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第1話
支給されたまま初期設定を変えてもいないスマホの、飾り気のない着信音が椿(つばき)の耳には『魔王』の響きにも聞こえる。
すうと息を吸って心を「無」にし、細い黒縁の眼鏡を押し上げると、一部の国では悪魔の目の色だという、緑の応答ボタンをタップした。
「はい。梓市役所『ご縁巡り課』月森です」
いっそ冗談であってくれと思うが、正真正銘これが椿の在籍する職場の正式名称だ。
東京から飛行機で一時間半、しかし最寄り空港があるのは隣の市になるためそこから一時間に四本の在来線に乗り、下手すると飛行機に乗っていたのと同じだけの時間をかけてやっとたどり着く典型的な地方都市、それが梓市だ。
市役所の窓からも街の真ん中に鎮座するのが見えるのは梓城。梓市のランドマークであり、貴重な観光収入源でもある天守閣は、日本国内に現存する十二の天守の中で二番目に広く、三番目に高く、五番目に古い。
つまり一番は一個もない。
隣の市にはおそらく日本で一番に有名であろう縁結びの大きな神社があり、同じような「空港はあるそこけど市街地まで同じだけ時間がかかる地方都市仲間」でありながら、知名度、観光客数で大幅に水をあけられていた。実際のところはご利益があると評判の神社は梓市内にも多数あるのだが、人はまずわかりやすいネームバリューに飛びつくものだ。
そんな梓市も今年は開府四百年。
「縁結び」を前面に押し出してうまいこと若い女性観光客を呼び込んでいる隣市にあやかって――要するにちょっとパクって――「こちらも観光客を取り込んでいこう、今年は開城祭りも盛大にやらなきゃだしね! 記念事業として街コンとかもやっちゃおう! ついては椿君宜しくね! なんてたって若手だし、東京帰りのシチーボーイだから」という地獄のような理論で三年目の異動と同時に立ち上がったご縁巡り課に配属された。
東京の大学を出てこちらに戻り、最初の配属先は戸籍課で、受付業務を除けばあまり人と接することのないその仕事が椿は気に入っていた。
それが突然の商工観光課内の業務だ。
もちろん、公務員が二年ごとに異動するのは知っていたのだが、実際に地域の商店の人たちとも顔を合わせたりする課になってしまったのは誤算中の誤算だった。その上街コンを手掛けろだなんて。
だいたい、椿は街コンというものに懐疑的だった。
わざわざそうまでして恋愛したいだなんて、がつがつしすぎ。
そもそも恋することになんの障害もないノンケなんだから、手近なところで見繕っとけよ、贅沢に選ぼうとしてんじゃねーよ、と思ってしまう。
そう、椿はゲイだ。
こんな、鉄道の駅が完全自動改札化したのも実はほんの数年前みたいな田舎で、それは死にも等しい十字架だった。
今時まだ、男でも高校生の頃から親戚一同が集まれば結婚結婚と煽られる。月森というまるで漫画にでも出てきそうな苗字の家柄をさかのぼれば、城でご家老だかを務めた家柄だそうで、椿はその家の一人息子だった。ちなみにこれまた漫画チックな「椿」という名は、すでに鬼籍に入った祖父がつけたらしい。
曰く「椿は散るとき首ごとぽろっと落ちる。その様のように潔く、男らしく育て」と。
武士か。
そうなれば一層、まるで繁殖のみが唯一の正義であるかのように、親戚たちの「結婚してこそ一人前」攻撃は激しい。事実、県内で屈指の名門校に通っていた椿に早いうちから唾をつけてしまおうと、高校在学中に見合いの話が持ち込まれたことも何度かあった。
二十一世紀に、冗談みたいな話だ。
だからこそ一度は東京に出て行ったし、やむなく戻ったあともなるべく人と関わり合いにはならずにひっそり生きていこうと思っていたのに、なんの因果で人と、それも人の色恋と関わらなければならないのか。もしも匿名でSNSなどやる性分だったなら、きっとこう書く。
「〇ね、リア充。さもなくば滅びよ」
それなのに。ああそれなのにそれなのに『ご縁巡り課』。
『縁結び課』では隣の市とまるかぶりしてしまってよろしくない、という理由でこのようなどうにも半端なネーミングになったわけだが、実のところ定年手前の観光課の課長(自治体にもよるが、役所の階級は一般企業とだいたいひとつずつずれている。この場合の課長は、一般企業での部長クラスだ)が出した初期案は『ラブラブ♡アッチッチ課』というものだった。
椿は想像する。
『はい。梓市ラブラブ♡アッチッチ課、月森です』
死ぬ。
口にする度内臓が壊死しやがて確実に死に至る。
考えただけで五臓六腑が発酵しだしそうな苦しみに、いつしか無言になってしまっていたらしい。
『椿さん?』
という声で現実に引き戻された。
「はい」
『ああ、切れちゃったかと思った。こっち下まで来ました。よろしくお願いします』
応じる声に、こちらの不調法を責める響きはない。スマホ越しでも周りまで明るくする笑顔が見えるようだった。
