7 / 10

第4話

生きていく上で「窮屈さ」を覚えたのは、いつからだっただろうか。 思い返せば初めてそんな感情を抱いたのは小学一年生の時の図工の時間だった気がする。絵の具を使って魚の鱗を塗るという工作内容。好きな色で塗ってねと言った担任の声に従って、好きな色で魚の鱗を塗った。水色、紫、ピンク、赤、黄緑に黄色に……選びきれない色を、何とか全て使いたくて、頭を捻った。そこで、確か鱗は光りにかざすと色んな色に光る事を思い出し、一つの鱗に様々な色を重ねたりしながら魚の鱗を塗っていた。 「真は絵が上手ね。特に色を塗るのが上手」と褒めてくれた母さんと父さんにこの絵を見せたらどういうだろう。そんなことを考えていた俺の頭上に大きな影が出来た。 「まだ、そこまでしか塗れていないの」 降り注いだ担任の声に筆が止った。恐る恐る見上げた彼女の顔が、逆光のせいで酷く暗かったことを覚えている。 「どうして一つの鱗を二色で塗っているの」 「そんなことはしなくていいの」 「隣の子を見て? もう、あんなにも塗っているのよ。あなたはまだ半分以上残っているじゃない」 浴びせられた言葉に俺は謝ることしか出来なくて、担任が別の子を見に行ったのを見送ってから、泣きそうになるのを堪えて、俺は残りの鱗を全て同じ色で塗ったのだ。 息が詰まる感覚。身体を狭い箱の中に押し込められたような感覚。 その日からだろう。自分の考えは、行動はもしかすると「普通」ではないのかもしれないと思うようになったのは。その日からだろう。自分の行動を「善」か「悪」か、「正しい」か「間違えている」かで判断するようになったのは。 きっとあの時――魚の鱗を塗っていたとき――自分がとった行動は「間違って」いて、そして間違えた自分は「悪」なのだ。 「正しく」いなくては。 そう思えば思うほど、俺はいつの間にか「普通」に――世間の言う「正しい」に、「正解」にどんどん固執するようになっていった。 そして、世の中の言う「普通の幸せ」に焦がれていった。 彼女をつくって、大学に行って、良い職場に就職して、結婚して、子供を作って、家を買って――それから、それから。 そういう提示された理想の幸せ像。それになりたいと、それにならないといけないと無意識にそう思いながら生きてきた俺は、中学二年のあの日、とある女子生徒から言われた言葉によって、すべてを壊され、覆された。 当時美術部に所属していた俺は、丁度展示会が近いというのもあって、そこへ出展する作品としてある人の姿を油絵で描いていた。とても大切な幼馴染。その人が歌っている姿が大好きで。俺はその人が歌う姿を絵に描いていた。 絵を描くのは楽しい。部活という「授業」とは違う自由な時間に行うため、のろまな俺でもあの時のようにこだわりすぎて色を塗るのが遅いと咎められることもなく、好きなように絵を描けるのは心の底から楽しい時間だった。それに、大好きな人の大好きな姿を描いていたからか、いつも以上に絵を描くのが楽しかった。 この絵が完成したら、真っ先に彼にこの絵を見せよう。そして、展示会が済んだらこの絵を彼にプレゼントするんだ。喜んでくれるかどうかはわからない。でもきっと、彼は微笑んで「ありがとう」と言ってくれる。そう思うと胸の高鳴りが止められなかった。 自分でも気が付けなかった感情が溢れ、それが絵具へと染み込む。これは尊敬の情であり、憧憬のそれであると信じ切っていた俺は、俺の絵を見たその女子生徒からの指摘で、その感情と向き合わなければならなくなった。 「――ところで、高藤先輩は浅木先輩の何なんですか?」 放課後の校舎裏。女子生徒からそんなところに呼び出されたら告白をされると思うのが男子中学生の通常の思考なのかも知れないが、俺の場合は違った。確かに告白はされるのだが、その相手は九割九分俺ではない。 浅木拓兎。俺の大切な幼馴染で親友で――その時、描いていた絵のモデルだ。 眉目秀麗で小学生時代も女子からの人気が高かったが、中学生になって背も伸び、美しさに磨きがかかったが故か女子からの告白の回数が明らかに増えた。中には、本人に直接告白する勇気がなくて、幼馴染である俺に拓兎宛の手紙を渡し、俺経由で拓兎に届けて貰うという子もいた。その子もそういうタイプの子で、突然美術室にやってきたかと思えば俺を校舎裏まで連れて行き手紙を渡してきた。 ピンク色の便せん。宛名の所には赤色のペンで「浅木先輩へ」と書かれている。可愛らしい、女の子らしい丸い文字。目の前にいる彼女も目がくりくりとして、背が小さくて、色白で、とても可愛らしい子だった。 拓兎が女性にモテることはとても嬉しい。それだけ、拓兎が世の皆から認められ、愛されている証拠だから。だから、その時も「今回はちゃんと手紙を読んでくれると良いな」とそう思っていた。 そう思っていたら、急に彼女はそんなことを言い出したのだ。「俺は拓兎の何なのか」と。訳がわからなかった。訳がわからなかったから、俺は正直に「唯の幼馴染だよ」と答えた。その言葉を口から出すとき、やけに喉の奥が張り付いたような気がしたのを覚えている。すると彼女は怪訝な、というよりは見下すような、何処か憐れみさえも滲んだ眼差しを向けて捲し立てた。 「幼馴染みなだけで、毎日一緒に帰ったり、休憩時間に常に一緒にいたり――あんな絵を描くのは可笑しいんじゃないですか?」 「……あんな絵って?」 「さっき美術室で描いてた絵ですよ。あれ、浅木先輩ですよね」 「そうだけど……それのどこが可笑しいんだよ」 「どうして浅木先輩の絵を描いてるんですか」 「それは、」 綺麗だと思ったから。