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自分の周囲だけ灯る炎の中から、闇一色の世界に足を踏み出す。
ここが帰るべき場所だと分かっていながらも、自分の居場所はここではないのだと主張する声が頭の中に響く。
それを無視して、一歩ニ歩と足を進めると、そこかしこから忍び笑いが聞こえ始めた。
「おい、見ろよ。出来損ないのジングが帰ってきたぞ」
「見た見た。あいつ、ジェイマー様の試練に失敗したんじゃないか?」
「だろうな。あいつが成功するわけがないとは思っていたが、試練に失敗したらどうなるのか知らないんじゃないか?」
「教えてやる義理もないが、想像したくもないな。見な、ジングの奴、泣きべそ掻いてるぞ」
「なっさけねえ奴だな」
げらげらと笑い飛ばされながらも、堪え続けていた涙は止まらない。
いつの間にかこんなに心の中を占めていた。
最初は脅迫されて、仕方なく一緒にいるだけだったのに、あの眼差しに、言葉に、声に本物の愛情があるような気がしてくると、あっという間に心まで囚われていた。
本物ならどんなによかっただろう。でも間違いなく、彼が本当に愛した相手は自分ではなく、偽りの自分で、本当の姿を知ったら冷めてしまうものだ。
そして、これから先はエレナを愛していくだろう。エレナでなかったとしても、人間の女性をちゃんと愛していくのだ。
それが真っ当な道で、あるべき幸せのかたちで、自分のような不浄な存在が邪魔してはならない。これはジャックスのためなのだ。
しかし、本当にそうなのかと問う声もする。
本当は、本来の姿を知られた時に拒まれることを想像し、自分が傷付きたくなかっただけではないかと。
それも確かにあった。いや、どんなに綺麗ごとで言い繕っても、きっとそれが大きな理由なのだろう。
泣き続けて体の水分がなくなり、枯れ果ててしまうのではないかと思い始めた時、不意に背後に気配が降り立った。
威風堂々たるこの気配は、間違いようもなくあの男のものだ。
「……王」
もはや取り繕っても無駄だと、涙を拭いもせずに振り返る。
恐らくこの王には、人間界であったことは全て知られている。ディレルという監視があろうとなかろうと、人間界の出来事を覗き見ることのできる力を持っていると噂で耳にしたことがあった。
そうやって悪魔の所業全てを掌握し、昇級させたり、あるいは罰を与えて、悪魔界を支配しているのだと。
王が代替わりする度、その代の王によって悪魔たちの命運は決まる。全ての王が公正な目を持っているわけではないからだ。
ジェイマー王は、一見公正で上下関係による差別化をなくそうとしているようにも見えるが、掟を破る者に対する厳しさを和らげることはない。
「ジング。帰って来るのが予想以上に早かったな。私が出した試練はどうした」
闇の中にいながらも、ジェイマーのアメジスト色の目は一層鋭い眼光を放つ。
確実に結果を知っているにも関わらず聞いてくるのは、単に試されているだけなのかどうかは分からない。
「もうご存知かと思われますが、失敗しました。お見苦しいところをお見せしてすみません」
頭を低く下げる間にも、また新たに一筋の涙が頬を濡らした。
「まあよい。すぐにのんびりと悲しみに浸ってばかりではいられなくなるからな。それに、お前は良き判断をしたと思うぞ。あのままあの男に翻弄されていたら、お前を悪魔界から追放せざるを得なかっただろうからな」
「追放、ですか……」
「そうだ。悪魔界でも人間界でもなく、ましてや天界でもない。他の生物が何も存在しない、無の地と言われた場所にな。話に聞いたことはあるだろう?私も前王の代に一度落とされたことがあったが、己の力で脱した。その地で膨大な悪魔の力を覚醒させてな。全王は私が前王を凌駕する力を手にすることを恐れていたようだったが、皮肉にも追放したことで力を得てしまったわけだ。以来、私はあの地を修行の間のように捉えている」
ジェイマーはそう言ってやや誇らしげに笑うが、あの地を脱することができた者は、ジェイマーを除いて他に誰もいない。
従って、他の者にとっては追放以外の意味を持たなかった。
常であれば、他の者と同じようにその地をジングも恐れるが、今はそこに落とされても構わないと思った。いっそそのまま消えてなくなれたらとさえ思うほどに自暴自棄になっている。
「そんなことはどうでもいいという顔だな」
「い、いえ、そんなことは……」
「まあよい。お前には単なる追放で済ませる気は元よりない。お前にさせた試練にどんな思惑があったか考えたりはしなかったか?」
