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第25話

 翌日の朝は頭痛と共にやって来た。  逃げるように帰って、ベッドに潜り込んだのまでは覚えている。  体は重く、ベッドから出ることもかなわない。  生乾きの髪でうろうろしたから風邪をひいたんだな――メンタルが体調に出たとは思いたくない――幸い週末だったからそのまま寝て過ごし、それでも良くならなかったので月曜を街コンの代休扱いにして医者に行くと、出された診断はインフルエンザだった。 診察室をあとにしながら、職場に電話を入れた。 「ご迷惑をおかけしてすみません。打ち上げも顔も出せずに……」  ついでに一言添えておくが、課長がすっかり出来上がっていたおかげで、椿の不在はわざわざ取りざたされることはなかったらしい。 『まあインフルじゃ仕方ないよ。あとあの日だけど、岡君もちょっと顔出しただけで結局泊まらずに帰ったんだよ。翌日団体さんの予約が急に入って、船の準備が早朝からあるからって』  龍介も帰ったのか。――傷つけてしまったんだろうか。  龍介が「この世の終わりみたいな顔で、この世の終わりみたいなものを喰ってんじゃねーよ……!」と叱り飛ばしたのは、正しい。  あの頃椿は梓に戻って日が浅く、佐久間のことを引きずっていた。二度と戻らないと決めた梓にのこのこ戻って、酒の席でくり出される「早く結婚して子供を」攻撃に、いちいち傷ついて。  食事なんて心底どうでも良かった。堀に飛び込もうなんて考えたことはなかったが、いっそ乾パンの中の角砂糖を喉に詰まらせて死ねたらいいのにな、くらいの投げやりな気持ちではいたのだ。 『周りに色々言われはするだろうけど、お互い結婚しないで、ずっとそばに』  龍介のことだから、自分がそうしたいと言えば本当にそうしてくれるんだろう。あくまで友だちの距離を保ちながら、でも、ひとりにはしない。  本当にそんなことが許されるなら、心はずっと凪のまま、穏やかに暮らせていけるんだろうか。 『結局早坂君だけ朝まで付き合ってくれたんだよー。いやー、彼はお酒も強いねえ』  ――また、あいつか。  課長が詳細を知るわけもないのに、名前を耳にしただけで心の水面が漣立つ。それは次第に大きな波紋を描いて、熱で気怠い体の中に広がっていった。  未だ「酒豪」=「男らしい」という文化が残る田舎で、課長は上機嫌だ。  というか、朝まで付き合えたんだな。  あんなことがあったのに。  身勝手だとはわかっていながら、じわりといらだちがわいてくる。 だって俺は逃げるように帰って、今朝出てくるときだってうっかり玄関先で会ってしまわないよう気を張って――あれは全部無駄だったというわけだ。  そりゃそうだ。誰かに「愛してる」なんて言ったその口で、今度は自分を口説けるような男なのだ、あいつは。  騙されなくて良かった。 信じなくて良かった。 俺はなんにも間違ってない――よな? 『まずはしっかり治して。治ったら、次はいよいよ城祭り本番だよ。贅沢しちゃった分、頑張らないと』  贅沢したのは主にあんただけですけどね、と思いながら、椿は通話を終えた。     少し考えて、病院の売店ですぐにマスクを買うと、歩いて帰った。  インフルを煩っているのにバスは問題外だし、タクシーは密室なだけに感染率が上がってしまう気が――と考えた結果だ。  覚束ない足取りでどうにか職員宿舎の自分の部屋にたどり着くと、ベッドに倒れ込んだ。倒れたままかろうじて上着だけ脱ぎ床にだらしなく放ると、芋虫のように丸くなる。  歩いたのが正解だったのかどうか、わからない。  それを訊ねる友だちもいない。  祖父は、椿が体調を崩すと心配するどころか怒り出す性分だった。  たるんでいるからだ、と。  だから今でも椿はこんなとき、心と体の背反で引き裂かれそうになる。  体は限界を訴えて眠りたがっているのに、心は時間を無駄にするな、起きてなにか有益なことをしろ、と責め立てるのだ。そのせいか、たとえ風邪ごときでも治りはいつも遅くなった。  ――それが嫌だから、いつも気をつけているのにな。  子供の頃、休み時間の度にうがい手洗いをする椿を、クラスメイトは「まーじめー」とからかった。  うるさいな、と軽くかわしながらいつも思っていた。  本当に真面目なら良かった。  自分は、臆病なだけだ。    夜半、夢を見た。  いや、正確には夜半だったのかもわからない。何時間、どのように眠っていたのか、眠れずにただ意識が浮き沈みをくり返していただけなのか。  とにかく悪夢なのは確かだった。  小学校高学年になって、クラスの仲間たちが女子の噂話に花を咲かせる、その輪の中の居心地の悪さ。  殿様と小姓のエピソードを知ったときの、謎が解けた感覚。  そのあとに襲ってきた、梓の海にひとりで投げ出されたような、大きな不安。  逃げるように梓をあとにして、楽しかった東京での暮らし。  そして。 『一瞬誰だかわかんなかった』  そんなことを、あっさり、あの誰もが引きつけられずにいられない笑みで告げる佐久間の顔がよぎったとき、椿は激しく咳き込み、嘔吐いた。  悪意のある誰かに胃を直接鷲づかみにされ、揺さぶられている。なにも口に出来なかったから、空のままの胃袋はただただ終わりなくぎゅうぎゅう締めつけられて、呻き声だけを絞り出す。  ――インターホンが鳴ってる?  不意にそう思った。でも、誰だ。自分を訪ねてくる者などいないはず。  熱による幻聴か。そもそも夢か。  ――どっちにしろ、起き上がるの、無理。  無視していると、ピンポンというその音は心なしか遠慮がちに数回鳴ったあと止んだ。  やっぱり夢だ、と思ったとき、とんとん、と今度はドアを直接ノックするような音がした。  しつこい夢だ。  ――椿さん。  ――ほら、夢だ。 こんな夢、無視するに限る。ぐらぐら揺さぶられるような胃を抱えたまま椿は寝返りを打って玄関に背を向けた。そのつもりで、実際自分がどちらをむいているのか、どちらが天地なのかもわからなかったのだが。  ――椿さん?  胎児のように、さなぎのように丸くなり、ただただ幻聴が去るのを待つ。  誰かが俺の部屋のドアを叩くことなんて、もう、ないんだから。

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