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第5話 最終話(2/3)
小学二年生の時から、彼の父方のお祖母さんの勧めで近所の聖歌隊に所属し始めた拓兎の歌声のお披露目があったのが、その年のクリスマスに行われた礼拝だった。
その時に教会を訪れるまで、俺にとって教会は近所にあるなんだかよくわからないけれど怖い場所だった。白くてぬっぺりとした背の高い建物。周りを囲む柵はやたら尖っていて、門も入口の扉も、当時の俺には酷く大きく見えた。
外観から醸し出される神聖な雰囲気も、幼い俺には怖く感じられて、親に手を引かれ教会の扉を潜ることを泣きながら拒否したのだ。そんな俺を見ながら母さんは「拓兎が中で歌を歌うんだよ」と苦笑し、その言葉を聞いた瞬間俺は泣き止むと「拓兎がいるの?」と大声で叫んで周りに笑われたのを良く覚えている。
母親の言葉を信じて教会の中に入ると中は真っ暗で、訪れた人々が手に持つキャンドルと祭壇の周りに飾られた沢山のキャンドルの灯火が薄ぼんやりと当たりを照らしていた。温かい光。ゆらゆらと揺れるオレンジ色の炎に教会の正面にかかった金の十字架や、その後ろにある鮮やかなステンドグラスが反射して輝く。まるで魔法の国に来たような気分になった俺はその景色を見て唯「綺麗」と呟くことしか出来なかった。
高鳴る胸の中、両親に手を引かれ前の方の椅子に座ると、俺は拓兎の姿を探し終始当たりを見渡した。牧師様のお話が始まった頃だろうか。やっと俺は会場の脇に立っている白い服を着た集団に気が付いた。
天使のような真っ白な姿。皆と同じように手にはキャンドルを持って、胸には少し大きめの十字架のペンダントを下げたその集団の中にいる天使のような少年の存在に俺は釘付けになってしまった。いつもと着ている服が違うだけなのに、お兄さんお姉さんに囲まれながら凛と前を見据える拓兎は俺の知っている拓兎とは別人に思えた。
礼拝が進み賛美歌を歌うタイミングで拓兎がいた集団がゆっくりと前に歩み出してきた。聖歌隊の中で一番小さかった拓兎は最前列にいて、丁度祭壇を飾るキャンドルの灯りが良く当たりそれがまるでスポットライトのようになっていた。
皆が一斉に立ち上がって渡された小さな歌詞カードに目を落とす。その中で俺は歌詞カードなんて一切見ずに拓兎だけを見つめた。不意に拓兎と目が合う。微笑む拓兎に見とれているとオルガンの音が鳴り響いてメロディーだけは良く聴いたことのある曲が流れ始めた。
周りの人たちが口を開くと同時に拓兎も口を小さく開く。瞬間、一斉に沢山の大人達の声が教会内に響き渡り当たりを震わせた。けれど、俺の耳にははっきりと拓兎の歌声が、拓兎の歌声だけが聞こえていた。
幼くたどたどしくはあるが、精一杯、楽しげに、それでいて清らかに歌い上げる彼の姿は今まで見たどんな風景よりも芸術品よりも美しくて。まるで全身に雷が走ったような心地がして体が熱に包まれた。
オニキスのような美しい瞳にじっと見つめられているせいだろうか。彼の歌声が、彼が口にする言葉が全て自分に向けられているような錯覚さえする。結局俺は賛美歌が終わるまでずっとぼんやりと口を開き拓兎を見つめ彼の歌声の中に抱かれ続けた。
やっと椅子に腰をかけた時には俺はもう熱に冒され意識も溶かされてしまっていた。どうにかこうにかキャンドルを落とさないように耐えたが、牧師様の説教も有り難い神の御言葉も全く耳に入って来なかった。代わりに頭には清らかに賛美歌を歌い奏でる拓兎の姿と、いつも隣にいて俺に屈託の無い笑顔を見せる拓兎の姿が交互に映った。
いつもと違う拓兎の姿を見たからドキドキしているのだろうか。そう思って頭の中のアルバムを捲る。結果、どの拓兎と目があっても俺の心臓は激しく高鳴った。その事実がなんだか嬉しくて、苦しくて、恥ずかしくて言葉じゃ表現できなくて。
結局俺は、礼拝の後に俺に駆け寄ってきた拓兎に何も伝えることが出来ずただ顔を真っ赤にして彼の手を握りながら微笑むことしか出来なかった。
「あの時、思ったんだ。どうすればこの気持ちを表現することが出来るんだろう。拓兎に伝えることが出来るんだろうって。その時、俺、サンタクロースが送ってくれたプレゼントを思い出したんだ。覚えてるか? 俺、クリスマスにサンタさんにさ、色鉛筆を頼んでたんだよ。三十六色入ってるやつ。本当はさ、一緒に贈られたちょっと凝った……今でいう「大人の塗り絵」ってやつ。あれを塗るつもりだったんだけど、ふと思ったんだ。これで、自分の気持ちを、表現できないかなって。
だから俺にとってこの教会は、拓兎に――初めて恋をした場所で、絵を始めたきっかけにもなった思い出の場所なんだ」
思い出の教会。久しぶりに訪れたその場所は、あの日あの時より少し古くなっていて逆に趣が感じられた。しばらく教会内を歩きながら思い出を語り合い、ダークブラウンの教会椅子に腰を下ろしたところで、拓兎が「そういえば、着いてから話すと言っていたこと。あれ、なんだ?」と尋ねた。