「思惑、ですか……。何故我々の天敵であるエクソシストを、私のような力のない悪魔に堕落させようとしたのか考え、何かの手違いではないかと疑ったりもしましたが……」
「考えても分からぬようだな。いや、思い出せぬと言った方が正しいか」
「?」
言葉の意味が理解できずにいると、ジェイマーは何故だか険しい顔つきを緩めた。
「思い出さずともよい。そうなれば追放どころでは済まなくなる」
「はあ……。王がそうおっしゃるのであれば」
「そちらの思惑のことはさて置き、何故あのエクソシストを狙ったのかについては考えるまでもないだろう。短期間接しただけでも分かったはずだ。あの男の力が我々の脅威になると」
ジャックスの神々しいほどの悪魔祓いの力を思い出し、王の恐れを理解する。それと同時に、脅威を取り除いて仲間に取り込もうとした理由も十分に納得した。
敵に回せば厄介だが、取り込めば利用することも可能と考えたのだ。
それは理解できたが、肝心の自分が選ばれた理由について、王は分からなくていいと言うが、一体どんな理由があるというのだろうか。まさか自分に王と同じく強大な力が秘められていて、その覚醒を促すわけではあるまい。
ありもしない可能性を考えた時、王はジングを見て口元を歪めて笑いながら口を開く。
嫌な予感に涙はいつの間にか枯れ、代わりに冷や汗が背中を伝った。
「お前を追放しない代わりに、違う方法で罰を与えることとする。むしろ追放された方が良かったと思うかもな。お前の夢魔としての力を剥奪し、その体を牢の中で縛り上げる。人間界に逃げることも、姿を変えることも叶わないまま、飢えで消滅するのを待つのみだ。悪魔としての役目も果たせないお前に慈悲でチャンスを与えたが、それも無意味だったことが証明されたからな」
言い渡されたのは、人間界で言えば終身刑みたいなものだろう。
この時が訪れることはずいぶんと前から予感していた上に、もっと耐えられない苦痛を与えられることを想定していたために、僅かばかり拍子抜けする。
しかし、そんなジングに対して、王は更に言い放った。こちらの方が本題だったのだ。
「牢の中で息絶えるまで、人間界での出来事をその目でしっかりと見ているがいい。我らの最終目的は人間を全て堕落させ、手中に収めて支配してしまうことだが、手始めにお前が大切にする男の元に配下を送り込んでおいた。元々お前は宛にしていなかったのでな。お前はその悪魔のせいで諦めて帰ってきたようだが、無理もない。奴はあの男さえ上手く騙しているようだからな。ただ、少し私情に走りすぎるきらいがあるが」
「どういう……ことですか……?」
「その説明をする前に。ディレル!」
ジェイマーがぱちんと指を鳴らすと、背後に恐らくディレルが現れ、ジングの両手両足を見えない鎖のような物で拘束した。
「何を……っ」
暴れようとするが、鎖はびくともせず、そのままいつの間にか現れた牢に放り込まれる。
「ぐっ……」
牢の壁に背中を打ち付けて呻いていると、外からジェイマーがジングの頭に手を翳した。
その途端、体から力が奪われ、身動きするのもままならなくなる。
「体がうまく動かないだろう。その体勢からでも見えるようにしてやろう」
壁に寄りかかり、ぼんやりとして上手く働かない頭で、ジェイマーの言葉を夢の中の声のように聞く。
現実味がなく、自分の体が自分の物ではないと思うほど、指一本動かすのさえ相当な気力がいった。
目を開けているのも億劫で、泥のように眠り込んでしまいかけた時、無理やり覚醒を促すように目の前がカッと光った。
それとほぼ同時に、映像が頭の中に雪崩れ込んでくる。
「眠りながらでも見えるはずだ。そのまま大人しく牢にいるんだな。もっとも、出たくともどこにも逃げられまい」
ジェイマーの声がゆっくりと遠ざかる中、ジングはすでに深い眠りに落ちながらその映像を見ていた。
初め、それは悪魔が見るはずのない夢なのかと思った。
睡眠を必要としないはずの自分が、本物の眠りに落ちているためなのと、見慣れた景色が広がっていたためだ。
白塗りの一軒家と、その庭に咲く色とりどりの花々。そして、門扉に掛かった表札に書かれたClerkの文字。
つい先刻いた場所だというのに、涙が出るほど懐かしい。
声なき声で彼の名を呼びながら、その映像が家の中へと移動していくのを、一瞬たりとも見逃すまいと目で追い続ける。
まず目についたのは、玄関先にある見慣れない靴だった。それも、女性もののオレンジ色のヒールだ。