美しいと思ったから。それだけ。そう。それだけのはずだ。それだけの―― 「本当は、浅木先輩のこと、好きなんじゃないですか」 「――え、」 「……本当に唯の幼馴染みなんですか?」 その言葉に直ぐに返答できない。有り得ないはずの「好き」という言葉が胸に、頭に、染みついて離れない。喉を絞めるようにさする。言葉を吐こうと、どれだけ上下に首元をさすっても何も出てこない。 どうしてだろうか。先ほどと全く同じ、一言一句違わず「唯の幼馴染だよ」と返せば良いはずなのに。 遂に俺は言葉が出なくなってしまって、唯必死に頷いて、彼女の言葉へ返答した。すると、彼女は安心したように、それでいて納得していないような顔をして微笑んだ。 「よかった。もし、それ以上の関係なら――」 彼女の柔らかい唇が動く。その口が結んだ六音を聞いた瞬間、頭が真っ白になって、目の前が真っ赤になった。あの後、彼女になんと言ったのか覚えていない。気が付いたら俺は手紙を片手に美術室に戻ってきていた。 他の部員は席を外していたようで、日が沈みかけ、薄暗くなった美術室には俺しかいなかった。俺は手紙をポケットに突っ込み、フラフラとした足取りでキャンバスへと歩み寄る。 その時、自分が何を考えていたのか、未だに思い出せないのだが、多分「ありえない」だとか「これは間違っている」だとかそんなことが頭を渦巻いていたのだろう。それを消したくて、この期に及んでまだ自分は正しくありたくて、何より俺のせいで拓兎まで「あんな風」に言われたのが悔しくて、何が何だかわからなくて、気が付いたときには、俺は、まるで自分が抱いてしまった感情を塗りつぶすように――絵筆を掴んで赤い絵の具を掬い取り、拓兎の顔を赤く、塗りつぶしていた。 荒い息。背中を這う気持ちの悪い汗。カタンと手から筆が滑り落ちると同時に、俺は崩れ落ちた。 「なに、してるんだ……俺……」 胃の中が混ざって、彼女の言葉が頭の中に木霊した。 ――気持ち悪い。 そう。これは気持ちが悪い感情なのだ。持ってはいけないものなのだ。男である俺が、同性の拓兎に対してこんな感情を抱くのは、「普通」ではなくて、「間違っている」ことで、「悪」で――では今、自分がした行動は果たして正しかったのか。 頭が混乱する。そのまま俺は自分のした罪から目を逸らすようにその場から逃出し、無理矢理にそのとき芽生えた感情を箱に閉じ込めて厳重に封をした。 そして、何度も自分の頭に言い聞かせる。 拓兎は俺の、大切な「幼馴染」だ、と。 俺は、拓兎に恋などしていない、と。 俺達の関係は決して、気持ち悪くなんて無い、と。 そうやって、俺はそのときのトラウマとして人の顔を描くことが出来なくなった代わりに、間違った感情を無理矢理に封じ込めた。 だがそれも、無理に蓋をしたせいか数年後に爆発してしまった。 ぶちまけた吐瀉物のような感情。どんな蔑みも、憐れみも、罰も受けるつもりだったのに。拓兎は俺の汚い感情を否定せず、寧ろ「好きだ」と――拓兎も俺と同じ感情を持っていたと告げ俺の身体を優しく抱きしめてくれた。俺が犯した罪を告白しても、あんなことをした、拓兎を傷つけた自分が拓兎の――たくさんの人に愛されている彼の――愛を独り占めしてはいけないと首を振っても、俺の事が好きだと言ってくれた。 如何しても自分が赦せなくて、そんな自分を責めるためだけに空想の「かみさま」なんかを生み出して、「かみさま」に赦されていない自分が拓兎を愛し拓兎に愛される資格なんて無いと俺がそう拒んでも「俺はお前のことを赦すよ」と包み込んでくれた。 挙句、中学時代のあの日に自分の心を殺めた事を罪だとするならば、今ここで、自分の愛をもう一度否定し、さらに拓兎の俺へ抱いた愛さえも殺してしまうことは、それ即ち、罪を重ねてしまうということになり得ないか。そうやって罪を繰り返すくらいならば感情の否定の逆――自分の感情を認めることによって罪を償えば「かみさま」とやらは俺を赦してくれるのではないかと諭され「かみさま」が俺を赦してくれるまで償いを手伝うとまで言ってくれた。 償いとやらをしようにも自分の感情がどうにもこうにも赦せないほどに、トラウマと自己否定でボロボロに汚くなった心は拓兎の優しい手によって丁寧に傷口を治される。俺が抱いていた「気持ちの悪い」感情は、汚いものでも、悪いものでも、間違ったものでも無く、持っていてもよい感情だと、優しい口付けとともに、塗り替えられていった。 そうやって自分が間違っていると思っていた感情を認め、罪を償おうとする度に、彼に触れ、彼に触れられ、愛を捧げ、愛を与えられる。それは、俺が求めているはずの「幸せ」ではなかったはずなのに、「正解」ではなかったはずなのに、拓兎に抱きしめられたときの、キスをされたときのあの感覚は紛れもなく「幸せ」そのものだった。 その「間違った」幸せに溺れるのが怖くて、一度は拓兎の元から離れた俺は、結局、彼女も出来ず、大学には行ったし、比較的給料の良い所謂大手企業に就職したがその後、上司から受けた罵詈雑言に耐えかねて退職し、拓兎と恋人同士になり、男同士が故に結婚が出来ず、子も成せずどんどん世間の言う「幸せ」からかけ離れていった。 世の皆様が言う「楽園」から真っ逆さまに落ちていく。でも、転落して、羽も無くして、ボロボロになった身体を天使のように美しい悪魔に抱かれて、初めて俺は深く、規則正しい――ちゃんとした呼吸が出来るようになった。 これが、自分にとっての幸せだったのだ。