5 / 40

第5話

 なにかまだ言いたげな龍介に見送られ、椿はやむなく晴臣と連れ立って城に向かった。  大手門、といっても地名として残るだけの城正面に回り込み、天守閣公園を目指す。空は相変わらず雲に覆われたままの平日昼下がり、芝の植えられた城前の広場に人影はまばらだ。  ところどころ開城時からここで生きているのだろう巨木がある以外は特に見どころもないそこに、ぽつんと黒い影がある。  忍者だ。  たしかそれは、椿が高校生の頃から現れたと記憶している。  学校終わり、友達もなく、かといってまっすぐ家に帰っても勉強以外することがなく、ここでぼうっと座って過ごした。そのときにいつも遠くに存在していた。  どうももっとメジャーな城のように、立派な甲冑を着た「おもてなし隊」など予算的にもエピソード的にも出来ないこの城で、苦肉の策として始まった取り組みらしい。  といってもなにをするわけでもない。忍者の格好をした人物(男か女かもよくわからない)が、近寄ってきてなにかパフォーマンスしてくれるわけでもなく、ただ公園の片隅に佇んでいる。  そんな意味不明さが逆に受け、たまにSNSに投稿されたりする。ハッシュタグは「#忍者いる」で、なんのコメントも添えず淡々とするのがファン(?)の間では暗黙の了解となっているらしかった。時々海外の忍者マニアの間でも話題になったりしている。  梓市の取り組みの中で唯一時流に乗っているともいえるそれを、誰がやっているのか椿も知らない。 「あ、忍者だ。やった」  晴臣も早速スマホを取り出して、忍者の姿を写真に収めたようだ。 「に、ん、じゃ、い、る、送信っと。――椿さんは撮らなくていいんですか」 「いいです。それより早く仕事して帰りましょう」  チケットを買って中に入る。受付で早速「足元に気を付けてくださいー」と声をかけられる。靴を入れるビニール袋とパンフレットを渡された。見たところ、椿が子供の頃から一ミリも変わらないデザインの城のものと別に、ピンクの小さいものが一緒になっている。 「はい。今ハート見つけてSNSに投稿してくれたら、抽選でプレゼントやってますから」 「ハート?」 「これやってるから神社一か所削ってもここ入れたいって思ったんですよ」  晴臣に言われてピンクの用紙に目を通す。なんでも『城の柱のどこかにハートの木目があるよ♡みんなで探しちゃおう♡』とかで、最近それが縁結びに効果あり、と話題になっているそうだ。小学校の遠足で来たときにはそんなものはなかったはずだから、誰かが偶然発見して、無理やりこじつけたのだろう。これまたなんとか時流に乗っていこうという、涙ぐましい努力ではある。 「普通にお城行ってーって行ってもなかなか気が進まないから、いいでしょ。結果的にお城もじっくり見ないといけなくなるし」 「……なんでもかんでも縁結び縁結びって」  こっちは誰かと結ばれるなんて以前に、ただ生きてるだけで息苦しい思いをしてるってのに。 「ん?」 「いえ。そういうものがあると余計に足元がおろそかになるかもしれないから、注意書きは大きくしないと」  何度か来たことのある椿でさえうっかり躓きそうになる大きな段差を跨ぎ、中に入る。保存のため採光は極限まで絞ってあるから、中は薄暗かった。もっともこれもコンサル様に言わせれば「それがいい」のだろうが。  入ってすぐは城の構造の説明が展示されている。柱に目を凝らすが、ハートはないようだ。 いくらなんでもかんでも縁結びにこじつけようというがばがば企画でも、さすがにこんなにすぐ見つかるところにはないか――いや別に、探してなんてないけど。  そそくさと二階に向かう。 「わ、階段やっぱり急だなー。最初は街のレンタル屋さんに協力してもらって着物で街巡りって案もあったんですけど、足袋履いてこれはきついだろうな。むしろそれがいいかなとも思ったんですけど、怪我する人いるかもな……やめて正解だった」  そう言う晴臣のあとを、手すりに掴まってどうにか体を引っ張り上げるように上る。