映像はそれを大写しにすると、ゆっくりと部屋の中を進んでいく。まるで自分が今そこにいるかと錯覚するほど、ちょうど歩いているような速度だ。
その上、進んでいくごとに映像に加えて物音までし始めた。
喧しい蝉の鳴き声が響く中、部屋を移動していくと、人の気配が近付いてくる。それはちょうど寝室からのようだった。
「あっ、あ……っ」
ドアの前までくると、女の喘ぎ声が聞こえてくる。それは明らかな行為を連想させた。
嫌だ、開けるな、引き返せと念じても意味はなく、映像はそのまま部屋の中へと入って行く。
そして、ベッドの上にいる男女の絡まる姿をねっとりと映し出した。
輝くような金髪を汗で濡らし、女の上で腰を振っている男。それは見間違いようもなく、ジャックス以外にはあり得ない。
嘘だ、嘘だと叫ぶ自分の声を聞いたかのように、ジャックスはこちらを振り返った。
その目は虚ろで、ジングの知るジャックスのものとはかけ離れていた。
そして、映像が移動し、ジャックスの下で乱れている女を映し出す。女は美しい栗色の髪を体の下に敷きながら、こちらに笑みを向けた。
酷く、人を馬鹿にしたような嘲笑を浮かべる女。その女はエレナで間違いないが、背中を虫が這いずるような強い嫌悪感と違和感を抱いた。
次第に薄れゆく映像の中で、女の高笑いが響いた気がした。
「っ……」
荒く息をつきながら目を覚ますと、全身にぐっしょりと汗を掻いていた。
一度寝たことで眠気が吹き飛んだのか、それともあの映像が強烈だったせいなのか、頭は少しばかりはっきり働くようになっている。
体のだるさも相変わらずだが、慎重に動かすと、ぎこちないながらも動かすことができた。
そこで深く息を吐き出すと、今の映像のことを考える。
眠る前に言っていたジェイマーの台詞が蘇った。
「手始めにお前が大切にする男の元に配下を送り込んでおいた。お前はその悪魔のせいで諦めて帰ってきたようだが、無理もない。奴はあの男さえ上手く騙しているようだからな。ただ、少し私情に走りすぎるきらいがあるが」
ジェイマーの配下となれば、無論それは悪魔以外にはあり得ない。あの映像が本当に今の出来事を映しているのであれば、ジャックスはそのジェイマーの配下の手に堕ちたということだ。
嫉妬で目が眩み、エレナに同胞が化けていたことに気が付かなかったというのか。
もちろん、一度は疑ったりもしたのだが、結局見抜くことができなかった。もっと冷静に考えることができていればと思うが、いくら後悔しても遅い。
ジャックスの幸せを守るつもりで離れたのが、結果として逆に不幸にしてしまったのだ。
「く……っ」
嘆いてばかりもいられないと、体を起こし、立ち上がろうと努めるが、鎖が邪魔な上に、上手く力が入らずに膝が笑ってその場に頽れた。
牢の柵を渾身の力を込めて掴み、何度も立ち上がりかけては座り込むことを繰り返す。
自分の無力さが情けなくて、悔しくて、惨めで、涙が滲んだ。
「無駄だ。お前には何もできない」
不意に、牢の外から声がした。
見上げると、美しい男が無表情で立っている。偽物だと分かっているが、そうしていると彫刻のように完璧な顔立ちが映えた。
「だま……れ」
「ここからは出られない。出られたところで、人間界には行けない。それに、その成りでは人前に出られるわけがない」
「成り……?」
「気付いていないのか。これを見ろ」
ディレルは手のひらの上に緑色の炎を起こすと、鏡のような物を生み出した。そして、それをジングの方に向ける。
「……っ」
鏡の中に映し出された自分の姿に、目を背けそうになる。
「お……い、そんな、ことをしても……無駄だ。俺は、自分の姿はいつも……こうしか見えていない」
「この鏡は、自分が周りからどう見えているかだけを映す。ちなみに俺の姿は、この完璧な見た目を保ったまま映し出される」
「そう……なのか」
「ああ。お前は元々、同胞を騙せるほど容姿を操れるわけではないが、いつもは多少は見た目を変えていた。それが、今はずっとその姿だ。ジェイマー王に力を奪われたためだろうな」
「………」
「お前はそれでも人間界に行って、その男に会いたいか?会って助けられるわけでもないのに?悪魔堕ちすると言っても、あの男も死ぬわけではない。むしろ、いっそ堕ちてくれた方がお前も」
「黙れ!あんたに……何が分かる」
力を振り絞って叫ぶと、ディレルは肩を竦めて姿を消した。
辺りに誰もいなくなった牢の中で、ジングは獣のような咆哮を上げた。
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