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第5話 最終話(1/3)
人々が忙しなく歩を進める昼過ぎの繁華街。そこにある大型デパートの入口の前で俺は少しだけ顔を赤くし、ぼんやりとした顔をしながら停止していた。
目の前には巨大な広告。そこには、よく熟れた林檎を彷彿とさせる真っ赤なスクリーンをバックに微笑む正面を向いた男性が写っていた。
雪のような白い肌に、襟足を刈り上げた黒いマッシュルームヘア。スっと通った鼻筋に、黒曜石を思わせる瞳を覆うようにかけられたフレームの幅が広く、丸い黒縁のメガネ。
ズボンのポケットに手を入れ、俯くように立っている彼の姿に被せるように「Eden」と文字が躍っているそれは、どうやら音楽アルバムのジャケットらしく、下の方に「近日リリース」と記載されている。
「うわ! タクトだ! 超かっこいい!」
一人がそんな声を上げると周りの女子という女子が俯きがちだった顔を上げる。かと思うと広告の前で足を止め、悲鳴を上げたり、写真を撮ったり、興奮気味に足をばたつかせたりし始める。「かっこいい」や「イケメン」などの褒め言葉や「付き合いたい」「抱かれたい」「いっそのこと犯されたい」などというセンシティブな言葉まで木霊して、俺は眉を下げた。
道行く人は、ニューアルバムが出るというその文字よりも広告の上で妖艶な笑みを浮かべている男性の姿ばかりを見ているようだ。けれど、皆がその男性に夢中だということには変わりない。
彼を見つめる人々の姿を見て、俺はなんだか恥ずかしいような気持ちになりながら、それでもしっかりと、堂々とここに――待ち合わせ先として指定されたこの場所に立ち続けていた。
耳にさしたイヤフォンからは、男性アーティストの甘い歌声が聞こえてくる。突然歌の音量が増したかと思うと、振り返った先にあるビルに設置されている液晶画面で今聴いている音楽と同じ音楽が流れ始めた。
脳を痺れさせるような低い声。その声が美しく高いキーの音を響かせれば胸を一瞬で射貫かれた。最も、もう俺はこの声に何度も心を射貫かれているのだけれど。
照れくさくなりながらもビルを見上げると、液晶画面には背後に貼られた広告に写っている男性と同じ男性が、マイクを片手に高らかに歌を歌い上げていた。広告の時と同じように、人々は立ち止まりながら、あるいは歩きながらそれを見上げている。その人の多さにまた俺は照れくさいような誇らしげなような気分になって視線を道路の方へと移した。
風は冷たく寒いのに頬だけはやけに熱い。頬に触れるとそこに触れた手まで熱くて俺は全身が熱くなっている事に気が付いた。
彼との待ち合わせはこれが初めてではない。今まで何度も彼が俺の元へとやってくるのを待ったし、何度も彼を待たせ彼の元へ走って向かった。もう慣れた場面のはずなのに、今の俺はいつもと変わらないわくわくとした浮き足立つ気持ちと、初めて感じる緊張に包まれている。
手にじっとりと汗が滲む。喉が渇いてきたような気がして口の中で何度も舌を動かす。傍から見て変な人だと思われないだろうか。以前はそんなことを考え、過剰に脅えて不自然に影に隠れたり、口を覆って俯いたりして体調不良を疑われることもあった。
だが、案外人は他人を見ていないものだ。だからといって他人は自分に無関心だと悲観する必要はなく、案外人は自分が過度に気にしていることを気にしていないと楽観的に受け取れば良いと俺は二十五年かけて何となくそれを学ぶことが出来た。そう学んだ俺は俯いて、口の中を動かして湧き出してきた唾を飲み込んだ。
それにしても緊張が治まらない。このまま彼が来るまでこの心臓の速度が治まらなかったらどうしよう。でも、彼ならからかわず、優しく微笑んでくれるような気もする。彼の俺にしか見せない無邪気な微笑みを思い出すと少しだけ落ち着いてきた。
それと同時に、今すぐにでも彼に会いたくなってきてしまう。今まではデートに少し躊躇いがあったのに、人の考えとは変わるものだ。
それが少し可笑しくて笑うと前方から微かなざわめきが聞こえた。
全く、目立たないようにと頼んだのに。でも、変装なんかしない方が彼らしいか。俺は溜息というよりは感嘆に近い息を吐く。そして、笑顔でこちらに向かってくる人物に手を振った。
