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第26話

 その電話が鳴ったのは、結局インフルによる欠勤が十日にも及んで、たまりにたまった城祭りの準備に椿が忙殺されている最中のことだった。 「はい、商工観光課、月森です」  ご縁巡り課、という内臓の灼ける名前でなく本来の所属の名を口にして応じる。 『月森さん、ええと、受付なんですけど……』  なんだろう。ひどく歯切れが悪い。  もしかして、たちの悪いクレーマーでも来ているんだろうか。残念ながら、どんなに真面目に職務に励んでも、年に数回はそういうこともある。  ――でも、なんで俺に?  そういう場合のマニュアルは実はちゃんとあって、梓市では、まずは関係各部署の責任者、出払っていて誰もいなければ責任者に見える年長者が出ていくことになっていた。いきなり警備員を呼んだりすると、相手によっては逆上して余計にことが大きくなるからだ。  内線番号を間違えた? でも今月森さんて言ったよな? 親戚の誰かと間違えたとか? 考えを巡らせている間に、電話の向こうが騒がしくなる。誰かが受話器を奪ったようだ。 『椿さん』  やっぱりもめ事か、と身構えた耳に、その声は不意に入り込んで、椿は震えた。  旅館での夜以来、晴臣とはまともに顔を合わせていない。  熱に魘されたあの夜、聞こえたのは晴臣の声だったような気もするのだが、確かめてはいなかった。だいたいなんて言えばいい? 「おまえ、うちに来た?」 ――却下。そもそも「もう関わるな」と告げたのは自分のほうだ。 そして実際、仕事が忙しすぎた。 祭りは例年行われているが、今年は開城四百年の節目の年。街コンはその一環としての仕事に過ぎず、これからが本番だ。しかも新プロジェクトがあって、その調整があった。 堀一面に、市の花である椿を浮かべようという試みだ。 例年初夏になると、近県の施設で牡丹の花を池一面に浮かべる行事がある。なにしろSNS映え抜群で、年々集客率は上がっていると市長自ら聞き及んできて「うちでもああいいうのできないの?」とカジュアルにのたまった結果だった。  まず、池と堀では広さが違う。そこにわずかばかりの椿を浮かべたところでしみったれた絵面になるのは想像に難くなく、量の確保をどうするかに始まり、冬とはいえ会期が終わったあと放置するわけにもいかず、処理を任せる産廃業者の選定、また、それだけのことをすれば堀端で足を留める観光客もいつもより多いだろうから、道路がらみで警察への許可と協力要請、それだけでは足りない交通整理のスタッフはどこから確保するか、その人件費に予算はどのくらい避けるのか、学生ボランティアを募集するにしても、まずその説明会の為の会場はどこにするのか――などなど、やることが文字通り山積みだった。  もちろん「前例」大好きな役所としてはちゃんとマニュアルが存在するのだが、記念の回とあって出店の数ひとつとっても例年より多いから、その審査などにも手を取られる。  もちろん観光協会のほうも、当日の催しの準備で大わらわのはずだった。  まともに聞くのは旅館以来になる晴臣の声は、椿の心を揺るがした。むかつくほどに。   あの夜、あの薄青い闇の中で、薄い浴衣越し晴臣のてのひらが体を撫でた。それは恋情と情欲で熱を持っていた。  電波を介して届く声は息遣いを伝えてくる。あの日、濡れた舌と同時に耳の中まで犯したそれを。 「――っ」  思い出すと見えない手で背中を撫でられたように、ぶるっと震えてしまう。  ――ばか、仕事中に。  そもそも晴臣がいけない。いきなり電話なんかしてくるから。  でも、なぜ、受付に?  訝しんでいると、かの声は言った。 『椿さん、――助けてください』

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