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 どれくらい牢の中でもがいていた頃だろうか。不意に、誰かに呼ばれた気がして顔を上げる。  しかし、辺りを見回しても誰もいない。  気のせいかと首を捻ると、牢の中にほんの微かだが光の穴のような空間が生じた。悪魔が現れる時の炎とは違い、とても温かくて優しい光だった。  その光はジャックスを連想すると同時に、どこか懐かしいような気がする。  光の中に目を凝らすと、そこは先程見ていたジャックスの家の中だった。しかし、さっきとはどうも様子が違っている。  その証拠に、部屋の中は荒れ放題で、何かの怪物が現れて爪痕を残したかのように、壁や床のそこかしこが抉られていた。さらに、見ただけでも感じられるほどの濃厚な瘴気が漂っている。  先程の映像との関連性も見えない。一体何がどうなっているのか分からずに、それでも強烈な不安が押し寄せる。 「ジャックス……!」  光の中に呼び掛けると、それに答えるように呻き声がした。  さらによくよく見ていると、散乱した物の中でも倒れた箪笥の下敷きになっている誰かの腕が見えた。  その手の中に見慣れた十字架があり、それが光を発しているのを見て、確信を抱く。 「ジャックス!」  再びあらん限りの力を振り絞って声を上げると、腕が動いてなんとか箪笥を押しのけようとしている。  少しでも手助けをしたいと思い、光の中へ手を伸ばしても空を掴むばかりだ。 「っ、くそ!」  歯噛みし、悔しがっている間に、光の中で何者かの影が現れる。 「くくくっ、私に幻術をかけて、偽物のお前と性交させるなんて、どんなすごい男かと思ったけど、大したことないわね。所詮はただのか弱い人間の男」  美しさの仮面が剥がれ、禍々しいオーラを発しながら髪の毛を逆立てている女が現れる。  その姿はもはやエレナのものではない。名前は知らないが、光の外にいながらも、その女の悪魔界での階級が上位であることがはっきりと感じられた。  「せ……きゅら……、君、は……、コーデルを……」  箪笥の下から、息も絶え絶えなジャックスの声が聞こえてくる。それを聞いて生きていることに安堵しかけたが、その女、セキュラの逆鱗に触れてしまったようだった。 「お黙り!あんな男の名前は聞きたくもないよ!あんなに……、あんなに愛し合っていたはずだったのに……、あの男は、私のこの姿を見ただけで怯え、拒んだ」  セキュラの嘆きと憎悪の籠った声を聞いていると、胸にくるものがあった。  人間であるコーデルと、悪魔であるセキュラがかつて愛し合っていたというのは驚きだが、それはちょうどジャックスと自分の関係と重なるものがあった。  同時に、コーデルがセキュラの名前を耳にしただけでのあの怯えようを思い出し、自分がもし彼女の立場ならと想像するだけで息苦しくなる。 「でも……君は、……それでも、……コーデルを……」 「ああ、そうさ。いっそ道ずれにしてしまおうと思った。だから、あの男に憑りついて、じわじわと生命力を奪った後に、私も自滅しようと思っていた。それなのに、それなのにお前たちが邪魔をした!」  セキュラは光の存在に気付いていたのか、こちらを振り返ってきっと睨みつけた。  そして、ジングと真っ直ぐに視線を合わせると、ふっと口元を歪めて笑う。その表情は、嘲笑というよりも自嘲のように見えた。 「お前も私と同じなら分かるはずだろう。その醜い姿を愛する男に晒す勇気もない。晒して嫌われたら、拒まれたらと恐れている。その恐れは杞憂なんかではない。人間は私たち悪魔よりも、もっと残酷で冷たい生き物なのさ」 「それは……」  ジングが答えようとすると、光の中からジャックスが声を張り上げる。 「駄目だ……!耳を……貸してはいけない!」 「お前は黙っていなさい!私はジングと話をしている。今すぐ私がこの手で八つ裂きにしてやりたいところだけど、もっと確実にお前を痛めつける方法を思いついたからね」  耳障りな笑い声を響かせ、セキュラはこちらに向き直る。 「さあ、お前に選択肢を与えてやろう。そこで指を咥えて、私がこの男を八つ裂きにするところを見ているか、それともお前のその手でこの男を殺してしまうか」 「………」  セキュラの強い魔力が籠った深い闇色の瞳を見ていると、それがとても甘く魅力的な言葉のように思えてくる。 「拒まれ、傷付くくらいならば、殺してしまった方がいいじゃないか。