いつものカジュアルな格好ではなく、ピシッとした襟の白いシャツに、ミッドナイトブルーのジャケットを羽織り、グレーチェックのズボンを履いた彼は少し照れくさそうに、しかし堂々とした笑みを浮かべ駆け足でこちらへ走ってくる。それと同時に周りの視線と歓声もこちらに向いて俺は苦笑いを浮かべた。
大型デパートの巨大な広告に写ったその人と。ビルの液晶画面で歌うその人と。全く同じ人がこちらに向かってきているのだ。今まで広告や画面に向かっていた視線や声が一気にこちらに向くのも当然だ。
これは合流と同時にこの場から走って逃げないといけないかもしれないな。そう思いながら俺はイヤフォンをとって、音楽プレーヤーの停止ボタンを押す。丁度そのタイミングで彼が俺の元へと辿り着いた。
「待たせたな、真」
「いや、そんなに待ってないよ、拓兎」
俺の言葉に拓兎は安心しきった顔をすると、わざとらしく俺の背後にある自分の広告をのぞき込んだ。なんだかこの後の展開が予測できてしまって、俺は小さく笑い声を上げてしまった。
「お、ニューアルバムの広告。こんな所に貼ってあったのか。今回は明るいラブバラードメインのアルバムなんだ。最初と最後にインストを付けて、全体の曲の最後に次の曲のイントロが流れるように工夫して、全体的に流れがあるような曲構成にして……つまり、かなりこだわってみた。是非聞いて欲しい。曲も構成も天才的だから。まあ、天才だから当然だけど。
ジャケ写も前のアルバムとは違って神性で明るいイメージで撮ったんだ。我ながら美しすぎると思うんだが、どうだ?」
「白々しいなぁ……ここに広告貼ってあること知っててここを待ち合わせ場所にしたんだろう?」
「ばれていたか。今日からなんだよ、広告掲載。このジャケ写、お前に見て欲しくてな。どうだ?」
「どうだって……」
「前みたいに欲情したか?」
「馬鹿。こんな所で言えるわけねぇだろ。これも前みたいに待ち受けにしてるのか?」
「勿論。さっき変えたんだ。ほら」
拓兎が見せたスマートフォンの画面には解像度の高い広告の写真。パスコードを入力して開いたホーム画面には、いつ撮ったのかわからない俺が料理をしている横顔の写真が表示された。
それを見て顔を寄せて二人でクスクスと笑い合う。しばらく顔を見つめ合ったところで、俺は拓兎に静かに目配せをした。結構な人が集まってきてしまっている。いくら俺は彼の恋人だ、と胸を張って言えるようになったとはいえ、これだけの人数に注目されるのは話が別だ。それに、この後の予定もある。
「そろそろ行こうぜ」
「あぁ、そうだな。俺は別に構わないし、慣れているが、真をこの人波に溺れさせるのはしのびない。いいか、はぐれないようにちゃんと手を握っておけよ」
拓兎の右手が伸びてくる。それを俺は静かに握った。
北風に晒された冷たい手には、僅かに汗が滲んでいた。
「よし、行くぞ」
その声とともに腕を引かれる。そのまま拓兎は寄ってきたファンの子達を身軽にそして言葉巧みにかわしながら道を進んでいく。笑顔を振りまき、たまに声かけに対して返事をしながら。完全に、ではないが仕事モードの、アーティスト「タクト」をこんな間近で見ることがないせいだろうか。それともまだ緊張が解れきっていないからだろうか。走っていないにもかかわらず俺の心臓はまた大きな音を立て始めた。
そう、早歩きではあるが決して走っているわけではない。だが、想像より遥かに、スムーズに俺達は駅まで辿り着くことが出来た。後ろを振り返ってももうあれだけ騒いでいたファンの子達はいない。足早に改札口へ向かう人々は全くタクトの存在に気が付いていないようで、なんだか自分たちだけ別空間にいるような心地さえした。
「もうすぐ電車が来る。行こう」
「うん」
「どうした。ぼんやりして」
「いや……ああやって色んな人に囲まれたり、広告なんかを見たりするとお前ってあの「タクト」なんだなぁって改めて思っていただけだよ」
「それと?」
「さすがはプロ。ファンの巻き方がうまいな」
「それはどうも」
そこに「タクト」はもういなくて、俺の目の前にいたのは幼馴染で、親友で、大切な恋人の「浅木拓兎」だった。
彼はファンには見せない、いたずらを企む子供のように純真無垢な笑いを浮かべると、足早に改札口の方へ向かう。俺も手を引かれるままに彼の後に続いてICカードをパネルに押し当て改札を潜った。