ただでさえ暗いのにその上ふっと影が差して、反射で面を上げると、階段の上から晴臣が手を差し伸べていた。  ――なるほど、こういう。  コンサル様はなんでも計算済みですなあ。なぜか年寄りのような口調で思いながら、 気づかないふりで腕を無視して登り切った。  二階は一階よりも広く、展示も多い。とはいえ平日の半端な時間だ。城と梓の成り立ち、それぞれの時代に沿った甲冑や絵などが置かれたその空間に、自分たち以外の客はいなかった。 一度しか来ていない、と口にしていた割に、晴臣は迷いもなく一枚の絵の前へと進んでいく。 「これこれ。俺この絵好きなんですよね。最初に来たとき見て……三代藩主の殿様が失明したとき、殿様が好きな牡丹の花を見せてあげたいって、小姓が自分の目を差し出そうとして、殿様は泣いちゃったってやつ。椿さんはこのお話知ってます?」  知ってるもなにも。  椿は内心苦笑した。  己のセクシャリティを自覚したきっかけだよ、それは。  なにしろ城中心のこの街で、お殿様エピソードは至る所で語られる。  中学校の夏休み、宿題に渡される冊子の中のひとつのコラムとしてそれを読み、添えられていた絵を見たとき、椿の中で漠としていたものが初めてひとつに纏まって、輪郭を持った。  もちろん、コラムは「忠義心」だの「思いやり」だのがテーマで、それ以上の意図はなかったに違いない。  でも椿にはわかってしまった。小姓と殿様の間に漂う、単なる部下と上司ではない気配が。  親戚が集まる度に早くも浴びせられる「おまえは月森の男の子なんだから、早く結婚して子供を作らなきゃ」攻撃に、どうしてこんなに胸がざわつくのか。 バレンタインの時期になると教室のあちこちに固まって囁かれる女子の値踏みするような視線が、どうしてこんなに不快なのか。  たまにテレビや雑誌で見かける芸能人で、心を動かされるのは男性ばかりだった。  ああ、そうか俺は「そう」なんだ。  はっきりとわかったことで、それまで感じていた漠とした不安は消え、けれど今度はもっと重い不安が襲ってきた。  これを、誰にも知られてはいけない。  祖父は、婿養子の父のことをあからさまに一段低く扱う人だった。  食卓でも両親を通り越して椿に話しかけたし、椿が中学生になると、親族の集まりのときにも父より上座に座らされるようになった。そういう家に育ったのだ。  両親は特別厳しくもなく仲も悪くはなかったが、ともかく高校三年生の夏に祖父が亡くなるまでそんな調子だったから、おかげさまで距離感は未だに微妙だった。腹を割って話したことなど一度もない。  本家ということで頻繁に人が集まり、その度結婚をちらつかされ、父が低く扱われるのを見せつけられる家は、椿にとって寛げる場所ではなかった。母は母で「女だから」という理由で発言権を奪われた期間が長すぎたせいか、椿にどう接したらいいかわからないようで、こちらから連絡を取らない限り顔を合わせることも年に数回だ。  市役所に就職が決まり、祖父がいなくなったとはいえまたあの家に戻るのかと思うと気が重かった。通常遠方の者から優先の宿舎にたまたま空きが出て入居することが出来たときには、ほっと胸を撫でおろしたものだ。 とにかく、いつも息苦しさを感じて生きてきた。この街を出る為に最短距離の進学校が市内にあったのは幸いだったが、それが男子校であることはいっそう椿を苦しめた。  この中の誰かを好きになってしまったらどうしよう。  もしもそんなことになったら、毎日顔を合わせるのに、自分は平静を装えるだろうか。 勉学第一で強制ではなかったのを幸いに、部活には参加せず、極力友だちも作らず、息を潜めて暮らした。なにもここで危険を冒すことはない。誰も知る者のいない東京に出れば、あとは本当の自分を出して暮らせる。たった三年の我慢だ。そう自分に言い聞かせて。 「椿さん?」  晴臣の声で我に返った。