そして自分も後を追うのさ。そうしたら、いつまでもずっと一緒にいられる。おとぎ話のように、ずっとずっと幸せに暮らせる。もし拒まれなかったところで、悪魔と人間が一緒になれるわけがない。お前もそれを分かっているからこそ、この男の前から姿を消したのだろう?」 「……そう、だな……」  催眠術にかかったように、まともな思考力が奪われ、誘導されるままに頷くと、セキュラは笑みを浮かべた。 「そら、私が力を貸してやるから、そちらからこちらへ手を伸ばしなさい。こちらに連れてきてやろう。王もお前がしようとしていることを知れば、お叱りにはならないだろう」  言われるままに手を伸ばすと、セキュラが手を掴んできて、ぐいと引っ張られる。  すると、今まで自分を縛っていた枷が全て外れてしまい、光の中へと足を踏み入れた。  一瞬あまりの眩しさに目が眩んで手を翳したが、次第に目が慣れてくると、見慣れたものよりも荒れ果てたジャックスの家の中の有様が見えてきた。  一歩を踏み出そうとし、足元がふらついてへたり込もうとする。それをなんとか堪え、一歩一歩着実に足を進めた。 「ようこそ。ここの家主は私ではないが、この舞台を作り上げたのは私だから、歓迎する」  リビングの散乱した場所にセキュラが立ち、腕を広げて笑っている。 「じ……んぐ……?」  箪笥の下からジャックスの呻くような声が聞こえてきた。気配で気付いたのだろう。 「さあさあ、その箪笥をどかしてあげようか。この目にするのもおぞましい、我らの本当の姿を見るがいい」  セキュラがついと指を動かすと、重そうな箪笥は簡単に動き、ジャックスの上から取り除かれ、元あった場所に立てられた。 「ぐ……う……っ」  苦しそうに呻き、全身に傷を負いながらも、ジャックスは必死で起き上がろうとしている。 「さあ、お前も男の前に行きなさい。感動のご対面といこうじゃないか」  セキュラの楽し気な声と、優し気にさえ感じる手に押され、ジャックスの前に一歩踏み出す。 「ジャックス……ひどい、ありさまだな」  片腕を床につき、こちらに顔を向けたジャックスが、一瞬はっと目を見開く。  その目に浮かんだのは、驚愕か、恐れか、嫌悪か。  それを想像するのも嫌で、景色が、ジャックスの顔がぐにゃりと歪んだ。  止まっていた涙が再び頬を伝い、零れ落ちる。自分は今、どんなに醜く、ひどいありさまをしているのだろう。 「じ……んぐ……」  ジャックスの口から告げられる言葉の続きを聞きたくなくて、黙ってというように人差し指を当ててその唇を塞ぐ。  そして、ジャックスから目を逸らさないまま、その首筋に手を添えた。 「……っ」  ジャックスがひゅっと息を呑み、苦痛に顔を顰めるのを見ながら、少しずつ力を加えていく。  体温はまるで感じられないが、その鼓動が脈打つのを指先に感じた。ジャックスの命が、自分の手の中で消されそうになっている。 「うっ、く……」  愛してる、殺したくない。でも、もう愛し合うことは叶わない。さよならだ、ジャックス。  そう目で伝えていると、また新たな涙が流れ落ちた。 「っ……!」  その時、ふわりと、頬に触れる手の平の感触を感じた。それは間違いようもなく、優しく、慈しみに溢れた彼の手だ。 「ジャックス……っ」  驚きに目を見開くと、ジャックスはとても穏やかな表情をして、ジングに微笑みかけていた。  その目の中に自分の醜い姿が映っているというのに、そこには、恐れていたような嫌悪感も、怯えの色もなかった。  ただただ、少しも変わりなく、愛する者を見るような愛おしさに溢れた顔だ。  それを感じた途端、首を絞めていた手から力が抜け、代わりにジャックスを抱き締めようとしかけた。 「何をやっているのさ。どきなさい。お前がやらないなら、私がその男を殺してやる!」  セキュラに突き飛ばされ、怒り狂った彼女の手から放たれた黒い短剣のようなものが、真っ直ぐにジャックスの胸を目指して飛んでいく。 「危ない!!」  咄嗟にその前に飛び出し、両腕を広げて庇う。 「ジング!」  ジャックスの悲鳴のような叫び声がした時には、もうその短剣はジングの胸を貫いていた。 「ジング!しっかりするんだ!」  ジャックスの悲しみに歪んだ顔がぼやけ、遠退いていく。  薄れていく意識の中で、どうしてかこの光景に記憶の奥底を揺さぶられているような気がしていた。

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