拓兎と並んで心地の言い座席に座り、電車に揺られる事一時間。見慣れた住宅街の風景が車窓の外に広がり、電車が止った。ゆっくりと立ち上がり、俺達はホームへと降り立つ。
師走の風が頬を撫で思わず身を強ばらせる。恥ずかしさはあるが、左手にじんわりと感じる拓兎の温度が凍りそうな体を溶かしてくれてとても有り難かった。
自動販売機と小さなコンビニしかない駅としての最小限の設備があるだけの実家の最寄り駅。そこへ降り立った俺達は、自動販売機で温かいミルクティーと蜂蜜レモンを購入し、目的地へ向かう。
今年の正月の時には、拓兎の仕事があったため実家には帰らなかった。最後に地元に帰ったのは去年。俺が仕事を辞めて直ぐだった。あの時には明日も考えられないほどに疲弊していたが、今は明日のことしか考えられない。それがなんだか不思議で、俺は顔をほころばせた。
駅を出ると、俺達はある場所へ向かうために、その道中にある商店街へ向かった。決して賑わっているわけではないが人通りの多い商店街。昔からあった駄菓子屋がまだあることが妙に嬉しくて、高校時代よく拓兎が通っていたCDショップのシャッターが降りてボロボロになった「閉店のお知らせ」の紙が貼ってあることがやけに悲しくて。感傷に浸っていると母校の制服を着た男子高校生の集団とすれ違った。
時折ぶつかり合い、ふざけ合いながら道を行く彼等の姿に在りし日の記憶が重なる。時には拓兎のバンドメンバーと、時には俺が仲良くしていた友達数名と放課後の街へ繰り出した。メンバーは違ったけれど、いつもその輪の中には拓兎がいた。
高校時代だけではない。中学校の時も、小学校の時も、保育園の時も、それより前からずっと、拓兎は俺の隣にいてくれた。そして今も。これからも。拓兎はずっと俺のそばにいてくれるだろう――いや、居続けてくれるのだ。
他人がこれをどう受け取るかはわからない。鬱陶しいと思う人もいるだろうし、依存だといってとやかく言う人もいるだろう。
確かに、四六時中では無いにしてもずっと一緒にいるのは鬱陶しかったり、息が詰まったりするときもあるかもしれない。でも、実際に離れて俺を、俺達を待ち受けていたのは途方も無く、底のない不安と寂しさだった。離ればなれになってしまったら息が出来ず、生きも出来ない状態に陥るのに依存どうこうを問うのは滑稽な話だろう。
改めて、俺は拓兎がいない人生などもう考えられなくなってしまっているのだな。前はそう思えば思うほどに溜息ばかり溢れ出てきたが、今は緩みきった笑顔ばかりが溢れ出てくる。
何処か夢現なまま空いた手で太股を叩きながら商店街の中を流れるクリスマスソングに併せてリズムをとる。すると、隣から楽しげにハミングをする拓兎の歌声が聞こえた。
商店街はクリスマス一色で、どこのお店もキラキラと輝く雪や星を彷彿とさせる装飾に身を包んでいる。店頭にツリーを飾ったり、凝ったイルミネーションをしたり、マスコットキャラクターなのであろう謎の動物をもしたオブジェにサンタクロースの格好をさせたり。
あっちもこっちも眩しくてクラクラしそうになっていると手を強く握りしめられた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫……ちょっとクリスマスの雰囲気に酔っちゃって……」
「昔からお前はクリスマスの魔物に襲われやすいな。小学二年か何時かの時のクリスマス礼拝の後も今みたいにポワポワしてなかったか?」
「そ、れは……お前が、」
「俺が?」
あれ、俺はこの話を拓兎にしたことが無かったのか。
拓兎は俺の事を何でも知っているし、俺は拓兎に何でも話しているつもりだったから、このこともてっきり話していたと思っていた。
「俺が、何だ?」
やけに楽しそうな声が耳元で弾む。わざとらしいと思えるほどニヤついているから実は全て知っていて俺をからかっているだけなのでは無いだろうか。そうは思ったが小首をかしげじっとこちらを見つめる彼に対して最早あのことを教えないわけにはいかない。
けれど――俺は今向かっている場所を思い浮かべた。
「……着いてから話す」
俺の言葉に拓兎は頷くと再び前を見据えた。
綺麗で凛とした顔。幼い頃はもっと可愛らしくて、背も俺より小さかったのに。
そんな感慨深さに浸りながら俺はあの日のことを思い出した。
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