しまった。不自然なほど間が開いてしまった――どうごまかそうと脳味噌をフル回転させたとき、階下から賑やかな声が聞こえてきた。 「はいみんな、ちゃんと手すりに掴まってー! 一段一段、ゆっくりのぼりましょー!」  若い女性の声に「はあい」「はあい」と返る幼い声がばらばらなのは、非日常空間で早くも気が散っているからだろう。揃いの帽子をかぶった幼稚園児たちが「俺のほうがはやいもんねー!」「んしょ、んしょ」などと口々に声を上げながらのぼってきて、静かだった空間はあっという間に嵐の中に巻き込まれる。おかげで晴臣の気がうまくそがれて、質問には答えずに済んだ。  遠足なのか、いずれにせよ梓市の歴史など幼児が興味を持つはずもなく、数人の男子が甲冑の前で「すっげー!」「かっけー!」とはしゃいだ声を上げた他は足を止めることもなく、最上階を目指してまた階段を昇って行った。  再び静けさが訪れたかと思うと、今度は歌声が聞こえてきた。おそらくは市内で一番高いであろう場所に上って興奮した男子が歌い始めたのは、ともだちが百人できるかなと歌うあの歌だ。 「こらー、みんな、静かに!」という保育士さんの声など聞き入れられるわけもなく、最後には大合唱になっている。合唱といっても合わせる気などさらさらなく、おのおの限界まで声を張り上げて競うようなそれは、びりびりと城の屋根を揺らすようだった。 「はは。すっごいな」と晴臣は笑う。 「てか、あの歌今の子も歌うんですね。椿さんときはどうでした?」 「俺は嫌いだった」 「嫌い?」  晴臣が目をしばたいて、身を乗り出してくる。訝しむでもなく、ただ単純な好奇心がその目に見て取れた。しまった。こいつと極力話なんかしたくないのに、興味を誘ってしまったか。  その質問まで無視するわけにはいかなくなって、椿は苦々しく口を開いた。 「百人も友達がいて、毎日会ってたら一年に三回くらいしか同じ奴と会えなくて結局誰ともほんとには仲良くなれない。そう言ったら先生に怒られた。……あとになって、別の奴に毎回百人全員といっぺんに遊べばいいだろ! って言われたけど、そういう発想も、俺にはなくて」  たかが子供の唱歌だが、なんだか自分の小ささを思い知らされたようで、この歌の印象は今もずっと苦い味わいのままだ。  案の定、晴臣も呆気にとられたように目を見張って――それから、ふっとほほ笑んだ。 船の中で見せたあの顔と同じ、慈しむような笑みだ。 「ひとりひとりとじっくり向き合いたいんですね、椿さんは」  ――え?  きっと笑われる。そう思って身構えていた椿に、晴臣の言葉は意外なものだった。意外過ぎて、なんと返したらいいかわからずにいるうちに、晴臣はさらに告げる。 「凄くいいと思いますよ。そういう人って、つきあったらひとりを凄く大事に見てくれそう」  つ、つきあう? 誰が? 誰と?  いや、今こいつは一般論を述べただけだ。別に誰がとか言ったわけじゃない。――のか?  気がつくと、いつの間にか子供たちの大合唱はやんでいた。ひとしきり騒ぎ倒して気が済んだのだろうか。さすがに係りの人に注意でもされたのだろうか。おとなしく景色を見ているようだった。  新たに階下から上がって来る客もおらず、花頭窓から差し込む曇り空のわずかな自然光と、展示のためにぎりぎりまで絞られた照明しかない空間は静けさに満ちていた。 「――椿さん」  晴臣が不意に間合いを詰めてくる。 そのまっすぐな眼差しに圧倒されるように、椿は一歩後ずさった。  後ずさった分だけ晴臣はまた詰めてくる。  え。  ちょっと。  ちょっと待った。  精悍な顔つきの割にまつげが長いと、さっき船の中で知ってしまった。暗がりで細められた目には、慈愛の気配さえ感じる。  これは。  そういう。  でも、だって、上に人だっている、のに。  じりじりと後ずさっていた靴下のかかとが、固いものに触れた。城の太い柱だ。逞しい腕が伸びてくる。

ともだちにシェアしよう!