ここが自分にとっての天国だったのだと気が付いた途端に、急に世界が鮮やかになった。 自分は、のろまでも、使えなくても、のりが悪くてもよくて。間違ってなんかいなくて。そもそも、間違いだとか正解だとか、善だとか悪だとかそんなもの自体が存在しなくて。愛されても良いし、生きていても良いのだとそう思えるだけで、そう思わせてくれる人が側にいてくれるだけで、毎日が幸せだと思えるようになった。 それでも、いつかの日に求めていた理想の「幸せ」を突きつけられると、如何しても心が波打ってしまうのは、仕方が無いと割り切った方が良いのだろうか。俺は、そんなことを思いながら、目の前で幸せそうに笑う女性と、彼女の側に寄り添い笑う男性とその腕に抱きかかえられている子供を見つめた。 「お先に失礼します。お疲れ様でした」 「お疲れ様、真くん。来週もよろしくね」 珈琲の匂いが漂う店内。俺はマスターとこちらに向かって手を振ってくれる常連のお客さんに頭を下げ、店を出た。喫茶店「はまだ珈琲」は、今、週一でアルバイトをさせて貰っているお店だ。実は、大学時代にもバイトとしてお世話になっていたお店で、マスターは俺が仕事を辞めて次の仕事をどうしようかと悩んでいた時に声をかけてくれた人の一人だった。 ちなみに、マスター以外にもう一人「アルバイトを募集している店があるけどしてみないか」と声をかけてくれた人がいた。牧野麻。拓兎と高校時代にバンドを組んでいたメンバーの一人で担当はドラム。実は俺と拓兎とは中学時代の頃からの仲で、今でも月に一度くらいのペースで互いの家に行きスイーツ作りをする仲だ。 今は牧野が勧めてくれたバイト先である「物語屋 シェヘラザード」という、客に泊まるための部屋と飲食、そして指名した店員が枕元で一冊本を読んでくれるというちょっと特殊な店――全くもっていかがわしいお店では無い。そもそも、いかがわしいお店なら拓兎から猛反対を受けている。――で月曜日から木曜日の夕方から深夜までの時間帯裏方として清掃や厨房のバイトをし、金曜日にはお昼から夕方まで「はまだ珈琲」でホールスタッフとしてバイトをするという生活を送っている。 どちらも前職のパソコンに向かい書類作成をしたり、顧客管理をしたり、営業の人に電話をかけたりといった業務とは違う業務内容で喫茶店の方はともかく、「シェヘラザード」での仕事は初めてのことも多かった。それでも、職場の人が優しい人ばかりで――ミスをしても叱られはしたが怒鳴られることも詰られる事も無かったのは驚きだった――それだけで前の職場よりかなり仕事がしやすかった。 おかげで今は仕事内容にも慣れ楽しく仕事をさせて貰っている。フリーターという立ち位置であるため、早く定職について拓兎の負担を少しでも減らさなければという焦りは若干あるが、それ以外は何の不安も不満も無く、時々、特に昔のことを思い出したときなんかのストレスで体調が悪くなり欠勤することはあるが毎日健康に過ごせている。 ありがたい話だ。俺は頭の中で色んな人に感謝しながら今日、この後どうするかを考えた。今日はバイトが十六時で終わったため時間にかなりの余裕がある。しかも明日、明後日は休みだ。 華の金曜日。以前は「やっと休みだ」と思うくらいで楽しみも何もなかったけれど、今は仕事が終わった金曜日の夕方が、明日から二日間続く休日が嬉しくて仕方が無い。 こう思えるのも一年前、壊れる寸前――傍から見たらもう壊れてしまっていたのだろう心と体が少しは元の形に戻りつつある証拠なのだろう。 そう考えるとなんだか気持ちがふわふわとしてきた。冬が近づき冷たくなってきた空気とは逆に身体の熱は増して行く。 するとお湯が沸騰したときのようにポコポコと、この後の予定が湧き出てきた。 この後は駅前で買い物をしよう。冬にもなるし、好きなブティックで冬服を見よう。その後に画材屋にも行ってみよう。最近、少しだけ絵を描けるようになってきたから。いきなり油絵は、画材セットが実家の、しかも押し入れの奥のさらに奥の方にあるし、一から買い揃えると結構な額になってしまって手が出しづらいから、水彩色鉛筆辺りから始めてみようか。その後に本屋に寄って今日発売の拓兎が、というよりミュージシャンのタクトが載っている雑誌を買おう。女性向け雑誌だから少し買うのが恥ずかしいけれど。 その後、電車に乗って家の最寄り駅まで帰って、近所のスーパーで晩ご飯の食材を買って帰ろう。確か、この前買ったニンジンとジャガイモがまだ残っていたから、肉とタマネギを買って今夜はシチューにしよう。拓兎はミートボールが入ったシチューが好きだから今日は鶏の胸肉じゃ無くて豚挽肉を買って帰らないと。 帰ったら、洗濯を入れて、お風呂を準備して、晩ご飯作って……。今日、拓兎は何時に帰るんだったっけ。確か、仕事が入っていたはずだけど。一緒に食べたいから拓兎の帰りを待とう。 ウキウキとした足取りで駅の方へ向かう。この辺りは商業施設が多いため、どの時間でも人通りが多い。人混みは苦手だ。でも、今は頭の中で作り上げたこの後の予定のおかげか、嫌いな人混みも億劫にはならない。俺は浮き足立ちつつも人にぶつからないように気をつけて進んでいった。 進んでいく中で、ふと俺はあるデパートが入っているビルの前で立ち止まる。ショーウィンドウの中に掲載された大きい広告。それに俺は釘付けになってその場に立ち尽くした。 有名なコスメブランドの新作リップの広告だ。真っ黒な街の風景。それをバックに立つ、黒いシャツを着崩した男性の姿。