俺は懐かしさと照れくささと恥ずかしさでいっぱいになりながら、口をもごつかせ、隣へ座った拓兎にそうひとしきりあの日の思い出を語った。全てを話し終え、温くなったミルクティーを一口飲む。甘いその味にあの日の思い出が重なって、また俺は照れくさくなった。
俺と拓兎の二人しかいない教会の中は、拓兎が息を呑む音がはっきり聞こえるほどに静まりかえっている。拓兎は今にも大爆笑しそうなのを――やはり場所が場所だからか必死に抑えているようで、口を膨らませながらぷるぷると震えていた。俺はこの顔を写真に撮って彼のマネージャーや元バンドメンバーに送りつけてやろうかと若干腹立たしい気持ちになってスマートフォンを構えようとする。だが、吹き出すような笑い声を上げた彼に勢いよく抱きしめられた瞬間、その苛立ちも吹っ飛んでいってしまい、苦笑いを浮かべ彼を抱きしめ返した。
「全く、かわいいなぁ、真は」
「今の話のどこにかわいいエピソードがあったんだよ」
「全部だよ。そうか……お前は、俺のために絵を描き始めたのか」
「そ、そうだよ。今はお前のこと描けないけど……」
「それでもいい。最近は顔だって鼻と口だけなら描けるようになっているし、そもそも、きっかけが俺であったことが嬉しいんだ」
「お、お前がきっかけで始めた事なんて山ほどあるぞ。料理だって、親の帰り遅いってのもあったけど、お前が美味いって言ってくれたから、凝ったもの作りたいって思うようになったし、他にも、」
「俺が歌を歌い始めたきっかけはお前なんだよ、真」
「え、」
「お前に自分の思いを伝えるために、歌を歌い始めたんだ」
突然の告白に俺は声も出せないままに強く抱きしめられる。常々「お前のために歌っている」とは再三言われ続けていたが、俺にとっての「きっかけ」が拓兎であったように、拓兎の「きっかけ」も俺だというのは初耳だった。なんだか可笑しくて笑ってしまう。
「俺達、幼馴染なのにまだまだお互いについて知らないことだらけだな」
「そうだな。いいさ、これからゆっくり話していけばいい。より深く知っていけばいい。明日、永遠を誓い合うんだ。永遠だぞ? どれだけ互いのことを話し合っても時間が余る」
「そうだな」
体を離し、見つめ合う。あの時のように拓兎は俺の目をじっと見つめて微笑んだ。ステンドグラスの淡い光が拓兎の顔に落ちる。いつの間にか互いの息が絡まり合うほどに俺達は顔を近くに寄せていた。
拓兎がいつもとは違ってフォーマルな、きちんとした服を着ているからだろうか。それとも、教会という神性な場所、しかも特別思い入れがある場所だからだろうか。落ち着いていたはずの心臓がまたうるさくなってきた。
「予行演習、しようか」
何の。問う必要の無い質問は熱い息に溶かされる。火照った唇同士が重なり合う。それ以上深くなることは無いが、じわじわと熱を広げていく口付けは互いの笑い声が口の端から漏れ出るまでしばらく続けられた。先に笑い出したのはどちらだろうか。そんなことも直ぐにどうでも良くなって俺達はまた静かに身を寄せ合った。なんだか、胸の辺りがじんわりと暖かい。そのぬくもりが予想外で俺は口を開いた。
「――もっと、罪悪感とか、背徳感みたいなのがあると思ってた」
「神様の前だからか?」
静かに頷く。
「もうとっくの前にお前は許されているんだよ。神様にも「かみさま」にも」
その言葉にも静かに頷くと拓兎は無言で立ち上がった。その顔は少し心配そうだったけれど何も訊いてこなかったのはきっと、俺の表情が曇りを見せていなかったからだろう。拓兎は安心しきった顔で笑うと俺に手を差し出した。その手につかまり立ち上がる。
「そろそろ実家に行くか。今日晩はどうする。俺の家に泊まるか」
「いや、実家に泊まるよ。部屋も整理した方が良い気がするし」
「本当に嫁ぎに行く前日みたいだな」
「心情的にはまさにそんな感じだよ。嫁ぐのか娶るのかよくわからねぇけど。あ、そういえば母さんが晩飯食べに来いって。都合合えば真里亜さんと理人さんも是非って言ってたぞ」
「お、それならお邪魔させて貰おうかな……」
そんな話をしながら俺達は教会の玄関へと向かう。外へ出て扉を閉める前に俺は振り返り教会の全体を見渡した。
明日この場所で、俺達は式を挙げる。結婚式。真似事と、ままごとと言われるかもしれないその式に、この教会の席が全て埋まるほどの人数が出席してくれるらしい。そんなに沢山の人たちに祝福されるなんて、なんだか全く実感が湧かなかった。
もしかしたら、これは夢なのでは無いか。少しだけ幸せが怖くなってきて正面へ向き直りながらそんなことを思う。一瞬だけ背後から油絵の具の臭いがしたような気がした。
「真」
優しい声が耳珠を撫でる。心配してくれているというよりは背中を押してくれている。そんな声だ。
「大丈夫」
「うん」
「誰になんといわれても、拓兎のことずっと愛し続けるって決めたから」
「うん。はは、改めて聞くと嬉しいな。だが、俺を愛するのと同じくらい、真に愛して欲しい人がいる」
「大丈夫、ちゃんとわかってるよ」
俺達はゆっくりと教会の扉を閉めた。
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