相変わらずきらめいてんな。
死ね。
心の声には丁寧にラップをかけて心の冷蔵庫にしまい込み、椿は市の職員から「椿君はそうねえ、かっこいいっていうより綺麗系よね」と言われる外面を保った。
「――すぐに行きます。では」
「早坂君から?」
「はい。観光協会の皆さんもう下にお揃いだそうです」
椿の言葉に、観光課の上司や同僚が数人立ち上がる。今日は観光協会の面々と街コンのコースの確認をすることになっているのだ。
梓市の場合、観光協会は市役所と同じ敷地内、生涯学習センターと同じ棟の一角にある。建物内でつながってはいないため、待ち合わせはロビーに指定してあった。
同僚たちを伴ってエレベーターに向かう廊下の照明は、やや暗めだ。
「なんだ、暗いなあ。最近どこもこうで、しみったれた気持ちになるよ」
「……今日は曇ってますから」
バブル入所の上司の、悪意がないだけに微妙にイラっとする言葉に適当に応じる。きょうびはどこも節電節電だ。市役所だけ煌々と灯りがともってなどいたら、速攻でクレームの投書が来るだろうに。
梓市は日本海側の気候に属しているのだから、曇り空が多いのもこれまた仕方のないことだった。いくら神様がよそより沢山おわす場所でも、変えられないことはある。
エレベーターホールにたどり着くと、車椅子の年配女性がひとり、到着を待っていた。なにか申請の手続きにでも来たんだろうか。
数年前の増改築で後付したエレベーターは、そう広くない。ここに自分と同僚たちが乗り込んだらきっと窮屈な思いをするだろう。
といってこちらもいい加減年配の課長に譲れともいえない。観光協会の面々はすでに下で待っている。
――くそ。
内心で舌打ちしながら「僕、船着き場に連絡してからいきます」と告げて彼らをその場に残すと、椿は階段に回った。連絡など部屋を出るときにしてあったが、わざわざ「乗り切れないので」などと口にはしない。
そもそも利用者のためにバリアフリーを謳って増設したエレベーターなのだから、自分たちがどかどか乗り込むものではないのだ。
どこでも我が物顔の上司が恥ずかしい。田舎の年寄りの、ちょっとした気の利かなさ。それがたまらなくいらっとする。いらっとしながら、そんな街に戻ってきてしまった自分にもっといらっと――椿はだん、だん、と二段飛ばしに階段を駆け下りた。
硝子張りのロビーまで降りる。曇り空でもさすがに三階よりは明るい。開けた視界に女性の笑い声が重なって、息切れしながらそちらに目を向けると、誰かが到着したエレベーターのドアをすぐ閉じてしまわないよう抑えているところだった。
「すみません、有難うございます」
「いえいえ。あ、そこちょっと段差ありますね。俺ちょっと押しちゃいますね」
いくらでも箱モノを建てられるような時代はもはや伝説の彼方だ。増改築してなんとか生きながらえさせている庁舎は、完全バリアフリーとはいかないのが現実だった。
しまった。降りるときのこと考えたら、狭くても一緒に乗り込むのが正解だったのか? そっちのほうがベターだったのか?
若いころからゲイバレを恐れ人と距離をとってきた。二十一世紀らしからぬ要求をしてくる年配の親類とはなおさらだ。だから椿には、こういうときの判断がとてつもなく難しい。
悶々としているうちに、ドアを押さえていた青年は、笑顔になった女性の車椅子を軽やかに押していった。長身で引き締まった体躯の彼の所作には危なげがない。道路まで続くスロープの下まで送っていくと、長い脚で階段を一跨ぎし、玄関ポーチで待つ椿たちの元に戻ってくる。
「すみません、お待たせしました」
「早坂君、さっそく馴染んでるねえ。生まれたときから住んでるみたいじゃない」
「いえいえ、こちらの方がみなさんやさしいからですよ。――じゃ、行きましょうか、椿さん」
青年――早坂晴臣はわざわざ椿のほうに向きなおって笑顔で促す。下の名前で呼ばれるのは、同じ役所内に父や親戚が数名勤めているからであって、けして親しい間柄なわけではない。
いやむしろ晴臣は、椿の目下最大の敵だ。
「早坂君ほんと惜しいわあ。うちの姉のところにちょうど頃合いの娘がいるんだけどなあ」
「僕も残念です」
晴臣は真顔でそう応じたあと「なんて」といたずらっぽく肩をそびやかした。確か歳は一つ下の二十五のはずだが、そんな仕草が幼稚でもなければわざとらしくもない。少しの毒も発することなく、ただことを収めることができてしまう男。
「あー、その爽やかな笑顔。ねえ、ほんとにゲイなの? もったいない」
そう、今年観光協会の職員になった晴臣は、オープンゲイなのだ。
惜しいだのもったいないだの、都会の企業なら即刻コンプラ的な問題に発展してもおかしくない発言をさらりと交わし、微笑むこいつ、早坂晴臣 は。
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