深紅のリップを唇に塗り、それを拭うように口の端に手を当てているその人は、普段とは違う、俺が知らない顔をしていてなんだか妙な恥ずかしさを覚えた。 やっぱり、仕事モードの拓兎は格好いいな。 もちろん、普段の拓兎も格好良くて美しいのだけれどタレントとしての拓兎――タクトはいつも以上に輝いて見える。 普段見ない顔。俺がまだ知らない顔。二十五年間ずっと拓兎と一緒にいるけれどそれでもまだ俺は彼のことを知り尽くしてはいない。こうやって仕事をしているときの拓兎の真剣且つ妖艶な姿を見るとそれを強く、深く感じさせられる。 だから、もっと彼を知りたい。もっと、彼が欲しい。 そう思ってしまう俺は強欲なのだろうか。それともこう思うことは普通なのだろうか。そんなことを考え、俺は顔を少し赤くするとその場から離れて駅へ向かおうとした。 音を立ててデパートの入り口が開く。ふとそちらに目をやると、中から自分と同じ歳くらいの中の良さそうな夫婦が出てきた。旦那さんの右腕の中には小さな赤ん坊。よく見る光景だ。そんなに、気に留める必要も無い、ありふれた日常風景の一幕を見た瞬間、俺は胸の中が急にざわめきだしたのを感じた。 夫婦の女性に見覚えがあった。まさか、自分の「人の顔を覚えるのが得意」というこの特技が、こんなところであだになるとは、思ってもみなかった。 夕暮れの校舎裏。ピンクの封筒。冷たい風。 「気持ち悪い」 可愛らしい桜色の唇から放たれた残酷な言葉の刃。 その女性は、中学時代に拓兎に告白をした――俺が人の顔をかけなくなった原因の一端となったあの後輩の女子生徒だった。 頭から急に冷水を浴びたような感覚。胃の辺りが気持ち悪くなってとっさに口元を手で覆った。 相手に気付かれないように顔を逸らす。そんなことをしなくとも、相手はもう自分の顔なんて忘れているだろう。髪色だって、周りから「キャラじゃない」と言われるような明るい髪の色になっている。俺が高藤真だとわかるはずが無い。 そう自分の頭に言い聞かせる。言い聞かせているのに心が全くもって落ち着いてくれない。腕を握る手が震えた。 中々彼女が通り過ぎない。妙に時間が流れる速度が遅く感じた。早く向こうへ行ってくれ。そう願うが、そう願ったときに限って――神様は意地悪だ。 「あれ、もしかして、高藤先輩?」 冷たい指で背筋を撫でられたときのような感覚が襲ってきた。そちらを向きたくないのに、糸で引かれているように首が彼女の方へ動いてしまう。 改めてしっかりと見た彼女の顔はあの頃より、大人びていて、垢抜けていて、美人になっていた。あの日以降、彼女には会っていないはずなのにそう頭の中でしっかりと比較が出来るほどには彼女の顔が頭にこびりついているらしい。 しかし、それは彼女も同じなのだろう。変わった目の色をしている以外は地味で大した特徴も無いような俺の顔を覚えていたのだ。もしかしたら恋敵として俺の存在が脳裏に居続けていたのかも知れない。 ならば俺が彼女のことをそう思っているのと同じように彼女にとって俺は「構いたくない相手」のはずだ。どうしてわざわざ声をかけたのか。 額に浮いた脂汗を拭う。先ほどとは逆に熱が沸き上がって頭が混乱するが、それでも彼女の行動に、何の意図があるのかそれだけは冷静に明確に判断することが出来た。 「お久しぶりですね。私のこと、覚えてますか? ほら、中学の時の」 そう言って彼女は、旦那の腕を引きこちらへ寄ってきた。仲睦まじそうに、旦那の手に指を絡め、幸せそうに笑いながら。 不思議と頭の中がクリアになっていく。同時に腹の中に黒くて粘ついたタールのような何かが溜まっていくのがわかった。自分でも「今自分は無表情をしているな」とわかるほどに顔から表情が抜けていく。そんな俺を見ても変わらない彼女の表情が薄気味悪く思えた。 「……誰、でしたっけ」 何の好機も生まないとは思うが、それでもこの場から少しでも早く逃出したくて嘘を吐く。だが、彼女はよっぽど俺に、というよりはあの過去の一件に対して思い入れがあるのだろう。食い下がること無くわざわざ丁寧に自分のことを説明し始めた。 「ほら、私が一年生の時、だから先輩が二年生の時に、浅木先輩に渡して貰う為のラブレターを預けた……」 「ラブレター? 何の話?」 横から旦那が茶化すように彼女の話に入って来る。こういった類いの話は旦那の前ではタブーなのでは無いかとも思ったがそんなことは無いらしい。寧ろ楽しげに「ほら、だいぶ前に話した、中学時代の……」「あぁ、あれか!」などと会話を交していた。 ふつふつと腹の中の黒いものが煮立つ。グッと手を握りしめ、俺は小さく口を動かした。 「すみません。拓兎に告白する人は結構いたんで、あなたがどの人だか」 「こいつから聞いたんですけど、その「拓兎」ってあの――というか、そこの広告に載ってる「タクト」なんですよね? やっぱり、中学の頃からモテてたんですね」 完全に第三者である旦那の方が話しかけてくる。腕の中の赤ちゃんと目が合って、申し訳なさを感じながらも、俺は冷たく「そうですね」と短く返した。ここで会話が終わってしまえばよかったのに、目の前の男性はまた口を開き、無邪気に言葉のナイフをこちらへ振りかざしてきた。 「じゃあ、その頃から男が好きだったんですか?」 「……は?」 「だって、あれですよね。タクトって、今、男と付き合ってるんですよね? このまえ、テレビで見ましたよ」 タクトは自身に「恋人がいること」そして「その恋人が男であること」をデビュー当初から公言している。