていた自信がボロボロに崩され、跡形もなく消え去る。その感覚は、目眩がするほどよくわかる。俺は、今まで以上に真の側にいるようになった。 俺が、真の笑顔を取り戻さなければ。 もう、真が傷つかないよう、俺が護らなければ。 「そう思ったはずなんだがな」 「どうした、急に……」 椅子に座ってポーズを決める俺に、真は困ったようにそういった。彼は新品のクロッキー帳に削りたての鉛筆ですらすらと線を引き続けている。 急に、絵を描きたくなった、といって百円均一ショップでクロッキー帳と鉛筆を買ってきた真は、染色したブロンドベージュの髪をゆらゆらと揺らしてあの頃と同じように「モデルをしてくれ」と俺に頼んできた。 はじめそう言われたときには、驚きのあまり声も出なくなったが、想像以上に嬉しかったのだろう。気がつけば俺はまだ何も言われていないのに椅子に座り、さあ描け、と言わんばかりにポーズを決めていた。 一瞬驚いた様に目を丸くし、笑顔を浮かべ、真が絵を描き始めて十数分。あまりにも懐かしい光景だったからだろうか。いつの間にか中学時代のセピア色で、それでいて彩度の高い記憶に思いをはせていた。 「中学時代のことを思い出していたんだ。俺は、あの日傷ついたお前のことを大切に、傷つけないように大切にしたかったのに――高校時代に何とかお前の傷を癒そうとしたが、結局完治させてやることができずに……逆にお前を不安にさせたことも沢山あっただろうし、それに、一年前お前が、倒れるほどに傷ついていたのに、気がつかず、さらに傷を深くしてしまった。お前を傷つける者から、お前を護ってやれなかった」 「あれは、拓兎のせいじゃねぇよ。あれは――」 真は口を噤むと、鉛筆を持つ手を止めた。きっとまた彼は、自分を責めようとしていたのだろう。恐らく真の頭の中にはまだあの女も、あの上司も、「かみさま」もいて、気まぐれに顔を覗かせては真のことを責め続けているのだ。今も誰かしらが真の心に傷をつけようとしていたに違いない。 真が傷つく前に何か声をかけなければ。そう思った俺に真はクロッキー帳を俺に差し出してきた。絵が描けたらしい。受け取ったそこに描かれていたのは――顔が描かれていなくてもわかる――紛れもなく俺の姿だった。 「ごめんな。やっぱり、顔はまだ描けない。あの時のこと思い出して、怖いんだ」 「顔なんてどうでも言い。お前が俺のことを思って描いてくれた。その事実だけで良い」 「……ありがとう」 そう呟く真の姿が愛らしくて、俺は思わず彼の顎を掴み、唇を重ねる。肩を一瞬ふるわせて、真は快く俺が中に入り込むことを許した。熱く、深く互いの舌を絡ませ合う。ひとしきり口の中を撫で、顔を離す。目を開くと、目の前にいる真は酷く申し訳なさそうに俯いていた。 「拓兎……ごめんな。俺、拓兎からこんなにも大切にしてもらって、色んなものをいっぱいもらってるのに、何も返せてない」 「何を言ってるんだ。俺はな、お前がいればそれだけで十分なんだ。それだけで幸せなんだよ」 真は頬を赤らめて微笑む。その笑顔が――まだあの頃の明るさには届かないけれど――あの頃とよく似ていて、なんとなく嬉しくなった。俺はあの頃の、神様からもらった声を失った俺に寄り添ってくれた真のように、彼の心の支えになれているのだろうか。その回答を訊くように、俺は再び彼と唇を重ね合わせた。

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