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第9章 第2話(5)

 どれだけの時間が経過したのかわからない。だがやがて、群司は肩の力を抜くと小さく息をついた。 「ひょっとして、あなたが『ルイ』さん?」  尋ねた途端、早乙女がかすかに目を瞠った。 「ち、ちが…っ」  否定しようとした早乙女の表情が、すべてを物語っていた。  群司の緊張が一気に解ける。不可解で矛盾だらけに見えた早乙女の言動が、ようやく理解できた気がした。 「そっか、あなただったんですね」  言いながら、群司は(またが)がっていた早乙女の上からどくと、その腕をとって身を起こさせた。 「乱暴な真似して、すみませんでした」 「や、がみ……、わた、しは……」  戸惑いの中にかすかな怯えの色を滲ませる目の前の麗容を、群司は覗きこんだ。 「兄貴が亡くなるひと月くらいまえに、携帯に電話をしてきたことがあったでしょう? 夜、十一時まえくらいに」  おぼえがあるのか、早乙女はわずかに息を喘がせて視線を泳がせた。 「俺ね、あのとき兄貴と一緒にいたんです」  群司の言葉に、早乙女は息を呑んだ。 「駅で偶然、ばったり会って、ふたりで軽く食事して別れるところだった。そこにちょうど電話がかかってきて、その電話に出た兄貴が言ったんです。『なんだ、ルイか』って。すごく親しげな様子で、そう言って笑って」  早乙女は俯き、口唇(くちびる)を噛みしめた。 「俺ね、その顔見て思ったんです。兄貴にも、ついに大事な相手ができたんだなって。俺がそばにいることさえうっかり忘れるほど嬉しそうで、いままで見たこともないような優しい顔してて」  言った途端に、早乙女の瞳から涙が(こぼ)れ落ちた。噛みしめた口唇が戦慄(わなな)き、布団の上にある両手がきつく握りしめられる。 「天城製薬で研究アシスタントをはじめて、天城顧問の存在を知るようになってから、彼女が電話の相手だったんじゃないかって思ったこともあったけど、なんかしっくりこなかったんですよね。美人だし、気取ったところもなくて感じがいいんだけど、あの人には、兄貴にあんな顔はさせられない。そういう違和感がずっとどこかにあって、どうしても納得できなかった」  早乙女の様子を窺いながら、群司はあらためて尋ねた。 「あなたが、ルイさんですね?」  握りしめた拳の上に、涙が落ちる。じっと俯いていた早乙女は、やがて小さく頷いた。

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