この頃にまだ俺達は正式には付き合っていなかったのだけれど、タクトの事務所の社長が、タクトのイメージ的に、人気が出て時間が経った後にそのことがスキャンダル等で発覚すると、唯でさえ恋人がいるだけで炎上しかねないのに、それが同性となれば――それがプラスかマイナスかどちらに傾くにしても大きな問題になりかねない。ならばいっその事、もう俺達が付き合っていることにしてしまって、デビュー当初からそれを公言しておいた方が良いのでは無いか。そう提案し、その意向に沿ってタクトも「同性の恋人がいる」と公言して活動をしている。 寧ろタクトはあの性格だから俺の存在を隠さずに活動出来ることがかなりストレスフリーなようで、公式のSNSにも、俺であると名前を公表してはいないが「恋人が」「恋人と」から始まる投稿をよくしている。その投稿についているコメントなんかを見るとファンの人たちもタクトが「そう」であることをわかってタクトのことを応援してくれているみたいだ。 だから、そういう人たちが一つの疑問としてこの男が口に出したような質問をしてくるのはまだわかる。でも、この男の口元を、目元を見れば彼がぶつけているのは「疑問」ではなく、答えなどどうでも良い一方的な「からかい」であることが直ぐにわかった。 「類は友を呼ぶ」って、こういうことなんだな。思わず溜息が出そうになったのを何とか飲み込んで、俺は呟くように何とか声を出した。 「だったら、何なんですか」 声が震えている。正直もう逃出したい気分だが、それ以上に俺では無く、拓兎がとやかく言われるのが腹立たしく、俺は足を動かさずにまだ口を開こうとしている旦那と、それを面白そうに見ている彼女を睨んだ。 「勿体ねぇ! あのタクトだったら、めっちゃ美人の女優とかすげぇ言い寄ってきそうなのに」 「まぁ、そうでしょうね」 「相手が男だったら楽しめないこともあるでしょ? いや、出来ないことも無いんでしょうけど、俺だったら男より綺麗な女優選びますよ」 「拓兎はあなたじゃないので、他の女に言い寄られたくらいで俺を捨てるだなんてそんな最低なことはしませんね」 「……は?」 「あ」 しまった。そう頭の中で思ったかどうかさえわからない。そんなことよりも、とっさに塞いだ口が弧を描いていたことに対しての嫌悪感が頭の中をどんどん支配していった。 ふと視界に男の腕に抱かれている赤ん坊が目に入る。今にも泣き出しそうな顔をしているその子に心の中で何度も謝罪していると、女が赤ん坊の方など見向きもしないでこちらへ噛みついてきた。 「やっぱり、浅木先輩が付き合ってるのって、高藤先輩だったんですね」 「……そもそも、それを知ってて俺に声をかけたんでしょう? あいつ、SNSで恋人のこと「幼馴染」だって言ってますし、知っている人たちからしたら直ぐその恋人が俺だって気が付きますからね」 「そうなんですよね。だから私も直ぐわかっちゃいました。タクトの、浅木先輩の恋人って、高藤先輩なんだって。それにしても、凄い惚気られちゃいましたね。浅木先輩は自分を選ぶって胸を張って言えるの凄いですね」 「まあ、毎日「好きだ」「愛してる」って言われているんで、拓兎に愛されてる自覚も自信もありますよ」 「わぁ、ラブラブなんですね」 「――で、あなたがわざわざ俺に話しかけてまでしたかったことは何ですか。まさか、本当に偶然の再会が嬉しくて話しかけたわけじゃ無いでしょう」 「酷いなぁ。本当に高藤先輩に久しぶりに会えたのが嬉しくて声をかけたんですよ。お元気でしたか?」 白々しい。本当は俺達には手に入らない「普通」の、「理想」の幸せを手に入れた自分を自慢しようと話しかけてきたくせに。俺はグッと手に力を込めて大きく深呼吸をした。 言いたいことは山ほどあった。 旦那を使ってまで俺達の関係を可笑しいと、間違っていると、気持ちが悪いと否定したかったのか。結婚も出来ないし子供を授かることも出来ない事は不幸なことだと俺達を見下したかったのか。それで、自分があの日ふられたことに、プライドや価値観を傷つけられたことに対する復讐をしたかったのか。 そもそも、何故自分が拓兎にふられたのかわかっているのか。あなたが「気持ちが悪い」といった関係を、感情を俺以上に、あなたが恋心を抱いていた浅木拓兎が望み、俺と関係を結んだことに対してどう思っているか。初めて拓兎が俺と付き合っていると知ったときどう思ったか。 まだ、俺のことを、俺達のことを「気持ち悪い」と、思っているのか。 全てぶつけてやろうかと思った。けれど、こんな黒い恨み辛みを、何の罪も無い、何も知らないこの子に――男の腕に抱かれている赤子に聞かせるわけにはいかない。 俺は今自分に出来る全力の笑顔を作り彼女へ言葉を返した。 「えぇ、色々ありましたけど元気です。二人で幸せに生きてます」 俺の言葉に露骨に彼女の眉間に皺が寄ったのがわかる。だが彼女は直ぐに余裕の笑みを見せ、わざわざ旦那の手に絡めていた自分の左手をといて、「そうですか、では」と手を振った。 西日が彼女の左手の薬指にはまった銀色の輪っかを照らす。キラキラと輝くそれに最後に一刺しされたような気がして、俺は胸を押さえると、頭を下げ足早にその場を後にした。 人にぶつからないように人混みを駆け抜ける。ぬるい空気が首を絞める。冷や汗ばかりが溢れてきて身体がどんどん冷えていく。うまく息が出来なくて、口で空気を吸い込む。空気が喉に刺さって血の味がしてきた。 涙が溢れそうになる。だけどその理由が全くもって頭の中で考えられない。整理が出来ない。何も考えられなくて、気が付いたら俺は駅に着いていて、何も感じないままに電車に乗って、ぼんやりとした意識のままで自分たちの部屋の前にまで辿り着いていた。 力なくドアノブの上にあるカードリーダーにカードキーをスライドさせる。ドアの解錠音を聞いてからゆっくりと扉を開いた途端に声が漏れた。 「たくと」 名前を呼ぶ。けれど、玄関に彼がいつも履く靴は無くて。俺は足を引きずりながら部屋に入ると、雑に靴を脱ぎ、そのまま廊下に座り込んだ。 膝を抱え込み丸まる。 「……たくと」 子供みたいに、縋るようにまた名前を呼ぶ。 身体が熱いのか冷たいのかすらもわからない。身体を強く抱きしめ、目を閉じる。目の端から静かに水が流れ出てきた。 もう何も考えたくない。何も考えられない。ただ、同じ名前だけが頭の中に木霊した。 何度「拓兎」と名前を呼んだだろうか。それもわからなくなったとき、急にやけにクリアな音が頭の側で響いた。 「真? どうした、具合が悪いのか?!」 ゆっくりと顔を上げる。霞んでいた視界がクリアになると、何故か心配そうに、心底焦ったような顔をした拓兎の顔がこちらを覗いていた。 「たくと?」 名前を呼ぶ。すると彼は忙しなく瞳を動かしながら、白くて綺麗な形をしたその手を俺の額に当てた。僅かに震えているその指は冷たくて気持ちが良い。 「熱は……少しだけあるみたいだな……立てるか。しんどくないか」 「……ごめん、たくと。俺、まだ、洗濯も入れてないし、風呂も掃除して無くて、飯も……まだ、」 「それは大丈夫だ。後で一緒にしよう。ほら、掴まれ。とりあえず――仕事部屋のソファでいいか」 「……うん」 拓兎に腕を引かれ彼の仕事部屋に連れていかれる。デスクトップパソコンやそれに繋げられたキーボード、録音をするために使うのだろうマイクやギターなどが綺麗に置かれた部屋だ。パソコンの置かれている机の上には何やらたくさん書き込みがされている楽譜が散らかっている。新曲の作成中なのだろうか。 「仕事、忙しい?」 「ん? まあ、忙しいといえば忙しいが、だいぶ片付いてきたから今はそんなに……おっと危ない。俺の仕事の話じゃ無くてだな……ほら、座って」 拓兎は立ったままソファの座面をポンポンと叩く。背負ったままだったリュックを下ろし、ソファに座ると拓兎も手に持っていた紙袋を机の上に置いて隣へ腰を下ろした。 互いにしばらく黙り込む。何かを言わないと。そう思えば思うほど言葉が消えていくような気がした。 それに、そもそもつい先ほど遭遇したはずのあの一連の出来事が自分でも驚くほどに思い出せないのだ。断片的な記憶はあるのだがそれが上手く繋がらない。真っ白なパズルをしているようにどこに何をはめれば良いのかがわからない。 そんな俺に苛立つこと無く、拓兎は俺が言葉を探す様を唯無言で見つめていた。心配そうに拓兎の両手が俺の両手を包み込む。何もはまっていない拓兎の左手の薬指が目に入った。途端、視界が滲む。瞬きと同時に雫がポタリと、拓兎の手へ落ちた。 「あ――、」 間の抜けた声を上げる。何となく謝らないといけない気がして口を開いた。たが声が出る前に唇の上に拓兎の親指が被せられる。それはまるで何かを閉じるようにゆっくりと唇の上を滑った。 「……可哀想に、辛いことがあったんだな。何があった」 ぐりぐりと、拓兎の指先が乱暴に唇を撫で回す。喋って欲しいのか黙って欲しいのかこれではわからない。何とか拓兎の名前を呼んで指の動きを止めて貰う。依然、唇を押さえつけられた状態で、俺はどうにかこうにか先ほど――だと思っていたが、今時計を見たらもう十九時半だった――あったことを拓兎に話し始めた。 「今日、浦辺さんに会って」 「うら……は? 誰だそれ」 「中学の時に、俺の絵を……」 「――あぁ、あの女か。生きてたのか」 「逆になんで死んだと思ってたんだ」 「俺の頭の中では死んだことになってたからな」 さらっと恐ろしいことを言うと、拓兎はやっと俺の唇から指を離して、俺を横から抱きしめて「続けて」と耳元で囁いた。これはこれで喋りづらいのだが、拓兎の身体のぬくもりを感じると、なんだか変に強ばっていた身体の力が抜けていくのがわかる。とくり、とくりと鳴る心臓の音が穏やかになった気がした。 「彼女、結婚して、子供もいて……」 拓兎の背中に手を回す。ぎゅっと彼を抱き寄せると、そのまま身体がふらつき、俺はソファに倒れ込んだ。拓兎の身体が重くのしかかってくる。でも、その重みをもっと感じたくて、俺は腕に力を込めた。 拓兎の重みを感じれば感じるほど黒いものが込み上げてくる。ドロドロしたものが、胃から溢れてくる。こんなもの、拓兎に見せたくないのに。それでもひきつった口の端からコポコポと泡を立てながらどす黒い感情が溢れ出て勝手に言葉になってしまった。 「ずるい」 「――っ」 「そう、思っちゃったんだ。まるで、「あなたには手に入れられないものでしょう」って見せつけられた気がして。なんなんだろうな。自分が拓兎に振られたことに対する復讐かなんかのつもりだったのかな。迷惑だよな。そんな、勝手にこっちを悪者役にして勝手に勧善懲悪物語を繰り広げられても。自分だけが正しいって。だから自分だけが幸せになったって。そう決めつけて。俺は間違ってるから、気持ちが悪いから不幸になってるはずだって……なぁ、拓兎。俺、今幸せなんだ。俺、普通じゃないけど、正しくないけど、今、拓兎のそばで生きられる、それだけで幸せなんだ。拓兎に愛してもらえて、触れてもらえて……本当に、俺にはもったいないくらい。そう思ってるのに。思ってるはずなのに、なんだろう。なんで、こんな風に思っちゃうんだろう。でも、俺だって、拓兎と結婚したい。家族になりたい。子供も欲しいし、拓兎と一緒にその子を育てたい」 それがなくても幸せなのに。そうしなくても幸せなのに。欲深く「たい」を連ね続け、湧いてきた汚いものを全て吐き出す。挙句涙まで漏れ出てきてもうどうしようもなくなってしまった。拓兎も俺を見つめながら顰め面を浮かべている。さぞ辟易としているに違いない。謝らないと。だけど声を出そうとするとそれが全て嗚咽に変わってしまい上手く声が出せない。 恥やら罪悪感やら申し訳なさやらで訳がわからなくなる。混乱のままに子供のように無様に泣きじゃくった。 涙のせいで拓兎の顔が歪む。まるで拓兎が泣いているように見えてしまい、不安になって涙を拭う。けれど、拓兎の顔は歪んだままだった。震える声で彼の名を呼ぶ。すると彼は俺の首元に顔を埋める。微かに、鼻をすする音が聞こえた。 「たく、」 「俺もだよ」 掠れた声が響く。 「俺も、お前と同じ気持ちだよ、真」 そう言うと拓兎は子猫のように俺の首へ、胸へ頭を擦りつけた。「ずるいよな」と。「悔しいよな」と。何度もそう呟きながら。俺と同じように涙を流しながら。 拓兎と一緒になってぐちゃぐちゃに泣くのはいつぶりだろうか。頭の中に幼い頃、二人、拓兎の家で留守番をしていたときの記憶が蘇ってきた。激しい雨が降る日のことだった。突然雷が轟き始め、家が停電してしまった。真っ暗闇の中。あの時も俺が先に泣き出して、つられて拓兎も泣き出したんだっけ。 懐かしい記憶を思い返す。あの時、俺だけじゃ無くて拓兎も雷が怖いのを我慢していたように、真っ白で美しいと思っていた拓兎も腹に俺と同じようなあの黒くてドロドロとした妬み嫉みを孕んでいた。 俺だけじゃない。その事実に心底安心し、そのおかげで幾ばくか落ち着いたようで、しばらく泣き合うと俺も拓兎も普通の呼吸を取り戻していた。 泣いたせいか軽い頭痛がするけれど、いつの間にか胃もたれのような不快感も溜まっていた粘液も無くなっている。吐いたら楽になった。まさにそんな状態である。 吐いた方は気が晴れたが、ぶちまけられた方はたまったものじゃないだろう。不安げに顔を上げると、拓兎は指先で俺の目元を優しく撫でベッドの中のような掠れた声で尋ねてきた。 「……結婚、するか」 無意識のうちに目と口が開かれる。一気に体温が向上し、言葉とは到底いえない音を口から何音か漏らした後にやっと俺は口をとがらせ言葉を発した。 「海外にでも住むつもりかよ」 「いきなり海外は大変だろう。どうしても真似事、みたいにはなってしまうけれど。ほら、結婚情報雑誌に婚姻届ついてくるだろう。あれに、名前を書いて、役所には出せないから、俺の事務所か真のバイト先の……ババアかマスターにでも」 「店長」 「……店長かマスターとかに出してさ。親と友達とか仕事の仲いい人たちだけ呼んで式開いて。会場は、実はもう目をつけている場所があるんだ。許可さえ下りれば、そこで、式を開こう。披露宴は如何しても小さいバースデーパーティーみたいになってしまうだろうけど。どうせならアカネ辺りにお祝いの歌でも歌って貰おうぜ」 「茜屋って歌上手かったっけ」 「……ギターのレベルは高いんだけどなぁ」 眉を下げて拓兎が笑う。それにつられて笑い声を漏らせば、くしゃくしゃと髪を撫でられた。前髪を後ろに撫でつけられたかと思えば額に軽く口付けされる。目と目が合い、顎を上げれば、拓兎はゆっくり眼鏡を外し俺の唇に自分の唇を乗せた。 「口開けろ」 言われたとおりに口を開き、言われてもいないのに舌を突き出す。すると拓兎は満足げに微笑み俺の頭を撫でた。 「いいこ」 その言葉を合図に拓兎は俺の舌を自らのそれで絡めとる。そのまま口の中に入り込まれると、バニラアイスのような甘さが口いっぱいに広がった。大好きな味を心ゆくまで堪能する。 息を吐き、蕩けた瞳で見つめ合った。拓兎の両手が伸びてきて俺の頬を包み込む。その時にやはり彼の左手の薬指が気になってしまって俺は「なあ」と拓兎に声をかけた。 「一個だけ、我儘を聞いて欲しいんだけど」 「お前の我儘なら何個だって聞いてやるが、どうした?」 「婚姻届とか、式とかはさ、いつでも良いから……指輪、」 「指輪?」 「左手の、薬指に合うサイズの、指輪。お揃いのやつが……欲しい。から、明日、にでも、見に行きたいって思って、」 「その必要は無い」 バッサリと言葉を切られる。しかし、その刀は鋭くは無くて、拓兎に言われた言葉よりも寧ろ、何故か得意げに笑っている拓兎の方が気になった。 二十五年間も一緒にいれば嫌でもわかる。これは、何かを企んでいるときの顔だ。一体何を企んでいるのかと思えば彼は子供の時に見せたそれ以上に無邪気な笑顔を見せた。 「だって、指輪なら明日のデートの最後に、予約したレストランで渡す予定だからな!」 笑顔が眩しい。それは俺に言ってはいけない、所謂サプライズというやつではないのだろうか。というか、明日デートに行くこと自体初耳であるため、指輪を渡される云々よりそちらの方に驚いてしまう。しかももうレストランを予約済みなのか。俺に明日用事があったらどうするつもりだったのだろう。 言いたいことは山ほどあったが、結果口から出たのは笑い声だった。 「お前、それ、サプライズじゃ無かったのか?」 「サプライズでも良かったんだが、真の言葉を聞いたら言いたくて仕方が無くなってな。なんなら、何も知らないフリをして、明日レストランの椅子に座ってくれても良いんだぞ?」 「お前が指輪取り出したら驚いて見せろって? ハードルたけぇよ」 「それか、今すぐ渡そうか?」 吃驚の声を上げるより先に拓兎は身を起こすと机の方へ向かう。そして先ほど机の上に置いた紙袋の中を漁ると、白い箱を取り出した。 滑らかなベロア生地の箱。この前バイト先で貰った有名洋菓子店のチョコレートの詰め合わせが入っていた箱と同じくらいの大きさのそれを、拓兎はソファの前に跪いて、身体を起こした俺の方へ差出しながら開いた。 真っ白のパイル生地に包まれているリングが二つ。肩を並べて光り輝いている。 「本当は付き合ったら直ぐに送りたかったんだが、何かと忙しかったせいで待たせてしまってすまない。いつ渡そうか、考えていたんだが……記念日も近いし、明日なら互いにスケジュールも会うと思ってな」 「記念日?」 「来週の水曜日。付き合って一年の記念日だ」 部屋にかかっていたカレンダーを確認する。確か、去年倒れたのが――あの頃で、仕事を辞めたのが――あのくらいだから……。目で日付を追っていると拓兎が息を吹き出した。なんというか、非常に申し訳なくなってきた。大切な日の日付なんかの類いは覚えている方だと思っていたのに。よりによってその記念日を忘れるなんて。 「良いじゃ無いか。俺達の場合、「付き合ってください」「はい」の言葉を交したのがその日であっただけで、実質あの記念日より前から付き合っていたようなものなのだし。それに、もっと重要な記念日がまた追加されるからな」 「何の記念日、」 「とぼけるな。結婚記念日だよ」 トスッと胸に矢が突き刺さる音がした。それは焼けるような熱と甘い痺れを残して溶けていく。 傍から見たら「ごっこ遊び」に見える、所詮は「真似事」の契りだとわかっていてもその約束に脳が歓喜の色に染まる。火照った顔を押さえていると拓兎は立ち上がり、俺の隣に腰掛けた。 「しまった。完全に結婚指輪のつもりで作ったから、今渡したら、式の時、指輪の交換が出来ないな」 「いいよ。俺、今つけたい。式の時は面倒かも知れないけど、一回外してまた交換しようぜ」 改めてじっくりと指輪を見る。銀色のシンプルなデザインの輪が二つ。その内側に何やら文字が彫ってあるのに気が付いた。アルファベットが並んでいるが、全く読めない。英語ではない――ならば、拓兎の祖母の故郷であるドイツの言葉だろうか。 「なんて書いてあるんだ?」 「Ich liebe dich」 「どういう意味だ?」 「俺がお前に一番たくさん贈っている言葉だよ」 拓兎そう言うと、片方の指輪に手を伸ばし引き抜いた。 「さあ、手を出せ」 その言葉にゆっくり左手を差し出す。震える手を支えながら、拓兎はゆっくりと俺の薬指にそれを差し入れた。ぴったりと指に収まったそれに、言い知れぬ安心感と高揚感を覚える。いつの間に指のサイズなんて把握されていたのだろう。そんな疑問さえも胸いっぱいに広がり溢れそうな幸せで掻き消されてしまった。 「次は真の番だぞ」 「うん」 拓兎に促されるままに箱から指輪を抜き取り、拓兎の左手をとる。真っ白で細い指。緊張のあまり、どの指が薬指だったかを考えながら何とか小指の隣に辿り着く。息を吐いてその指へ指輪を通そうとした瞬間、急に身体を後ろに引っ張られるような感覚に襲われた。 本当に良いのか。 この期に及んでそんな、何の意味も無い言葉が脳裏に過ぎる。居るわけでもない人間の視線が突き刺さる。いつもなら――きっと、先ほどまでならその言葉に、視線に押し潰され、腕を引いてしまっていたのだろう。 けれど、今は――。 「真」 顔を上げる。満天の星が輝く夜空のような瞳がじっと俺を見つめていた。 何かを言われたわけでもないが、俺は静かに首を縦に振る。そして、彼の薬指にゆっくりと指輪を通した。 奥まで差し込んだ瞬間、身体を縛っていた何かが外れたような気がした。思い出したかのように呼吸をすると、そのまま、拓兎の右手と俺の左手が繋がれる。箱が落ちる音がしたかと思えば、俺は拓兎の身体に重なるように倒れていた。 嬉しい。それを頭で反芻すればするほど、目から涙が溢れ出してきた。その溢れた雫を拓兎の口が丁寧に掬い上げる。くすぐったくて声を上げると、拓兎は俺の耳に唇をすり寄せた。 「愛してるよ、真」 繋がれた左手。照明に当たって光る銀色の輪。 「俺も、愛してるよ、拓兎」 幸せだ。誰がなんと言おうと、どんな目で見ようと。胸を張って言える。自信を持って言える。 「俺、今凄く幸せだ」 「今だけじゃ無く、これからも、ずっと幸せにしてやるからな」 合図も無く、言葉も無く、ただ愛おしさのままに唇を重ね合う。何度かそれを繰り返し、じっと互いに互いの瞳を見つめ合った。 「――明日は、見たい映画があって。チケットをとっているんだ。ただ、午前中に上映しか席が空いていなくてな」 「じゃあ、早く起きて準備をしないとな」 「真は、何処か行きたいところはないか?」 「行きたいところ……そういえば、この前バイト先の人が美味しいラーメンのお店を見つけたって言ってて、それが気になる」 「じゃあ、昼はラーメンだな」 「あと、他にも行きたいところがあって……あっ……」 「はは、そろそろ飯の時間か。焦らずとも時間はあることだし、明日の話は後でゆっくりしよう。その前に、洗濯入れて、飯食って、一緒に風呂入ろうな」 そのやりとりさえも幸せで、その幸せに溺れるのが心地よくて。俺は拓兎に笑いかけるとゆっくり頷く。そして、溢れる幸せを分かち合うように俺は指輪がはまった彼の左手に、頬をすり寄せた。

ともだちにシェアしよう!